2013年12月25日水曜日

過熱された存在は「炸裂」する、ゼロは空位のプロスペクトについて

【12月27日、改訂版】
いま日本で話題となっている数学的(・統計的)意思決定理論は、ビジネスチャンスを広げるという点で関心を持たれている。その原型イメージは、前回述べたトーマス・バイザーにまで遡るが、最近ではドイツからアメリカに移住したヘルベルト・アレキサンダー・ジモン(英語名:ハーバード・A・サイモン)の「経済システムに於ける意思決定理論」に受け継がれている。合理性の限界や不確実性を指摘しつつ、主観格率を直感的な発見術(heuristics)として見直す必要が生じた。事実、揺らぎの感情を抜きにした意思決定論は考えられない。これを受けて、複雑系マネージメントに、感情要因を計算に入れた限定合理性の研究が盛んになっている。ファジーを基にした行動経済学がそうである。数学に特化した数理経済学では、なるほど主観格率は言及されるのだが、その反面、感情要因に基づく限定合理性の追及といった側面は影を潜め、口先介入かせいぜい引き合いに出されるだけではないか。数学的格率論に的を絞った小島寛之氏の意思決定理論の研究は、その点で物足りなさを感じる。不安を抱く「現存在」の群像についてのビッグデータは、それ自体複雑系の産物である。複雑系世界の住民に「共鳴」を惹き起こすには、それなりに経験妥当な、現存在に呼びかける言葉(語頭)の工夫が必要であり、貯蓄者や消費者の主観的動機や感情移入の応用研究が不可欠となろう。メタファーは必須の道具である。安心の壁がそそり立つ岩であることを止める時、譬え言葉は対価を失い死滅しよう。
予定し選ぶ神を見失った今日の世界では、あらゆる想定外のリスクを含め、人が予想し自己責任で意思決定する。超越者抜きで自分の進む道を選ぶほかない。しかし、選ぶのは何のためか。自分を最適化しアップグレードするにしても、他者の人格存在を手段化して自己実現の目的願望を満足させるためだけではないのか?神であれ貨幣であれ、君が期待効用論に何を賭けるとしても、所詮それはマスクした功利主義(Utilitarianism)ではないのか。(中国の失敗事例!を)忘れてはいけない。主観格率は目安にすぎない。としても、不安や疑念(主観的意味)を抱かない現存在はあり得ない。ましてや集団社会に於いて、主観格率を逞しくして自利に拘る、飽くことなき神的富への欲望が、良心的期待値としてある「諒解関係」(利他行為)をひそかに排除する限り、自らの「炸裂」を待つほかない。存在は炸裂である(レヴィナス)。誰もが我先に神(叡智者)になり替わろうとする箱モノの世界(ポストモダンも神々の複雑系)では、利便性の対価はアポトーシス(apoptosis)である。
結論: 数学的推論は、理解社会学を必要とする。理由: 数字の一人歩きは、新たなリスクの始まりである。「炸裂」はゼロ地点のプロスペクト、どこにも足場がない。実数で虚空は裁断できない。反論があったら、お聞きしたい。
補足: 数字のゼロは数量が空となること。段取り記数法で空位となるだけである。存在が過熱されて膨れ上がると、中が空となる(サンスクリット語で sunya)。0や1などの記号は恣意的なので、推論する際に、比喩以上の哲学的意味付けは不要、両者を混同すべきではない。

Shigfried Mayer (宮村重徳), copyrights © all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年12月16日月曜日

数学的裁断の技、主観の虚空に確かさ(尤もらしさ)を刳り出すか

「特定秘密法案」の成立で足元が揺らぐ、不透明な民主国家存亡の浮世に、自分の決断を間違えないようにするには、どうしたらよいのか。凍るような寒さに暖を取る意味で、久々に邦書の読書三昧を満喫してみた。小島寛之氏の『数学的決断の技術』(朝日新聞出版、朝日新書、創刊七周年、20131230日刊)。これは師走前に、つまり30日の刊行日を待たずにいち早く出版された話題の書。帯には、「論理的思考が苦手な文系向け」とあるから、入門用手引き書である。
仕事・ギャンブル・さまざまな迷いごとで途方に暮れる岐路の毎日、私たちが決断を迫られ迷った時の助け舟も、(私の譬えでいえば)生地がなければ裁断のしようがない類のデータ(主観の虚空)から、「確からしさ」を刳り出し、四種の服に仕立てて見せるから面白い。いわば数学的裁断の技を教えられる点で、醍醐味十分である。
著者の理論的支柱は、ランダム事象を推計統計学的に頻度数で確率を割り出す正統派と異なり、統計学的には長く異端の系譜とされてきた「ベイズ確率」(Bayesian Probability)と「ベイズ推定」(Bayesian Statistics)にある。ドイツ語でこれは、Bayesscher Wahrscheinlichkeitsbegriff という。イギリスの長老派教会の牧師で数学者トーマス・ベイズ(Thomas Bayes, 1701-1761)の「主観格率」は、信念や信用・信仰で形態の違いを問わず、一見カオスでしかない主観的ビッグデータから、「尤(もっと)もらしい」モノの働きを導き出す画期的な方法(「最尤法」さいゆうほう、the Maximum Likelihood Estimation, MLE)として知られる。今日では斬新なコンピュータ技術を使った医療分野などで、幅広い応用研究事例を生み出している。(数式は難しくないが、説明すると長くなるので割愛する。)
経験妥当な法則を求めるにしても、主観的意味の探求(行為の格率論, Maxime)を忘れてはいけないと教えたのは、ヴェーバーである。その理解社会学とは全く別の仕方で、ベイズは「主観的確率」(Subjective Probability)のノーハウを教える。意思決定の基準として、四つのタイプが挙げられている(自分の思考の癖が分かる、そこは読んでのお楽しみ)。「期待値」云々の論証は蓋然性を導き出すための工夫、経済学を含む社会学自体の課題である。ケインズの経済理論だけでない、パスカルの神存在証明をも取り上げて、ずばり期待効用理論の最大値に「賭ける」ものと見破られる。パスカル教徒も真っ青に違いない。実に痛快である。心理物理的な発想に基づくブレンターノの「限界効用理論」には否定的だったマックス・ヴェーバー(学会)も、これなら納得して取り上げてくれるかもしれない。
転換の世紀を乗り切るために、一読をお勧めする。君たちが真にビッグデータサイエンティストたらんとすれば、パスモの屑情報の処理などかなぐり捨てて、生身に迫るこのような数学的アプローチに学んだらいい。収穫は大である。(個人的には、牧師にもベイズのような人がいたということは、驚きであり感無量である)。
追記: 小島氏の評価については、全部を読んでみないとわからない。主観的確率と道徳的格率の違いについては、別途に論じる。12月22日更新

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2013年12月5日木曜日

「瓢箪から駒」の茶番劇、今は夜の何時か、見張りの人に尋ねてよ

  誰が予想しえたか、力任せに「瓢箪(ひょうたん)から駒」(Aus Scherz wird Ernst)を演出する首相がいようとは。デモクラシーを骨抜きにしかねない、安部晋三首相の「まさか」の乱暴に、感心している暇はない。福島瑞穂議員の厳しい追及にも、平然と嘘を通し頬かむりして憚らないその不敵さに、只々国民は唖然としている。その強引な国会運営は、新たなミリタリズム時代の幕開けを不気味に暗示していよう。一時の巧みな経済政策の成功によって、選挙民の人気を一気に掌握した、神をも黙らせたあの暗いNS時代を再現するかのようにだ! 虚空からの出立までまだ幾千里、虚無への陥落まであと一歩である。「見張りの人よ、今は夜の何時(なんどき)か。見張りの人よ、今は夜の何時なのか」(イザヤ書21章11節)。時のしるしをしっかりと読んで、自ら考え行動する人はいないのか?若者たち、他でもない、問われているのは君たちのことだ(Tur res agitur!)。
追記:「瓢箪から駒」という故事ことわざは、半分冗談のつもりで言っていたことが実現すること。そこまで予想しなかった「まさか」の期待が実現され、内に秘めた国民の期待・心に刺さる憂慮・言い難い深い思いに応えられる、意外性のある政治を望みたい。ところが、今の政局はその反対に、強権的な政治劇を演じている。国民が望みもしないのに、各方面から指摘されている問題性を不問にしたまま、怪しげな安全保障の旗印の下、チェックの効かない軍事体制が今実現しようとしている。「瓢箪から駒」を本義に戻し、本末転倒の茶番劇に杭を打ち込み、醜聞の国政に楔を打つ警句か、世界平和(シャローム)を本望とする人にもたらされる、意外性に満ちた贈与への驚き(Staunen)として覚えておきたい。(12月11日更新)
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2013年11月26日火曜日

特定機密法案に反対します。強行採決に抗を、暴走する車輪に楔を!

 これは何の法案でしょうか?軍事国家への布石でしょうか?誰が何を何のためにどこまでを機密扱いととするのか、一切を曖昧の儘にして採決を強行するとは、真実を知る国民の権利を封殺し目晦ましをする、主権在民の原則を頭から否定する許しがたい暴挙的事件です。何を基準にそう判断するのか、第三者監察機関はどうなるのか、肝心な点を不明な儘に審議未了で強行採決することは、考える国民を蔑にし真剣に問う民衆(人格存在)を侮辱していると言わざるを得ません。
 若者たちよ、原発再稼働の問題と同様、無関心を装ってはいけません。快適なスマートフォンにうつつを抜かして、なし崩しに悪に打ち負かされるようであってはいけない。善きモノを欲して、平和の壁を背に敢然と抗議行動しなさい。
 父たちよ、一時の経済的うるおいに騙されず、兵役に引かれ行く子らのことを思って、国家の暴走に対してはきっぱりノーと言うべきです。「強行採決」には、断固として「無効!」の声を挙げて杭を打ち、「暴走する車の車輪に楔を」!打たなくてはいけません。たとえ、中国の挑発が目に余ると言えども。
 子たちよ、特定機密法案は戦争準備の法案です。戦争に及んで自らの手を血に染めるのがいやなら、正直にいやだと言いなさい!平和憲法を捨ててまで曖昧で怪しげな法案を通しても、得るところは何もない。そうでしょう?自分たちにつけを回すな、言論の自由が平等に保証される権利・命の平和を願う権利を奪うなと、声高に叫びなさい!(12月7日更新)
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2013年11月21日木曜日

「逆比の思考」で理解社会学する、次研究会再開予告

 ドイツ語での論文執筆もいよいよ佳境に入り、上々の仕上がり具合です。日本語で書くものには曖昧な点が多いので、あえて欧米語でテーゼ表を書いてみる。すると、思考回路が整理できる・論点が正確に絞れるのでありがたい。論文を書くときには、いつもこの「逆比の手法」を重宝しています。改めてこれを邦訳すると、それまでになかった目線(第三の解釈項)が加わるので、自筆ながら違った作品になるはず。次のステップアップが楽しみになってきました。
 さて、7月以降中断していた研究会活動は、まもなく再開します。具体的なことは、12月29日(日)に予定している年次総会で相談して決めるつもりですが、新年度から社会学本来の課題に立ち戻って、アンソニー・ギデンスの『社会学の新しい方法基準‐理解社会学の共感的批判』(1987年)を原書で読み合わせることから始めます。今日、理解社会学を代表する人ですので、いろいろな面で学ばされることが多く、為になると思います。ギデンスは、数年前来日した際に法政大学大原社会問題研究所でも講演したことがあるので、ご承知の方も多いでしょう。
 普段は「原資料のみ読んで参考書は読まない・読ませない」ことを信条としている私ですが、これを抜きにしては理解社会学の未来が語れないのでいいでしょう。たまには逆比の発想で、メソッド(方法論)を論じるのも悪くない。あくまで、ひ弱で腰砕けのメソジストにならない為です。
 原書は英語版のAnthony Giddens, New Rules of Sociological Method: A Positive Critique of Interpretative Sociologies, (Hutchinson, 1976, 2nd ed.1993, in the USA, Stanford University Press, California 1993). ドイツ語版は: Interpretative Soziologie : eine kritische Einführung. Frankfurt am Main ; New York : Campus, cop. 1984 (Campus Studium 557).のいずれかをご持参ください。英語もドイツ語もダメだという人は、邦訳書をお持ちになって参加していただいてもかまいません。考える頭と有るが儘の自分だけで十分だ、「哲学(書)なんかいらない」・まして翻訳(外国書)なんかくそくらえと考えている人(尊王はともかく攘夷にはやる諸君)は、どうぞ手ぶらでおいでください。
 旧来の「哲学と神学」解釈学から「理解と解釈」社会学への転換を目指してきた手順も、その中で明らかになるでしょう。参加希望の方は、前もってメールで申し込んでください。飛び込みでもかまいませんが ...受講者・聴講者を予め把握しておきたいので、よろしくお願い申し上げます。参加費は無料です。日時については、後でご連絡いたします。

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2013年11月18日月曜日

秋の特別集会、講演会のお知らせ(掲示板 2013年第2号)




行き方:京成本線お花茶屋駅北口下車、堀切菖蒲園方面へ80メートル戻り、東光幼稚園先を右折し一つ目の角を左へ、角より二軒目がそれ。

           

2013年11月2日土曜日

怪人オペラは代役者 (?)、日雇い職人の失踪とグーグル化の功罪

【11月7日更新】
 3年前には、働き蜂世代の高齢者が失踪する事件があった。今日では様相が少し異なる。正規であれ非正規であれ、世代や年齢を問わず、職人や労働者(opera-rius)が仕事場を失い、いつの間にかいなくなる・失踪するという話が、最近身近によく聞かれる。働きまた仕事はオペラ(operaまたは opus)という。ドイツ語でオペラは「歌劇」となるが、ここでの話題はオペラ座の怪人劇と直接の関係にはない。失踪事件についての詳しい実態は、後で調べて報告することにしよう。今回は、それにまつわる別の話題を取り上げる。
オペレーション(Operation)という言葉を知っているかな。オープス(仕事)を積み重ね、オペラ(製品)に仕上げる職人の作業だね。オペラと言えば、長い間重用(ちょうよう)してきたブローザーのオペラ(Opera)の調子が、最近どこかおかしい。しばらく前から、オペラに備え付きのグーグル検索で日本語の文字を入力しようとすると、漢字変換がうまくいかない。子音と母音がバラバラに(例えば、宮は「m_い、y_あ」、記録は「k_い、r_お、k_う」)と表記されていた。それでも検索結果は正しく表示されていたので放置していたら、いつの間にか不具合は修正されている。
ところがである。最新版のオペラ (17.0.1241.53) で、変換の不具合が修正されたのはいい。しかし自分の履歴を残せない、足跡が消滅してIDを確認できない。よくみると、グーグルの履歴になっている。つまり、オペラがオペラとして認識されていない、グーグルとしてのみ認知されているということだ。さっそく原因をリソースで詳しく調べてみると、グーグルのそれとそっくりに書き換えられている。意図的に、そういう仕様に造り替えられたのだろうか。アクターであることをやめてエージェントに成り下がったか、まさか身売りしたわけでもあるまい。なにもそこまでしなくてもいいのでは、という思いを募らせるのは私だけだろうか。
グーグルと同じモジラのリソース(IDは同じMozilla 5.0)であるとしても、これは仮の話であくまでも推測だが、手直しの結果が全面的にグーグル化されて、フェイスの個性IDを失い自己消滅してしまうというのでは、あまりに悲しい。同じモジラ系のファイヤ・フォックスでさえ、頻繁に改訂しても認識IDだけはきちんと確保しており、履歴の処理はユーザーに任されている。なぜ「オペラの怪人」は、一級労働者の失踪事件よろしく、自分のIDを明け渡して姿を消してしまう(或いはそのように見せる)必要性があったのだろうか。残るはオペラ(製品としての労働者)の仮面だけで、あとはキャピタルゲイン(利益確保)に奔走するグーグル(資本家・経営者)のトルソー(胴体)でしかないのだとすると、どうしたんだ!と叫びたくもなる。
(補足; 私自身、履歴は努めて消すようにしているので、どちらでもいい話ではあるが、認識IDに関する限り、長年にわたるオペラの愛好者として、また「日雇い職人・非正規労働者」(オペラーリウス)の立場を案じる身としては、気になる、笑えない、聞き捨てならない話だ。)

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2013年10月16日水曜日

いい加減「そのつもり」をやめないと、「ぶりっ子」では一生埒が明かないよ

【10月22日(火)、2014年3月12日(水)更新】
最近、大学生に限らず小中高生を指導する機会が増えた。そこで気づいたことがある。わかった「ふり」をする、またはわかった「つもり」でいる、ふり・つもりでその場をしのぐ学生や生徒たち、「ぶりっ子」(江口寿史)が非常に多い。なぜだろうか。中には、お世話になっている両親や先生には迷惑をかけたくないという、優しい気持ちからそうしている子も確かにいる。でも、大半はよい子ぶってそうしている。わかったふりをしていると、何も新たに学べない。わかったつもりでいると、学ぶべきポイントを見逃してしまう。だから、(絶対評価でも)成績が伸びないのは当然である。
おそらく、彼らが就職して社会人になっても、同じことの繰り返しになるのではないか、と危惧している。一応考えたつもり、わかったつもりで対応している内に、役に立たない奴だと見捨てられよう。そう、「ふり」や「つもり」は見せかけ(建前上)のことだから、本音では上の空、現に何の成果も期待できない。ならばいっそのこと、自由人のふり・つもり(未成年状態)をやめて、成人した自由人で有る「かのように」振舞う覚悟を決めてはどうか。「かのように」とは、森鴎外の小説でもあるように、現実ではまだそうでないのに、すでにそうであるもの「として」自分を見なし、そのように見なされた自分(社会的自己)を引き受けることで考える我を取り戻し、見せかけの自分(未成年状態)とは手を切る、即刻おさらばすることだ。
ただ教育の上では、子どもたちを「その気にさせる」必要があろう。背伸びしてもらわないと、成人にはなれない。彼らが社会人になった後では、自分の言動に責任を持たせる意味で、個人レベルでの「自己言及性」が問われる。しかし、肝心の社会的自己が曖昧だと、仕掛ける方も仕掛けられる方も同じ穴の貉(むじな)となり、、一緒に罠にはまって抜け出せなくなる。とにかく、国民を「その気・そのつもり」にさせないと、政治も経済もうまくいかない。さぁ、ここが考えどころ。では、大人げない騙しあいに終わらせないためには、どうしたらいいのか。「ふり・つもり」の実態はともかく、実際にその気になって行動をするかどうか、最後は「自己言及性」を引き受ける諸君の覚悟性如何だろう。
宗教的ゲマインシャフト(お寺や神社や教会)でも同じ。「我、知らんがために信ず」(Credo ut Intelligam)というアンセルムスの言葉がある。しかし、信じてもわかったつもりで終わっているケースが多い。牧師でも信徒でも同じ。わかったふり・悟ったつもりの顔(マスク)をして、偉そうに先生ぶったりよい子ぶったりしていると、君は思わぬしっぺ返しを食らう。信じているとは口先だけで、神や仏のことを真面(まとも)に考えることをしない。まして、真理のことなど深く追及しない。だから、一向に討議も交わりも深まらない。その方が楽ちんだから、考えることなどしない、とっくにやめている。パウロは口やかましいから嫌だとか、「赤肉団上」(臨済)の真剣勝負は疲れるからと嫌々している内に、木偶の坊か唐変木になる。仏や神を「信じる」と言いながら何も「考える」ことなく、自然と恩寵の一見矛盾した働きのなぜを問わずにいるとね。単なる無為無策と「安心無為」とは違うよ。やはり、「つもり」の本気を行為で確かめ合う、壁周りの切磋琢磨がないと、どこかタガが緩んで無責任になる。緩みがひどいと何を言っても不毛だから、お尻を叩いてもらうか喝を入れてもらわない限り、とても「諒解関係」(ヴェーバー)など育たない。その点で、禅だけは違うのだろうか。「考え中」を理由にもたついていると、即座に棒で一発叩かれるか、お叱りの一喝を食らう。手痛くても、実にありがたい(笑)。

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2013年10月2日水曜日

寒露の季節、旧稿に「大なた」、新稿に「大わらわ」の近況報告

秋分の日(9月25日)はとっくに過ぎて、寒露の季節(10月8日から)となりましたね。見渡せば、いつの間にか、至るところが秋の深まりを色濃く感じさせる今日この頃。私が今していることといえば、一昨年のプラハ講演の原稿に「大なた」をふるい、新たな論文(書き下ろしの新稿)に仕上げるために「大わらわ」の毎日。長年の課題だった「史的ダルマの壁観」について総括する傍ら、「一般社会学言論講義」の草稿造りに、余念なく溌剌として取り組んでいます。そのせいか、とにかくお腹が減ります(笑)。
ところで、大わらわは漢字で「大童」と綴ります。武士が戦場で「髪を振り乱して奮闘する」ように、企業戦士が「形振り構わず仕事に打ち込む様子」を表しています。それにしても、なぜ「大童」と書くのか、三省堂の『漢字海』で調べても、肝心の記述はどこにも見当たりません。『平家物語』に、「兜も落ちて、おほわらわになり給ふ」とあります。「童」は「わらべ・わらわ」の読みなので、子どもが我を忘れ夢中になると髪が乱れることから、大人が兜を脱いで大の童よろしく、髪を振り乱し夢中になって仕事に取り組んでいる姿を、大人げなく燥(はしゃ)いでいると、揶揄しているのでしょうか。語源辞典では、「童」は3歳から10歳くらいの元服前の子供で、髪を束ねないで垂らしている姿を指すとのこと。髪の乱れの形容から生まれた言葉だったんですね。他方、「童」にはなぜか「頭髪が抜け落ちている」という意味もあるようで、抜け毛が気になる私には、こちらも気にはなりますが(笑)。
 それはともかく、年内に論文をドイツ語で完成させる緊急の必要性があり(大学の紀要掲載は2014年6月予定)、ブログ記事に時間を割く機会が減りそうです。そのため、師走に予定している年次総会を除き、毎月開かれている理解社会学研究所の読書会等は、しばし休会とさせていただきます。ご了解ください。(10月8日更新)


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2013年9月18日水曜日

《手作業》で楽しむモノ造りの原点、XPをセブン化する(改造マニュアル)

【9月27日(金)更新】
書斎兼事務所には、まだ3台のXPマシーンがある。その内、最近まで使用していた旧主力マシーンを Windows 7 に改造した。マザーボードはAsus製(B85M-E)、その他必要な部品をドスパラで買い集め、すべて手作業で組み上げた。マニュアルを手順と言うが、手順書にこだわらず、長年培ってきたプロ並みの勘と技術で、6日間で仕上げた。久々に味わうモノ造りの充実感だ。
8年間使って金属疲労を見せていた旧主力機が、Windows 7 Pro の翼をつけて、いま見事なフェニックスの雄姿を見せ始める。筐体が Muse なので、雄姿というより見た目にかわいらしい飛鳥のイメージ。メモリーも8ギガに増やし、新たに購入したMicrosoft Office Pro に一新して執筆環境は整い、研究書の再版・新版に向けて内実共に意気揚々である。
三菱のブラン管モニターは3年前にすでに壊れ、頼みとしてきたNanao FlexScanモニターも1年前からお疲れで半壊状態。高価な国産品に買い替える余裕なく、安価な(韓国製LGと台湾製ACERの)液晶モニターを二つ購入する。世を挙げてみんなが、やれi-Phone だやれi-Padだと騒ぐ中、働くモノを見る手動環境は一応整った。唯一の贅沢品は、GoForce GTX 650チップのグラフィックボード(LEADTEK)。今のところ、これで満足している。残る2台のXPマシーンは、いずれ年内にリナックスで再構築する予定。
改造に際して予期せぬ事態が幾つかあった。一つは、Win 7 の設定ファイルデータをバックアップしておいたのに、Win 7 Proではこれが認識されず大半復元できなかったこと。泣く泣く(内心では、しめしめと笑みを湛えて)ソフトはすべて手動で再インストールした。手動は確かに面倒だったが、それはそれ、けっこう愉しみガイのある作業だった。結果は良好、実は古いソフト(大半は32ビット対応)は新しいOS環境(64ビット)下で使えないものが多い。必要なものだけを再インストールすることで、レジストリー関連で無駄がなくなり、その分スリム化し動作が軽快になった点はいい。二点目は、XPでアンインストールするのを忘れていたために、版権上の理由から幾つかのソフトを買い替えなければならなかった。三点目は、ドキュメントの所有権を刷新したので、元に戻せないなどなど。今更二重ブートにしても、どうなるものか疑心暗鬼している。
改造の注意点: くれぐれも上書きインストールしないように!ドライバーの違いなどからトラブルの元となる。またXP自体の改造より、Win7が動作する環境を先に作る(新しいHDにクリーンインストールする)こと、これが一番安全で最も基本的なコンセプト。その後で、XPで使用していたHDを繋いで、データを移行すればいい。但し、最近のマザーボードにはSerialATAのコネクタしかないので、XPで使っていたIDE-HDが繋げない。そこで、Centuryから販売されている IDE-SATA変換アダプターを使って繋いでみた。しばらくはうまくいっていたが、時々認識されなくなる現象が起きるようになった。つまり、ドライブが見えたり消えたりの大忙し(*)。何とか必要なデータだけはコピーして取り出したが、トラブルがあったと言えば、これくらいである。
結論、①手作業(ハンドワーク)はモノ造りの原点である。工作は楽しいから、ホモ・ファーベル(homo faber)で有ることは一生やめられない(笑)。それは働くヒト自身の改造にも係わること、君たちにもお勧めしたい。便利なスマートフォンで鈍った悟性(理解し判別する力)がリフレッシュされよう。②引っ越しお任せソフトは一切使用せずにすべて手作業で済ませたので、経済効果は抜群。浮いた資金は次に備え貯蓄できた。トータルで部品の7万円+ソフトの2万円=計9万円の出費だが、ショップで完成品を買えば18万円を下らない、付加価値の高い立派なものに仕上がった。手作業が節約に役立ったことは、言うまでもない。
(*)対策として、MCO㈱ミヨシのSATAケーブルを新たに購入し、付属していた脱落防止用のタグをつけたら、その後比較的安定している。

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2013年9月4日水曜日

一杯の茶でブレイクする新たな世界、詩人・塔和子さん追悼記

 2013828日、ハンセン氏病の詩人・塔和子さんが、83歳で逝去された。心より、追悼の意を表したい(9月6日更新、データ補正)。
 振り返れば、あれは196312月のこと、わたしが高校生で若年18歳、クリスマス祝会を開くために大島青松園を訪れた時、あなたは一夜明けて次の日に、わたしを自宅に招待してくれた。洗礼を受けられる一年前、クリスマスの祝日でしたね。何気なく差し出された茶碗に手を付けて、ためらいつつも飲んだわたしを、固唾を飲んで見守ってくれた塔さんの、あの熱い眼差しを忘れることができない。菌が外に出ないという意味で健常者の扱いを受けているとしても、その人の茶碗で飲み物を口にすることは危険だとされ、少なくともひどく憚られていたから。誰がためらわないでおれようか。
 一瞬のためらいにも、薬師の神を信じあなたを信頼して茶を飲んだ(未成年で怖いもの知らずの)僕を、驚きを隠さず目を細めて見守ってくれた。塔和子さん、心を揺さぶるたくさんの詩をありがとう。安らかに眠れや主のひざ元で、天窓の星の光となって輝けよ、闇夜に舞う風光の美・いのちの詩を歌うあなたの声を、いつまでも天地に響かせ僕たちに聞かせてよ。

 朽ち行く存在の深み(混沌の淵源)を看破し、無の苦衷から命を謳い上げる(「本質から湧く言葉で」、大岡信)謳う詩が数多くある中、今でも私の心に刺さる塔さんの詩、「新しい世界」は一見何の変哲もない詩のようだが、自分の殻を破れずに鬱に陥り、四方壁の孤独な世界に引きこもる君、就活で疲れ路頭に迷い立ち竦んでいる君たちへのメッセージだろう。破って飛び出そうとしても、(当時は)不治の病のため一歩も島の外に出ることが許されなかった人の歌である。
 
*詩のモティーフとなっている聖書の言葉、マタイによる福音書9章16-17節については、2010年12月に投稿した5番目のブログ「ワイナリー革新の技法」を参照のこと。
「破る」はブレイク、「破れた」はブロークン。「破って出る」はブレイク・スルー。その意味で何度も読み返してみて欲しい
(以下は『いのちの詩』から、塔和子詩選集、編集工房ノア、2003年、41-43頁)
 
 「新しい世界」


破れたものは
繕わぬがいい
繕ったところで醜さばかりが残る

太陽は雲を破って光りを漏らし
蝉は殻を破って飛び立つ
私は心の破れ目から言葉を引っ張り出す

物の破ればかり繕っている貧乏所帯も
破って飛び出すところがあれば
破るにこしたことはない

破る破れ
破り破れる
破って捨てよう合わなくなった小さな服
小さな城
破って飛び出さなければ
自分が縮むだけだ
破ったら
破ったものは気前よく捨てよう
破れた夢も
壊れた話も
夢よもう一度などと
みみっちいことを言うな
出てきたところは
いつも
 新しい世界だ

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku 

2013年8月25日日曜日

世代を繋ぐコンセントプラグに異変、スマート化で何がショートするの?

【9月4日(水)更新】
 厳しい残暑が続きますね。今回のブログの話題は、暑さしのぎに軽めのPPsP(パチンコ・パソコン・スマートフォン)。世代を繋ぐコンセントプラグ3Pに異変が。中落ちして、3相交流から2極接地へ還帰する?情報機器のスマート化(smartening up)が進む中で、いわゆる3Pがショートしてピンハネされるという、夏夜の怖いお話(笑)をひとつ。
 パチンコの原型はピンボールで、コリントゲームと呼ばれている。昭和初期に実用化されたモデルは、実は子供の遊び道具だった。球がお星様やお月様の穴に入ると、キャラメルなど菓子類が出てくるので、玉遊戯菓子販売機という。それがいつしか憂さ晴らしする大人の遊び道具になった。何とも、不思議ですね。今では、スマートボールに同じ昭和の名残が見受けられます。
 余りがジャラジャラ出るようでないと、豊かさは実感できない?のだという。本当だろうか。無暗に打っていれば、いつかは球が目当てのホールに入るに違いないと信じて疑わない人が多い。実際は、釘目(特定ピン)の傾き加減で流れが変わり、入るか入らないかが決まっているようです。無暗にと言っても、それなりに手触りの経験則に従った確率論の一種なんでしょうが。
 無暗によいしょ(いいねボタンを押)していれば、いつかは素敵な人と出会えると信じているフェイスブックの愛好者に似ていないとは言えない。打てば小槌の効用は西洋釘にない、和釘でも使わないと、念願の友との出会いは叶わず、絆はうまくいかない。無暗に財政出動していれば、いつしか景気は持ち直してくれようと固く信じて疑わないのも同様で、国民をばかにした阿部政権の経済政策に、どんな釘が必要且つ有効だろうか。歯止めが効かなくなる前に、壁面して冷静に考えてみるべきでしょう。
 IBMPC互換の重厚なパソコン装置(PC文化)の凋落だけが目につく中で、パチンコ文化とスマートフォン世代がなぜか軽快に躍動し、2極接地で奇妙に共存しています。(球を)打つと(パネルを)タッチするのにアナログとデジタルの差はありますが、またセンサーの感度も比較にならないとしても、基本的なコンセント機能では同じ、最後はショートするかピンハネされる。機械言語の不足分をタッチセンサーで補うとしても、諒解言語(コンセンサス)を理解しないユーザー(プラグインする人)の存在が、見た目には自由になったようでも、相変わらず不自由のままネットを漂流しているのではないか。自由になりたいともがけばもがくほど、プラグの紐がピンに絡まって身動きが取れなくなる(依存症に陥る)のではと心配でならない。
 (神を、或いは何も)考えずに済む自由は、人で有ることの忘却である。結論:手先の感触に惑わされてはいけない。中落ちせず(スマホに委ねず、暗算に頼らず、途中式を書き出して、約分した残りがないかを自分で確かめられるよう)、考える人が要請されています。
 但し、トータルで = 0 にならないと、二次方程式*は成り立ちません。変形** して平方完成すると、同じ数値で±がつく二つの根が得られます。さて、機器をスマート化する(smarten up)ことで、左辺の存在要件(大抵は3項式)をショートさせないためには、右辺の無(= 0)と向き合う思索と工夫が欠かせません。いいですか、最後はイコール・ゼロとなるかどうか、天秤にかけて自分(の存在意味)を量る等式の問題です。円錐曲線を扱う三次方程式でも、基本は同じです。但し、根は三つになります。
 因みに、Smarten upの意味は、「こぎれいにする」こと。ドイツ語では、heraus-putzen です。結果として頭脳を「賢くする」。でも、注意してください。パネルを無暗にタッチするだけでは、賢くなりません。かえって、お任せでは愚かになる。スマホが大好きで手放せない君たちには、きっと反論か何か違った意見があるはず。質問はいたってシンプル、スマート化で何がショート(短絡・脱落)するのか?です。では、お聞きしましょう。さぁ、どうぞ。
 脚注: 二次方程式の基本形と別形、第一の基本形では二つの根は別の数値、第二の変形では同じ数値の±α
ax^2 + bx + c = 0,  ** x^2 + px + q = 0、これを\left( x - \alpha \right)^2の形に変えて平方完成する。わからないときは、解の公式を使うこと。

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2013年8月7日水曜日

君は平和のプライムナンバー、ペアの素数となって輝けよ

Be a Prime-number of Peace!
初めに、68年前に広島・長崎に投下された原爆のゆえに、亡くなられた方々のご冥福を、残されたご遺族の皆様に神のご加護を祈りたい。原爆の犠牲者は、忘れてはならない歴史の記憶、戦争を憎み平和を恋い慕う命の栞である。一昨年に起きた福島第一原発の被害も、疑いなくその延長線上にある。(8月15日更新)。
 
 富に目が眩めば、血肉・骨肉・霊肉の戦い止まず、惨事は収束しない。国民諸君、二度と戦争を望まずの固い誓いはどこに行ったの?原爆禁止は原発禁止の願いでなくて何であろうか。汚染された土と水が増え続けて処理能力が明日にもマージンに達し、東日本海岸全域が汚染された地下水に浸され全土が水没しようというのに、君たちはいつまで指をくわえたまま、原発産業(いつでも転換可能な軍需産業!)の余剰の富にだけ目が眩んで、いったい何を追い続けるつもりなのか。「強い日本」を夢見て軍事国家への道を邁進する、アベノミクスの危険な賭けは、財務大臣麻生太郎氏のお粗末でケチな(=出し惜しみした)ナチス発言を遥かに上回る、平和国家でない好戦国家へのあからさまな願望・挑戦ではないか。阿部晋三首相、平和立国を願った戦後68年があたかも無駄であったかのように、(真に平和を望む国民の神的)存在を忘れてどこに行くの?羊と狼のマスク(仮面)を巧みに使い分けていても、いずれマスクは容赦なく背後から剝ぎ取られ、改憲を名目とし隠れ蓑とするファッショ的存在者の素顔は暴かれよう。若者たちを見くびってはいけない。
 若者よ、有り余るモノ(余剰)を期待する前に、自分たちにとって和音の素となる数、比の一の値を探し出せ。あえて平和のプライムナンバー(双子素数)*たれ、非核運動を担うしんがりの素子となって、互いのフェイスを輝かせよ。君たちに与えるアドバイスはこれしかない。原発再稼働だけは容認していけないよ!目先の富(ばら撒かれる貨幣)に目が眩まされないようにするには(これしかない)、人に欠けたる最高の富・豊かさの記号として「神を考える」こと、不在なる仕方・無として己を働かせるモノの如何にを理解することから始める他にない。(フォイエルバッハ、マルクス、ハイデガーの再読は必須!、私にとっては「臍(ほぞ)の峠・キリストへの長い道のり」。)
* 脚注:プライムナンバー(Prime Number)とは、1とその数以外は正の約数が存在しない(割り切れない)自然数で、無限に存在すると考えられている。すでに、ユークリッドによって証明されている。もちろん、同名の競走馬とは無関係。素数でない数は合成数と言われる。双子素数(Twin Prime Number)は、現代数学でも未解決の魅力ある思考課題。ツィンとなる数に(3, 5)(5, 7)(11, 13)などがある。2以外はすべて奇数だが、差が2であるようなペアの素数であればいい。素子は電子回路の用語、素数は数学用語で領野は異なるが、あくまで代えがたい個の働きを語らせる算術のメタファーである。

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2013年7月27日土曜日

鉋削りの花鰹、色味出して迷いなく

【7月30日(火)更新】
  参議院選挙の戦いは、社民党や民主党にとって亡国の調べだったのでしょうか。それとも、(みんなの党や共産党のように)元気印の持ち直しを図るきっかけは掴めるでしょうか。削り節の味わい深い庶民的政策、国民的センスを理解する政党の復活・立て直しを期待したい。「官僚依存からの脱却」を謳うには、まだ不器用で未成熟だったという強い反省を込めて ...、

水無月や、鉋削り(かんなけずり)の花鰹(はながつお)、色味出して何の迷いなく
(短歌:安行鴫子、文責:シュテファニー・クレメンス)

2013年7月15日月曜日

ビッグデータの鉋屑より、切り株の木目となれや一本松

   Achtung vor einem gekauften Beifallklatscher!, [11. December 更新]
 
 今流行(はやり)の便利な情報機器を手にしながら、大切な個人情報をビッグデータの鉋屑(かんなくず)にされないようにするには、何をどうしたらよいか。誰もが不安であろう。ビッグデータとは、消費者行動を追跡した膨大な生のデータで、一見脈絡のないデータを分析して、新たなセールスチャンスを生み出すよう巧みに加工される。消費者の個人情報が含まれるので、当然セキュリティー維持と個人情報保護の面で、管理には多大なリスクが伴う。注意すべき点をいくつか挙げる。
 個人の履歴を残さない。その都度削除するか、予めプライベートプラウザにしておく。それでも、特定のサーバーにアクセスした・しなかったの履歴がクラウドに残るので、利用を禁止する手立てはない。個人の存在価値は情報で決まるものではないが、左右されるケースが多いので要注意だ。個人情報が漏えいした場合(それ自体あってはならないケース)に備えて、法的に訴える権利を有することを覚え、決して諦めないこと。漏洩する側が匿名の場合は訴追のしようがないが、企業相手なら事情が異なる。
 消費者である個人の位置情報や趣向情報を収集し管理する企業に対しては、①通知(Notice)、②同意(Consent)、③透明(Transparency)の三大原則に沿って、消費者に対して明瞭で判断しやすいポリシー提示の上、プライバシー保護を実践していくことが強く求められる。しかし、「一般的同意」では曖昧で不確実、「暗黙の了解」と混同されやすく、容易に騙される。今一度、個人と集団を束ねるネットワーク時代の「諒解行為」(Verständnis-handeln)がどうあるべきか、よく考えてみて欲しい!
 ビッグデータだから信憑性(Authenticity)があるとは言えないが、データサイエンティストの腕技次第で価値ある生の情報源となりえる。無作為に混入している「さくら」情報([act as] a Decoy, ein gekaufter Beifall-klatscher)を疑っていたらきりがない。ツイッターにしても然り、任意の会社が付加価値を持たせて発信した「やらせ」ものでないか、ネット選挙に関しても然り、政党が選挙用に流している情報でないのかどうか、吟味すべきは当然であろう。そもそも、ビッグデータは情報の共有価値・金銭的な交換価値を考えて機械的に吸い上げられたものが多く、公共性の名目で政党や企業の利便性が優先される限り、個人の要件(人格の尊厳性)は後回しにされるので、セキュリティーは保障外であろう。
 それでも、君が政治家なら「主権在民」の原則に立ち返り、国民一人一人の関心と存在価値を多様に束ねるモノの働きを、ビッグデータに読み取りカスタマイズすることで、共感の波を起こす的確なメッセージを創案することができようが、公私混同の危険は常に付きまとう。国民諸君に対しては、機械的なロボット検索を信用するな!巧妙な囮サイト(後見人になりすました政党や企業、宗教団体)に判断を委ねず、与えられた悟性を使ってよく考え自ら分別せよ!と言っておきたい。ビッグデータの鉋屑となるより、切り株の木目となる勇気を以て。最後は、君たち自身が生のデータを織物にして発信する存在(ヴェップ上の主権者)であればいい。陸前高田に残った「奇跡の一本松」のように。すると、君たちを抜きにして為政者は何もできない、君たちの声を無視しては誰も語れなくなる。
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2013年7月11日木曜日

窓はあってもトイレがない、経済のジレンマと社会の断末魔

【7月13日更新、参院選へ向けて】
 ニューズウイーク誌のコラムニスト池田信夫氏が、2012年10月19日の「エコノMIX異論正論」で、原発は「トイレのないマンションか」と問うておられる。かつて「夢の燃料」とまで持て囃された原発だが、無限に増え続ける汚染された排泄物、見えざる無臭の危険物を収納する専用トイレがない。もはや「トイレのないマンション」では済まない、誰もリスクを負えない最終レベルの問題を提起している。高レベル放射性廃棄物を「地層処分」する・地中深くに埋めるというのは、「仮設トイレ」の話である。すぐ満杯になることは目に見えている。私見だが、このまま原発を稼働させることは、一時的な経済的利便性と引き換えに、生命の惑星である地球という大地を「地雷原化」するようなものだ。いつどこで暴発するか誰にも予想できず、被害の規模も想定不可能である。まずもって一万年単位のシナリオを想定し管理する能力は、今の人類にはない。トラウマとなるリスクだけがあって、人類滅亡の引き金とならない保証は全くない。窓はあってもトイレがない、経済のジレンマは社会の断末魔である。
 第二次阿部内閣が推進する「三本の矢」を旗印にした経済と金融政策、いわゆるアベノミクスは、デフレ脱却を名目として「政官業一体」で為されている限り成功しているように見える(確かに、「官僚依存からの脱却」を目指していた民主党政権にはできなかったことだ)が、最後は「なし崩し」の原発再稼働容認でいいのか。原発インフラストラクチャーのトップセールスマンを演じる阿部氏の真意が問われよう。今回の参議院選挙では、他でもないそこが第一の争点であり試金石となる。人として生かされている「存在の尊厳性」と社会保障、それ以外(ねじれ国会解消やTPP参加など)はさしあたり二次的か枝葉末節のたぐいである。
 忘れてはいけない。東日本大震災は自然災害の域を遥かに超えていた。東京電力福島第一原発事故で露わになった通り、紛れもない「人為的災害」だった。そうではないか。未だに避難生活を余儀なくされている多くの福島県民の苦痛を尻目に、「あたかも何もなかったかのように」立ち振る舞い、省庁の経済利権と金融政策を最優先した将来のツケを国民(次世代の若者)に背負わせるべきではない。トイレのないマンションが嫌なら(当然ではないか!)、君たちは断固としてノーを言い、良心的拒否権を行使する必要がある。未来社会は君たちの手中にある、選ぶ権利の行使によること、棄権してはいけないよ。
 最後に、福島原発事故の最前線で陣頭指揮をとられた吉田元所長逝去の悲報に接し、衷心より氏のご冥福を祈りたい。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyrights © all reserved 2013, by the Institute for Rikaishakaigaku

2013年7月3日水曜日

お色直しに織姫の憂鬱、「よいしょ」せずアンガージュすれば...

【7月7日(日)、七夕、更新】
 以前からそうでしたが、今でも読者の皆様からたくさんのご要望を頂いております。ブログ開設三年目の七夕(たなばた)のよき日に、わたしたちはこれまでと違った双方向性を円滑にする工夫の必要性を感じています。せっかくの「理解」社会学なのに、語彙が哲学的で理解するのが「難しい」、記事がとにかく「長い」、話題が「硬い」・敷居が「高い」といった一方通行のスタイルを改め、今後はツイッターでも追えるように「より短い」、スマートフォンでもキャッチできるように「わかりやすい」、フェイスブックでも共有できるように「乗りやすい」ソフトな話題を織り交ぜ、誰でも参加(アンガージュ)できる開放的対話スタイルに、随時切り替えていきたいと考えております。「理解社会学の工房」に投稿されるブログ記事をご愛読くださいますよう、今後ともよろしくお願い申し上げます。

よいしょせず、アンガージュすれば織姫の、お色直しに一雨雫(ひとあめしずく) 
(短歌:安行鴫子、文責:シュテファニー・クレメンス)
        Anton Kolakovski, Stefanie Clemens, Shigfried Mayer

2013年6月22日土曜日

お花茶屋でスペシャルイベント、講演会のご案内

ブログ掲示板(20130622

 

行き方:京成本線お花茶屋駅北口下車、堀切菖蒲園方面へ30メートル戻り、東光幼稚園先を右折し一つ目の角を左へ、角より二軒目がそれ。

           

  

2013年6月19日水曜日

「陰陽師」の夢枕獏と「幻術師」の司馬遼太郎、披見するも似て非なる ...

【7月1日(月)更新】
 原作者(本名、米山峰夫)は、「エロスとバイオレンスとオカルトの作家」として夢枕獏(ゆめまくらばく)を名乗っており、批評家やファンの間でも、「密教的要素を散りばめたエログロの伝奇バイオレンスや、ひたすら男たちが肉弾戦を演じる本格的な格闘小説を得意とする」点で、評価ポイントが共有されている。1988年(昭和63年)に文芸春秋社から『陰陽師』(おんみょうじ)を出版。これは、平安時代の陰陽師・阿部晴明の生涯を描いた伝奇小説で、2001年(平成12年)に滝田洋二郎監督の下で東宝でテレビ映画化され、晴明ブームを起こしている。これがヒットした理由の一つに、晴明役の狂言師・野村萬斎の働きが注目される。萬斎は、能楽狂言方和泉流野村万蔵家の名跡である。海外にも紹介され、"the Onmyo-ji" (also known as: The Yin Yang Master)で知られる。 
 NHK版テレビドラマ『陰陽師』では、公共放送にふさわしく、脚本と演出はナレーションと共に大幅に修正され、赤裸々なエログロは影をひそめ、かなりスマートな仕上がりになっている。歴史ドラマにはほど遠く、史料的価値・裏付けはない。原作であれNHK版であれ、女の情念を話題とした創作、扱いは歴史物としても奇想天外な筋書きで分かるように、所詮は情・怨念(Ressentiment)に訴えるだけの興味本位のフィクションである。
 本格的な歴史小説家の司馬遼太郎とそれを読み比べると、似て非なるその違いがすぐに分かる。1956年(昭和31年)に出た幻のデビュー作『ペルシャの幻術師』にして然り、『空海の風景』や『坂の上の雲』にしても然り。歴史を風土に尋ね紀行する司馬の世界には、失われた歴史を物語ることで繋いでいく、歴史ドラマの真骨頂を随所に伺わせる。同じフィクションでも、天地の相違がある。
 今日の課題: 「陰陽師」に「幻術師」、どこに違いがるのだろうか。いずれもマジシャンの類である。注意点を三つ挙げる。①原作者が描く星占いと密教の世界、異なる考え方をする風土や慣習・歴史理解に注目すること!②見て楽しい・読んで面白いからといって、歴史の実像や真実に迫りえたと勘違いしないこと。③最も注意すべき点は、背後で歴史を操る者(例えばユダヤ人)がいるといった「妄想」(Wahn)を抱かないこと。なぜなら、ヴェーバーの概念を使って言えば、歴史はさまざまな人の動機が絡んで展開する社会行為の「布置連関」(Konstellation)なので、特に経済(的利害=利権)と絡んで展開する時は非常に複雑な経路をたどる。したがって、一義的には予測できない。以上、反論があったらお伺いしたい。

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2013年6月13日木曜日

「経済」と「社会」を天秤に、載せて目盛が噛み合わない?

【6月21日(金)更新】
 ブログの随所でことあるごとに、「比の一の値」に言及してきたので、読者の中には何のことだろうと首をかしげておられるに違いない。そこで、経済指標となっている場合のそれを参考にして、基本的理解をおさらいしておきたい。比の一論は単なる目盛合わせでない、株価変動に振り回されない、成熟した政治社会実現のためのトライアル、非正規であれ非常勤であれ、働く人の存在を復権させるための楔打ちか、主権在民の縁起こしを意識した投げ網造りである。
日本での株式評価額は過熱気味なのか、それともたいして過熱感がない、不安は必要ないということなのか。リスク評価の秤縄は、景況感で乱高下する経済の指標となる比の一の値がどれか、判断の目安とする単位が整数倍か分数倍か、それ次第で景況判断が分かれる。
問題は、日本の株価が実際の企業の業績とどれくらい一致しているのか、あるいはどのくらいかけ離れているか。統計上は業績が徐々に改善してきていることから、しばしの調整期間を経た後回復が期待されるので、株価が過熱しているとは感じられないと言える。
企業の業績と株価の関連を分析するに、「PER」と「PBR」という二つの指標が参照される。「PER」(price earnings ratio)は株価の収益率のこと、通常はP/EかP-Eと表記される。これは「株価÷1株あたりの純利益」で計算される。つまり、株価が純利益の何倍か、整数倍か分数倍(1以下の小数値)で純利益を表す指標だ。数値が低いほど、株が割安だということを示す。
ただ、ここで算出された「純利益」は、今期末の予想業績だという点に注意。前期実績と比較して、2023倍程度ならどうか、判断の分かれ目となるのは、比の一の値を求め割り出す定式の、「株価÷1株あたりの純利益」で得られる数値次第。
この指標から分析すると、20136月現在の株価はそれほど高くない。つまり、企業の業績全体から見て、株価が高すぎる状況ではない。この間急ピッチで株価が上昇してきたので、今しばし調整中ということだろう。
株が買われる時、それぞれの「PER」が参照される。PER20倍を超える時は、通常「割高でリスクが伴う」と判断されて、誰も積極的に株券を買わない。
景況感を測るに、「PBR」というもう一つ別の指標が参照される。PBRprice book-value ratio)は株価の純資産倍率のこと、通常はP/BかP-Bと表記される。これは「株価÷1株当たりの純資産額」で算出される。指標が1を割る(小数値を取る、整数1以下の分数倍となる)と、理論的には会社を解散したほうがいい、早めの解散に相対的価値があるということになる。東証一部全体で1.3倍でも、東証二部では0.85倍と低水準ならどうか。判断の目安となるのは、ここでも比の一の値を探る二番目の定式、「株価÷1株当たりの純資産額」によることになる。
いずれにせよ、PERPBRRは〈ratio〉のこと。Rは商いする際の合理的算定率、経済行為をする人が求める効率は経験値、従うべき格率(Maxime)は目標値である。これは、利害に絡む社会言論活動の指標ともなる。但し、経済人(homo ecconomics)の格率論を凌ぐ高度の計算機器の登場によって、混乱のリスクも増大し先行き不透明感に足元を掬われよう。経済と社会を天秤に載せても、目盛るモノとヒトが噛みあわないのだ。
はたして人間は、機械(的に働くモノ)との闘争に勝てるのか。まさしく、生き残りの尊厳と人権がかかった問題となる。しかるに、機械は人権(人格存在)を理解できない。景況判断をメカニックに割り出せるとしても、木目と金目と人目では、計る目盛が違う。だからこそ、「理解社会学」(ヴェーバー)が必要となる。

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注: このブログ記事は、日経BizCollegeの記事:小宮一慶の「スイスイわかる経済!数字力トレーニング」(「株価は再浮上するのか? 急落の原因と見極めポイントを探る」、201367日掲載)を参考にして作成しています。学習中なので、間違いがあったら、ご指摘ください。

2013年6月3日月曜日

転ばぬ先の杖、「歴史」理解の貧困と偏見について

【8月30日(金)更新】
 従軍慰安婦に関する橋下大阪市長の「必要だった」発言は、国内外に大きな波紋を投げかけました。真意がセクハラでないとしても、言葉だけが独り歩きしている感じですね。紛糾の原因は氏の扇動的言論(Demagogie)、主語が曖昧な侭では差し違える、諒解なき言語文化の悲劇です。歴史理解の貧困と偏見についていざ語ろうとすれば、「歴史」とは何かという問いを避けては通れません。欧米でも、歴史理解はのど元に突き付けられた刃です。韓国でも然り、「原爆投下は神の懲罰」では、歴史再考の問いが自分の仇となります。
 法則科学的に再現可能な自然史とは異なり、歴史はどこまでも人文科学的な部門としての人間史(クレイク)です。人間の歴史と言っても、二つあります。人間の営為が史実として書き記され纏められたもの(Historie)と、個人や民族のそれを含む、繰り返しのきかない(後戻しが許されない)、物語り可能な歴史(Geschichte)、つまり一度限りの実存史です。ハイデガーは、この区別をマールブルク時代の友人・神学者のブルトマンに学んでいます。
 他方で、経済史がどちらに属するかは微妙です。それでも、背後で誰かが歴史を操って(戦争を仕掛け世界制覇の)陰謀を企んでいるといった類の論調は、社会事実の裏付けがあるのでなく全くの憶測に基づくもので、民族差別を目論んだ社会偏見以外の何物でもありません。たとえば、フリーメイソン(Freimaurerei)の関連でよく聞かれる「ユダヤ人陰謀説」(Juden-Intrige Theorie)。まことしやかに語られていても、社会科学的に言っても論拠不十分な排外的イデオロギー(アーリア系に根深い観念形態論)の産物です。ユダヤ人や共産主義者の排除を大義名分として、ナチス(NSDAP)が党を挙げて積極的に演出した巧妙なプロパガンダ(Propaganda)です。実は「救い主殺しの犯人捜し」という社会風潮が長いカトリック教会史にはあって、ナチス協力に走るドイツキリスト者(Deutsche Christen)の引き金となった経緯はありますが、彷徨うユダヤ人たちが金融業に携わってバチカンと協力し、陰で戦争を仕掛けているのだというのは根も葉もない噂話(Gerede)で、ユダヤ人憎し(Judenhaß, Ressentiment)から民族浄化に乗り出すための口実に過ぎません。
 宗教史的・教会史的には、「イエスはユダヤ人であった」(カール・バルト)ですでに論駁済み。経済史については、パレートを読み直すことから議論の座標を再設定する必要があるでしょう。
 さて、リーマンショックを引き起こした数年前の世界金融危機の際に、私自身も法政大学紀要の『多摩論集』で、ユダヤ系ヘッジフォンドの責任を厳しく追及した記憶がありますが、ユダヤ的知性の特徴として「神もしくは貨幣」を論じるにしても、そのような極論の怪しげな陰謀説に組することは断じてしません。思い出してください。あのヴェーバーでさえ、彼の家にはジンメルを初め、多くのユダヤ人たちが出入りしていたことからもわかるように、テニエスに代表される民族主義的な誤解を引き起こしかねない「共同体」(Gemeinschaft) 概念の使用および解釈を断固拒否しています。ヴェーバーの理解した概念を私たちが敢えてカタカナで「ゲマインシャフト」と表記する理由も、そこにあります。
 日本では歴史学科は文学部所属ですが、欧米では哲学部や社会学部の所属です。つまり、思索の実践的課題・行為の分析総合判断の問題としてあるので、空気を読み合うだけの日本(文学)的心情理解では、的を外してしまいます。特に宗教関係者は、歴史の事実認識に疎いので、要注意です。たとえば、禅で悟りを得ることと、そのような戦争イデオロギーに囚われることとは、まったく無縁です。せっかく一切の迷いや縛りから自由となったのに、正反対の縛りや囚われに陥るようでは、元の木阿弥か本末転倒でしょう。歴史理解の貧困ゆえに陥りやすい偏見(Vorurteile)や極論(Übertriebene Argumentationen)には、くれぐれもご注意ください。

注: 噂の発信源は、当時ナチスのイデオローグであったリューディガーのプロパガンダ文書(Karlheinz Rüdiger, Der Krieg der Freimaurer gegen Detschland)で、反ユダヤ主義(アンティセミティズム)のリソースは、1934年にロシアの秘密警察の手で書かれた『シオン議定書』(Protokolle der Weisen von Sion)。このパンフレットが偽造文書であることはすでに各方面で論証されており、読むに値しない。ナチス協力の嫌疑をかけられたハイデガー自身の問題については、長くなるので学会で論じることにする。

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2013年5月19日日曜日

前代未聞、非常勤講師に雇止め5年の上限(緊急レポート、その三)

[先のブログの前半でご報告した橋本発言と、後半の鎌田発言は同一問題でありながら少し違った問題点を提起しているので、いったん切り離し内容を書き改めてここで再報告する](5月22日更新)

 もう一つは、年度初めに発覚し4月以降大学界を騒然とさせている鎌田発言。早稲田大学総長で理事長の鎌田薫氏の、非常勤講師就業規定(5年雇止め)に上限をつけるという、強権的な発言である。それによると、非常勤講師は誰であれ無条件に、5年後の2018年に全員解雇されることになる。もとはと言えば、昨年2012年の8月に公布された「労働契約法改正」にまで遡る。これに伴い、新たに第18条(5年継続の有期労働者の無期転換)、第19条(繰り返し更新された契約への期待権・雇止め制限法理の法定)、第20条(不合理な労働条件の禁止)が追加された。法改正の狙いは非常勤講師の就労実態を変更することなく安定化させることにあったはずだが、理事長が管理経営上の不利益を恐れたのか、早稲田大学の契約更新に5年の上限を設定した。改正労働契約法に規定された雇用者の義務を免れるために行われた「脱法行為」ではないかと疑われて当然であろう。
 大学経営者に再考を促したい。常勤であれ非常勤であれ、教え働く人の「人格を目的としてのみ扱い、決して手段として扱ってはならない」。カントの定言命法を思い起こせば、抗議は至極当然である。大学教育を陰で支えてきた非常勤講師の人格否定と蔑視は一目瞭然、男女の差なく執行されるという、とんでもない話だ。理事会がその決定を撤回しないというのは、「大学再生会議座長」として、鎌田氏が教授会から審議権・決定権を剥奪し、総長である自分に権力を集中させる提案をしているほどであるから、用意周到でしたたかな策略と強引さを感じさせる。あまりに拙速で経営上の都合しか念頭にないから後は突っ張るだけの、浅はかな小心的言動というだけではなかった(前回の修正箇所)。早稲田大学だけでない、悲しいかな足元の法政大学でも然り。ただ一部を除き、その他の国公立大・私立大で多勢が追随するまでに至っていないのがせめてもの救い。ジェンダーの垣根を越えた、あらゆる類のハラスメントに対する抗議の声を惜しまず、阿部政権の今後の動向を見極めたい。
 以上の二つ(橋本発言と鎌田発言)は、強者(男性支配)の論理で一貫しており、いわゆる社会的弱者(女性や未成年者を含む、派遣社員やパートなどの非正規労働者)の人格性と尊厳性は、政策上また経営上の都合で常に後回しになっていよう。労働者全体の4分の一に当たる1410万人が対象となるから、就活中の諸君もうかうかしておれない。明日は君たち自身に降りかかる問題だから。私自身も大学の非常勤講師として、1988年以来一年契約を25回繰り返してきたので、明日は我が身の問題である。専任となって大学の雑務に追われるより、自由な研究生活を優先したツケではあるが、見過ごすわけにはいかない。諸君に異なる意見や反論があれば、その旨をお聞きしたい。
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2013年5月14日火曜日

言語道断の人格否定とセクハラ発言(緊急レポート、その二)

[6月29日(土)更新]
 二つのショッキングなニュースが、今日本の政治社会を翻弄し言論界を席巻している(第二部はカット、次のブログへ)。
 一つは、昨今のお騒がせな橋下発言。こともあろうに、沖縄の現地米軍司令官に、「もっと風俗業を活用してほしい」と進言。発言者の日本維新の会共同代表(現大阪市の市長)橋下徹氏に対して、5月14日各方面より抗議の声が上がった。たとえば、「女性を男性の性的欲望の対象としてのみ捉え、女性の人格を否定して蔑視するものとして断じて許されない」(青年法律家協会大阪支部)との抗議声明が出されている。誰であれ、「人格を目的としてのみ扱い、決して手段として扱ってはならない」とするカントの定言命法(『道徳形而上学原論』)を思い起こせば、抗議は至極当然である。 また、戦時下では「慰安婦制度は必要だった」と釈明する橋下氏の不用意(それとも確信犯的?)な発言についても、「戦争中であったから仕方がないかのような言動をとることは、(元慰安婦の女性を)さらに傷付け苦しめる。市長の人権感覚と品位を疑わざるを得ない」と、言葉の軽さに歴史認識の甘さがあると、国内外から厳しく批判されている。
 現に海外メディアからも、、”Sex slaves were necessary”、或いは” ‘Comfort women’ were necessary”では、"anachronistic"(「時代錯誤的・前時代的発言だ」)と厳しい批判の声が聞かれる。これを日本のメディアが、建前上そうであるとしても、ずばり本音を言われては困るからだろうと受け取るなら、相手国を無視したあまりに身勝手な解釈である。公娼制度の「飾り窓」(De Wallen)があるオランダ・ドイツ・ベルギーが相手なら、「何を今更」と苦笑されよう。禁酒禁煙など厳格な道徳観を持つアメリカ、ピューリタンのマスクした国を相手に「建前」を言うのなら、「徹底的に建前で論じる」ことで、それなりに「社会的合意形成」(桑子)が達成されるはずだ。ただ、国際交流には言論文化の違いに注意が必要だという認識以前に、社会言論の因果関係から言えば、誤報の種を撒いているのは本人なのだから、「(マスコミの)大誤報にしてやられた」と、強がりを言ってみても何も始まらない。不本意だとしても、氏の発言は戦後の「赤線」復活を間接的に容認し促していると、揚げ足を取られても仕方がない。橋本氏が視察すべき先は、米州のフランシスコではなく、欧州のアムステルダムやデン・ハーグ、フランクフルトやハンブルクだろう。
 あくまで橋本氏ご本人は、戦争時に暴力的に働くモノ(性的衝動)を兵士がどう処理するのか、合理的な解決策を進言したつもりのようだ。司令官に苦笑され一蹴されたのも無理はないが、たとえ丁寧に言葉を使い分けて、「国を挙げて」(つまり国策として)為されたことではないということで済まされるのかどうか、また同党の石原慎太郎氏が弁護しているように、「戦争に売春はつきもの」でハラスメントの合理的釈明となるかどうか。橋本氏は石原氏と異なり侵略戦争を肯定してはいないが、結局同じ穴の貉(むじな)である。戦時体制の力学で説明しようとすれば、最後は戦争美学を謳歌する強者の論理がまかり通るだけではないのか。「日本だけに限ったことではない」と、特殊性を一般化する意図からの発言であれば、論点のすり替えではないか。貧困撲滅が真意であればなおのこと、女性の人格否定と蔑視を強く臭わせるか煽るような発言の無責任さが問われよう。
 そうならないために、橋本氏へのアドバイス。アムステルダムかフランクフルト、またはハンブルクへ視察旅行に行かれたらいい。(近くに軍港や米軍基地のある)飾り窓で働く女性たちの人格理解と、彼女たちに関する欧州人の人権意識がどうなっているかわかれば、それなりに収穫があろう。沖縄米軍司令官も聞き捨てにできず、違った応答をすることだろう。あなたも変わらざるを得ない。市長のマスクを捨てて、きっと変わるに違いない。
 
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2013年5月3日金曜日

どうして債務不履行が初期設定に?- デフォルトの意外な多義性

default, defaut, Schuldenverzug, was ist denn das?
デフォルトとセキュリティーの関係について、メールでたくさんのご質問をいただいたので、まとめてお答えしておきます。
通常デフォルトとは、法律用語で「為すべき義務をしない・怠る」、法廷に「出頭しない・欠席する」こと、経済用語で「債務支払いを怠る、債務不履行に陥る」ことです。リーマンショックの世界金融危機で問題となった、鬱陶しいあのデフォルト連鎖事件を思い出してください。これは決して、ITと無関係ではありません。語源上は、法律的意味合いが先にあり、IT関連の誰かが後から違った意味で使い始めたのでしょう。
IT用語では、ユーザーが何も操作や設定をせずに「初期状態にある」こと。例えば、予めハードウェアーやソフトウェアーに組み込まれた設定値をデフォルト値と言いますね。ユーザーが各種設定を自分でしなければならないと面倒なので、一般に妥当とされる平均的且つ典型的な利用環境を想定して、メーカー側で予め適当な値を付けて組み込んでおくのが普通です。カスタマイズの権利をユーザーに保証する意味で、平均値以外は「履行せず」の白紙状態にしてあるわけです。
ただし、カスタマイズ後にも注意が必要です。ユーザーが自分の利用環境に合わせて様々な設定の見直しをする必要があるのに、面倒とばかりそれをせずに(メンテナンスの履行を怠って!)デフォルトのままで使い続けようとすると、予期せぬ不具合(余計な債務)が生じます。最近の具体的な例を挙げると、セキュリティーリスク対策として頻繁にバージョンアップされているIEへの新たな自己環境の再設定・アップデートによる微調整を怠っていると、不具合の未調整(債務不履行)による綻びは避けがたく、結果としてデフォルト依存からセキュリティーリスク(脆弱性)が生じ、知らぬ間に文字化けを伴う「レイアウト崩れ」が起きるということです。
さて翻って考えてみると、色々なことに気づかされます。君が何をデフォルトに指定しているかそれ次第ですが、レイアウト崩れは潜在的なリスクの予兆、氷山の一角に過ぎません。最後は君自身にかかわること、デフォルト依存脱却の根幹(自律性の有無)が問われることになります。哲学用語で、自分の悟性を使用せずに後見人任せにして「未成年状態に陥る」(カント、『啓蒙とは何か』)のも、啓蒙主義時代以来の自称文化人に典型的な、デフォルト依存症候群の先例だったのです。中身はいつも熱い視線で追う話題のヒトか流行るモノで詰め換えられるので、それとは知らずに君もきっと嵌っているデフォルト依存に、身分や階級・働く分野や国籍・時代の違いは関係ありません。社会学用語で、後見人依存による未成年状態とは、要するに構造的な「甘え」(土井)のことです。ゲーマーやスマートフォンのユーザーに多いので、ご注意ください。その特徴は、一度嵌ると抜け出せない。楽を満喫するとやめられない(つまり、元の不便に戻れない)。違いますか?君の意見を聞きたいな。(5月5日、こどもの日、更新

追記: それは社会学用語で、「要するに構造的な甘え(土井)のこと」だと言いましたが、もちろんカントの崇高な哲学理念とは雲泥の差があり、混同することなど全くあり得ません。ただ、諸君にはそれを手がかり・取っ掛かり(Anlass)として、「未成年状態を脱する」とは如何なることかを自分なりに考えてほしいと思うから、卑近な例!として取り上げたまでです。デフォルト(当座の世論や安価な世界観)に安住して思考停止していないかどうか、吟味する良い機会となることを望むのみです」。(5月12日、H君への返信から)
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2013年4月22日月曜日

デフォルト依存が生むセキュリティーの脆弱性、文字化け対策の勘所は

[4月26日(金)更新、改題と推敲]
 文字化けするのは、世界では日本語とロシア語くらいでしょか。いずれの場合も、たいていは文字セットの指定が正しくないか、ソフトウエアー上の初期設定(デフォルト)の不備・技術的な不具合のせいです。使用環境が変化したにもかかわらず、デフォルトのままにしておくと、いつかそうなります。IEのバージョンアップが繰り返された際のバグとして、調整不足の「レイアウト崩れ」が生じているのです。
 人が化ける成り済ましの事例は、匿名性を悪用して為されること。お目当ては、ずばりお金です。現代の錬金術師たちの策謀に落ちらないためには、好奇心からボタンをクリックしない、おかしな表示を見逃さない、まず疑うことです。乗っ取りの霊が文字に憑依するのは、曖昧さの美を誇るユーザーがいる為です。デフォルト設定を安全と鵜呑みにしている君のハウスに裏口を造り、大事な情報を盗み取るウイルスを忍ばせる、巧妙な手口です。たとえデフォルトを疑い、互換性表示をオンにしていても、実は空き家も同然。サーバー側のデフォルトがいい加減だと、もっとひどい汚れた霊を連れ込み、クライアントの状態は一層ひどくなります(→新約聖書のマタイによる福音書12章 4345節参照)。大事な端末のフェイスがスポンジ状のBSE化に陥らないよう願いたいものですが、そうならない保証はどこにもありません。サーバーの「そっくりさん」が横行する中、安全神話への過信は禁物です。
 デフォルト依存が、事実セキュリティーホールを開ける原因となっています。文字化け(レイアウト崩れ)は、不注意の結果を反映しているに過ぎません。マイクロソフトフォーラムで討議した際に指摘されたこと、IE用の「累積的なセキュリティー更新プログラムKB2416400 には、JIS (Japanese Industrial Standard) エンコーディングの自動検出を無効にする修正プログラムが含まれています。そのため、JIS エンコーディングは自動検出されず、電子メール メッセージのコンテンツは読み取ることのできないコードで表示されます。」その結果、JISコードの読み取りに失敗しています。「自動検出、つまり、デフォルト依存がセキュリティーの脆弱性を生み、文字化けを生んだ」(ウインドウズスクリプトプログラマ氏が指摘する)例として、一連の事象の因果関係をしっかりと把握しておく必要があります。
 数々のスレッドから学び得た私の総括、以下はKB2416400のやり取りで考えさせられたことです。使用環境の整合性がすべてフィットするまで、セキュリティーは強すぎてもいけない、また弱すぎてもいけない(フィットネスは目標値、微調整が必要)。デフォルト依存からの脱却は、ユーザーの自己責任でなされること(自動検出への過信は禁物)。バグはつきものなので、クライアントの自分!と導入した製品のアップデイトに手を抜かないこと(危機管理は双方の自己管理)。以上三点。 

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2013年4月13日土曜日

他人事でない、相次ぐ文字化け現象、その原因と解決策

[5月1日(水)更新]
 最近気になることと言えば、MSIE(Microsoft Internet Explorer)の文字描画がどこかおかしい。ヘッダー部分(記事タイトルやファイル名)の文字が化ける。フォントが第三者の手で密かに書き換えられている可能性もあり、要注意です。例えば、IE9でこのブログ記事を読もうとすると、「社会」や「贈る」などの漢字が旧字体(中国の漢字体?)で表記されてしまいます。随所で、タイトルの表記がおかしい。その上、一部のフォントだけがアトランダムに強調文字になっていたりもします。コンテンツの書き換えなどの異常は見られないとしても、気味が悪いですね。NIS(Norton Internet Security)でチェックしても、フィッシングなどのウイルスは検出されておらず、ブログ主幹のわたしに対する嫌がらせか悪戯(いたずら)のようなものか、と疑いたくもなります。そうでなければ、どんな要因が考えられるでしょうか。因みに、他のブローザー(Firefox, Chrome, Safari)では、正常に表記されています。マイクロソフトのブローザー(IE)の脆弱性が狙われている疑いもあり予断を許しませんが、或いはセキュリティー強化の目的で、最近MSやNISの(リモート)サーバーが中国の大連経由となった?ことによる余波の可能性も一概に否定できません(ここまでは、前記のママ)。
 さて、その後の調べで判明したことを、以下に付記しておきます。中国語漢字体の混入と見える文字化け現象の原因は、最初の内はHPを装った偽サイトの存在を疑わせもしましたが、実際は日本語版のWindows7乃至IE9に付きまとう、フォント表示の切り替え(デコーディング)がうまくいかない(UTF-8 とシフトJISのコンフリクトによる)互換性の問題だったようです。
 疑心暗鬼から、国内外の至る所で混乱が生じています。今回の原因は、結論から言えば、ウィルスでも悪意のあるプログラム(遠隔操作による乗っ取り)でもなかった。真相がどうであれ、このブログでは金銭の扱いは一切しませんので、問題は発生しません。(仮にそうだとしたら、何の目的で?不法な言論統制の監視フィルター?なぜIEだけに?などと疑う必要は、ひとまずないということです)。マイクロソフトの迅速な対応と適切な解決策を待つしかありません。それでも不安な読者には、しばらくIE以外のブローザーを使うようお勧めします。諸君の中にも同じ現象が見られたら、わたしに報告してください。なるほど、「文字化け」(Zeichensalad)は不正な割り込みではないとしても、エンドユーザーを不安にしない・クライアントに安心して使用できる権利を保障する意味で、ユーザビリティーはセキュリティーの根幹に係わることです。なので、大手サービス業者にとってとても重要です。*この件については、現在マイクロソフトフォーラムに問合せ中、回答があり次第ご報告します。
一件落着の朗報:
 この問題はひとまず解決しました!ヴェップ・ページを閲覧するMSのプログラムは、IE7/IE8/IE9/ IE10など、目まぐるしいバージョンアップを繰り返したせいで、バージョンの違いによる「レイアウト崩れ」が発生していました。それを避けるために、以前のバージョン(IE6)の Internet Explorer と同じ振る舞いをして正常に表示する 「互換表示」 という機能を、それ以降のIEは隠し持っています。これを有効にすることで、「レイアウト崩れ」を防いで表示できるようになります。嘘だと思ったら、ご自分で試してみてください。青天の霹靂です。
 あとは、一時しのぎの互換表示としてではなく、本格的な仕様として装填された製品版の完成を、一時も早くマイクロソフトに望みたい。
(「互換表示機能」は、IEのツールバーから選択してください。なお、この問題解決のために、マイクロソフトのサポートセンターから重要なヒントを頂きました。感謝します。またフォーラムでのやり取りの中で判明したことで、日本語フォントが文字化けする原因に韓国語フォントのBatangが絡んでいる可能性が指摘されており、ユニコードの主導権を巡る争いは激しさを増しているようです。その詳細を述べようとすると長くなるので、再調査した上で別途に報告いたします。)

 付記: ご注意ください。これで危険が去ったわけではありません。文字化けはシグナルに過ぎず、背後で誰かが成り済ます危険な可能性を排除しません。セキュリティーホールを狙ったサイバー攻撃は、これからますます激しくなり、巧妙に忍び込んでくるでしょう。危機管理は自己責任ですること、人任せにしておいてはいけません。「想定外」を口実にした責任転嫁はご法度です。想定されるシナリオを予測し、最悪のケースをも想定して退避する場を確保するにも、自分に与えられた悟性を使って善悪を判別し、理性を使用して自由を確保するにも、最後は君たち自身がよく考えてなすべきことです。

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2013年4月10日水曜日

風雲急のパワー・ハラスメント対策、緊急レポート2013(その一)

[4月16日(火)更新]
 昨今は風雲急を告げる事件が相次いで、息つく暇もありません。国内は一躍アベノミクスに沸き、これが黒田イズムの緊急金融緩和の政策に後押しされて、景気回復と脱デフレの期待が一気に膨らむ中で、他方隣国北朝鮮で停戦の一方的破棄や物騒なミサイル発射計画から核戦争勃発の危険性が高まり、これが中国でのPM2.5拡散事件と鳥インフルエンザ大流行の兆しに後押しされて、ポジティブとネガティブな指数が奇妙に入り乱れた、不透明で極度に不安定な政情(グレーゾーン)に陥っています。欧米のメディアが恐れている、第三次世界大戦勃発に繋がるほどのことではない、子供じみた嫌がらせ(パワーハラスメント)か火遊びの類だとしても、いや、そうだからこそ、ふとした間違いから何が起きてもおかしくない。今後の状況は決して楽観はできません。しばしリスク高の疾風怒涛が続くとしても、一連の事態を冷静に見守るほかありませんが、政治家であるなしにかかわらず、想定外の「先を読む」力(あらゆる事態を予測して、「諒解」可能な未来を手繰り寄せる力、リスクマネージメントの知恵と実行力の有無)が試される次第です。
 「先を読む」力は、幾何学や代数の計算力だけでは足りない。想定外の未来を予測する預言者的知性の課題です。これについては、いずれ別途に詳しく論じることにしましょう。

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2013年3月28日木曜日

サプライズの中国、共産党国家の変貌と資本主義化の謎

【4月14日(日)更新】
 講談社現代新書で最近発売された「おどろきの中国」は、橋爪大三郎先生と交わされた師弟間の座談会記録ですね。橋爪先生は単なる知識社会学者でない、その枠を超えた識見の広さ、歴史理解の深さに驚かされます。改めて氏に共感しつつも、近現代中国における社会言論史についての明確な言及がなく、天安門事件来の文革について論じられる際にも、民主化運動と言論の自由弾圧を巡る反省的総括討議が聞かれないか、なぜかはっきりとしない。何らかの理由で、あえて控えられているのでしょうか。なので、サプライズといえども、わたしの評価はとりあえず「はてな」マーク付きです。
 中でも、中国共産党支配下の「国家」?に資本主義化を促すエートスについて論議されているところが一番興味深い。中国は「そもそも国家なのか」という問いから掘り起し、現地を旅してデータを収集し、歴史のルートをたどりながら問題提起しておられる点は半端でなく、具体的で高く評価できます。確かに、文革は儒教社会の自己否定ですね。但し、すでに座談の相手をしている大澤・宮台両氏も指摘しておられるように、道教(タオイズム)についての橋爪先生の評価は低く、「科挙に落っこちた人のため」の個人救済宗教となる。「その説明にはすごく納得してしまうが、ちょっと道教がかわいそうな感じがする」(大澤)。同感ですね。
 と言うのは、中国史において道教(タオイズム)が果たした役割は、先に挙げられたエートスと無関係でなく、繋がりはもっと大きいと思うからです。改革開放路線の政治家にとって、橋渡し(埋め合わせ)の動機がプラグマティズムであれば尚のことです。なので、注意が必要でしょう。マックス・ヴェ-バーが「儒教と道教」を書いた時のリソースには文献上の借用感がぬぐえなかった。それに対して、橋爪先生の理解は現地を旅しての生の分析なので納得するところが大だとしても、それでもなにか釈然としない。タオイズムは、中国哲学や宗教(禅仏教)の発展に大きく寄与しているので、私見ですが、働くモノ(エートス)を考える際には欠かせない、歴代の中国官僚たちにとっても見逃せない何か、重要な隠れた実践的動機(エートス)を提供していないかどうか、吟味する必要がありそうです。
 他方、毛沢東亡き後、客家(ハッカ)出身で「中国のユダヤ人」とも称される鄧小平の改革路線を受け継ぐ、資本主義化した今日の中国共産党の政治が「神政」(テオクラシー)、つまり「神権政治」だと理解されている点は、もっと興味深いですね。「おどろきの中国」は、ロナルド・コースの「中国共産党と資本主義」と合わせ、一読をお勧めしたい。
 但し書き: 談話集であれ、こういった記録が中国の覇権主義的な外交政策や言論の自由を許さない政治力学に利用されないかどうか、不安を抱く読者がいてもおかしくない。でも、心配は無用でしょう。どんなに貴重な情報であっても鵜呑みにせず、自分の悟性を使い分別し、批判的理性でもって読み解くよう、細心の注意を怠らなければいいのです。最後は日本と中国が「諒解」し合い、思想と信教の自由人で構成される平和国家の共存を、目的合理的に模索することが望ましい。これを実現するためには、これまで以上に理解を深めつつ「徳をもって接する」(稲盛)必要があるでしょう。
 蛇足: 二度目に読んでわかったこと。不思議に納得させる説明文の件は、奥様が中国の方であるという理由によることで、身内の目線でしか見えない・理解できないことが、随所に例証としてフィードバックされているのではと感じるのも、そのせいでしょうか。人権を巡る民主化運動や言論の自由を巡る刺激的な議題が控えられている理由も、さしあたりそこから理解できそうです。

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2013年3月6日水曜日

ジェネレーション・ギャップの秤値は、乱数それとも定数?

【3月17日更新】
 少子化社会だからこそ、世代交代の如何にが問題となります。世代の考察には、通常プランク定数(Planck's constant)が参照されています。プランク定数は、ドイツの量子力学者マックス・プランクの立てた理論(光子のエネルギーが振動数に比例する定数)です。物理学の公式が苦手な読者も多いと思うので詳細は省きますが、定数は理論値でなく実測値で通常4年とされており、それもコンピューターを使った計測機器の技術向上に伴い、実測し予測する精度は増し範囲は拡大していきます。世代考察の単位を4年とするのは、それだけあれば計測精度に改善の余裕があり、その検証に十分な時間が割り当てられ得ると考えて決められた期間、あくまでも計測上必要且つ十分な条件を満たす、その意味で有意な任意の期間です。
 失われた二十年の世代の20という数値は、実は予測可能な理論値でも実測値でもありません。バブル崩壊後の結果、経済不況(デフレ)に陥ってから遡って計られた経験値に基づく判断で、仮に4 x 5 = 20とみれば、プランク定数の振幅度の範囲内であると言えます。親の世代・子の世代・孫の世代を考えれば、20年を一単位として20 x 3 = 60(年)という変域を設定することができそうです。しかし、一世代という時の単位は、一般に30年とされています。例えば慣習上、一世代前とは30年前のことです(a generation ago = 30 years ago)。なので、二十年の世代の20年は予測された実測値でなく、あくまでも事後的に振り返って得られた秤値、つまり経験値だというのです。その証拠に、これは他に例のない日本だけの世代現象です。
 ではここで問題です。よく聞くジェネレーション・ギャップ(generation gap)は、何年を単位として計測されることでしょうか?家族単位でみれば、複数世代の問題(the multi-generation concerns of the family unit)となります。上記の通り一世代を30年とすると、孫の世代まで30 x 3 = 90(年)あり、複数年がオーバーラップ(overlap)します。そこで、30からオーバーラップの偏差を10として差し引くと、(30 – 10) x 3 = 60(年)となりそうです。最低60年もあれば、親・子・孫まで顔と顔とを合わせてジェネレーション・ギャップを確認し調整し合う時間が十分あり、隔たりを埋め合わせることができるでしょう。
 核家族化した最近では、事態はもっと深刻です。君たちよりもっと若い世代では、10年単位でジェネレーション・ギャップを感じるというアンケートデータさえ出ています。60年から10年への圧縮は、世代間の相互理解に深刻な影を落としています。いずれであれ、計測の基本は4年でいい。これは上記したように、世代の格差を計測するに必要にして有意な任意の期間に過ぎません。職場単位でみると、新卒者を社員として採用するたびに(つまり毎年)ギャップが生じるというわけではないので、これも4年ごとを単位(サイクル)として計測するのが妥当で、さしあたりの目安と言えるでしょう。
 さて、どんなギャップが感じられるか、どのような理由からそうなのか、世代ごとに個別差がありそうです。そこで、ブログの読者に質問します。あなたはどの年代の人にジェネレーション・ギャップを一番強く感じますか?よければご自分の年齢と、その理由を聞かせてください。

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2013年2月19日火曜日

失われた二十年の世代、原石の輝きを取り戻す鍵は

【2月21日更新】
 この春に成人式を迎えた諸君にまだ一言の祝辞も述べていなかったので、遅ればせながらこの場を借りてお祝い申し上げたい。「失われた二十年の世代」と揶揄されて、気持ちも晴れず複雑なことでしょう。でもね、失われた二十年という存在と時の刻印を帯びた世代が、原石の輝きを自分たちに取り戻す鍵は、実は君たち自身の手にあるのです。諸君がそれを発見するまで、わたしは友としていつまでも君たちに語るモノでありたい、問いかけるモノであり続けたい。
 さて新年度になって、ハイデガー研究会に新たな仲間が二人増え、それも社会的立場は多様な大所帯で、世代間の討議もいよいよ活気を帯びてきました。話し合いの結果、みんなの共有可能な関心が、どちらかと言えばハイデガーよりもカントとヴェーバーにあることを確認いたしました。並立を望んでも、三足の草鞋には無理難題。孫悟空のように、分身というわけにはいきません。そこで、ひとまずハイデガー研究会をいったん休会として(秋に再開予定)、これに代えてカントの『啓蒙とは何か』をドイツ語の原書で読み合わせ討議する会合(学習会)に組み替えることにしました。これは、理解社会学研究会の主催となります。
 振り返ってみれば、三年前(201011月)にブログを初めて書いたのが、カントについてでした。すでにブログのタイトルは「働くモノと自分のこと」から「働き蜂の失踪事件、語るモノを失ったヒトの群像」に更新されていますが、内容はカントの『啓蒙とは何か』を論じたものでした。そこでこの機を見逃さず、成人式を迎えたのに未だに「未成年状態」から脱せないで苦闘している諸君の先輩たち、就活中か就職後の、或いは転職を繰り返して路頭に彷徨う寸前の、悩み多き若者世代のために、自分に与えられた悟性や理性の使用についてカントが何を語ろうとしていたのか、翻訳書依存をやめ原書で(=判断を後見人に託さず自分で)その真意を探ることで、誰にも依存しない自由な存在の意味連関を確かめておきたいと存じます。僕たちは誰かのコピーなんかでない、失われた存在のルートに逸脱した自分の峠道を探り、野道にそっと捨て置かれた原石(考える我)を見つけ、その輝きを見極める縁と機会を提供することが、研究会組み替えの狙いです。
 場所はいつものJR北千住駅東口前にあるカフェーサンローゼ、時間は第三週日曜日の19時から21時までとします。テクストはドイツ語原書から複写して手渡しますので、持参するのは辞書とノートのみ、それが不要な方(「哲学なんかいらない」と考える人)は手ぶらでおいで下さい。ドイツ語が分からない人も、日本語訳(岩波文庫本)を持参して討議に参加されて結構です。丁寧にわかりやすく手ほどきいたしますので、心配は一切無用、一般参加は無料です。終わったら、近くの魚河岸グルメのお店で、味が失せない前にわいわい論じ合いましょう。思索するモノにも味わう時があり、口にするモノに賞味期限があるように。

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2013年2月5日火曜日

実体が無いのに、豊かさをどうやって実感するの?

【9月2日(月)更新】
 がむしゃらに働けば、豊かになるというわけでないことぐらいは、誰もが実感していることでしょう。働く人のすることが、期待値と経験妥当な値を満たしているかどうか。それが社会行為の適性(=諒解関係の指標)を計る二針の試金石です。矢を射ることに例えて言えば、洗練された言葉と的を得た行為でないと、何を語り何をしても、豊かさの実体を手にすることはできないだからです。
 あとは、囮(おとり)や騙しの金融派生商品(デリヴァティブ)に手を出さないこと、話題のモルヒネ経済政策の謳い文句には惑わされないこと。他でもない、「自分」のために働くのですからね。用心することに越したことはない。
 では、自分とは何でしょうか?考えるヒントは、前回もお話した、比の一の値で計られるものです。君たちが、整数倍で得をするか分数倍で損をするかのいずれであれ、豊かさの実感はそれ次第で増幅します。実体が無い(貧しい)にも拘らず、自分は豊かだ(満足している)という人さえいるのです。別に、清貧の徳をお勧めしているわけではないですよ。それでもご覧、貯金がゼロでも自給自足で誰にも依存しない、自由闊達な自分が、ほら其処にいる。ほらっ、此処にもいる。
 誰かに付く(師事する)としても、デダクティブ(演繹)やインダクティブ(帰納)だけでは、所詮自分の「帯に短し襷に長し」です。ならば、パースが唱えるアブダクティブ(仮導推論、仮説設定)ではどうでしょうか?ただ、投企するのは自分です(sich entwerfen)。景況の好き嫌いで投機的に走って、自分まで売り飛ばされないよう、くれぐれもご注意ください。放っておくと、「存在の忘却」(ハイデガー)は避けがたい。

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