Blogs Aim and Design (趣旨説明)

Blogs Absicht und Entwurf, Einführung ins "Institut für Verstehende Soziologie in Tokio"
ようこそ、「理解社会学研究所」の作業場へ、皆様をご案内いたします。

当ブログ開設の趣旨は、一般に流布する社会言論(世論)の正義を問い質すこと、求められる妥当な「諒解」関係のネットワーク世界がどうすれば可能であるかをマックス・ヴェーバーに学ぶこと、更には日本の読者と一緒に言論界の将来を見据え、科学(冷たい理性)と文学(感情文化)間の抗争に答えうる、「第三の文化」域としての社会学思想を模索し定着させることです。なぜブログの課題が「社会言論」(世論)であり、最後は「一般社会学言論」Allegemeine Sprachwissenschaft nach der soziologischen Kategorien-lehre)講義で、それがどのように問い直されるのか、「社会学のカテゴリー」に準拠して理解するとはどういうことなのか、またそれが今公開討議に必要とされる理由を以下で述べます。定義については、下段にあるSozial-Rede Lektüre(「社会学言論」)のページを、詳細については、拙著『社会学言論のカテゴリー構想』(法政大学紀要『多摩論集』、第25巻、2009年)をご参照ください。

政治と宗教、社会と経済が混沌として、私たちを怯ませ立ち竦ませています。言葉の暴力(いじめ)に苦しんでいるのは未成年だけではない。成人で有るを宣言した大人たちまでも自分の言葉が意の侭にならない、人任せ・後見人依存の「未成年状態」の侭ではないのか(カント)。言葉にも仕事にも自信を失ない、家庭にも職場にも自分の居場所をなくした、ネット難民の数は増えるばかり。「自由で有る」を確言できる人(ペルゾーン)は何処にもいないように見えます。自由である「かのように」振る舞えるはずの近代人は、暴力的に語るモノに抵抗し得ず、失言を繰り返して面目を失い、最後は失踪する他ない。内憂外憂のそうした壊滅的状況の中で、語るモノ・働くモノが何かをこれから働こうとする若年世代に学習させることは容易ではありません。語ること・働くことの主観的意味(私に思われること)を闇に葬らず、むしろ動機的に解明しつつ経験妥当な「諒解」関係を構築するシャンス(可能性)を、ヴェーバーほどに厳しく追求し指南し得た人は他にないでしょう。
言論の自由は「私で有る」の存在証明か、それとも「わたしは思う」だけで何もしない口実か、「わたしに思われる」も格好の逃げ口上に過ぎないのではないか、と疑われます。語るモノ(報道レース)と評価するヒト(ペルソーナ)の信用価値はどうなのか、語るモノを誰も疑わず(自分で考えず)確かめもせず、働くモノ(未確定情報のエス)を黒だ赤だと頭から決めつける。公共メディアの社会言論(ジャーナリズム)の迷走ぶりは、「憂鬱なる世代」を特徴付けています。マスメディアの中で語るモノとヒトの信頼関係が足下から揺らぎ、暗に頼みとする貨幣価値までが連動して失墜しています。社会学的にはゲマインシャフトの「諒解」関係はどうなのか、グローバルな世界金融危機の最中で、改めてその妥当性が問われています。評価の目安とされる社会的自己の読み直し・疲労した制度言語の刷新を図るために、「理解社会学」・「経済と社会」(ヴェーバー)のオンライン学習講座を開設してみました。その理由は、以上述べたことが言語ゲマインシャフト理解の根幹に係わることで、社会言語学や言語社会学の「特殊」研究では到底手に負えない、行為の格率に係わる「諒解関係」の、一般妥当性を要請する極めて困難な課題が、わたし達に突きつけられているためです。「一般社会学言論」の研究を深め定着させるためには、しばしの試行錯誤は避け難い。
手始めに、社会学言論のカテゴリー構想に従い事業仕分けを実施し、多様な指示と参照の因果関係をメタファー論的に解明することで、崩壊社会の再建可能性の鍵を、四つのエポックに分けて模索します。メタファー(隠喩)は、鈍った悟性(理解力)をリフレッシュし、萎縮した理性(思考力)に「喝」を入れることで、曇った社会の良心をクリアーにする(澄ます)ために欠かせない、職人の飛び道具です。

1.古典の工房: 「神と貨幣」(宗教と呪術・錬金術)の世界を基礎から理解し再解釈(→非神話化・脱呪術化・脱構築)します。ユダヤ的知性と感性の解明に必要です。社会学の源流を、ビザンティン帝国の世界にまで遡ることが出来る、これは持論の命題です。シリアのアンティオキアを東端とすれば、古代中国の長安や落陽が西端となる、シルクロード交流文化の背景にも迫ります。これだけは、印欧語族に偏したソシュールの「一般言語学講義」では手に負えません。
2.近代の工房: 啓蒙主義と反啓蒙主義(科学と哲学・文学)の争いに社会学思想が加わった、抜き差しならない三つ巴の論争を、明治維新期以降の身近な事例を取り上げ、随筆スタイルで論じ究明します。日本近代化に貢献した人物とその働きを探ると、成し遂げたことより成し遂げられなかったことの多さ、正しく理解されずに誤った解釈で適当に丸め込まれた雑物思考の余りの多さに、溜め息が出るはずです。
3.現代の工房: 働くモノ(レース、もしくはエス)とヒト(ペルソーナ)を巡り討議される、共有可能な主題と経験妥当な変域を探ります。現在進行中の自己の働きを対象化することは、極めて困難です。陰に陽に、今話題のフロイト論を梃子にせざるを得ません。「エスの系譜」(互盛央)は取りあえずのお勧め、「理解社会学と精神療法学」(長山恵一)は必読です。ハイデガー論は、ここで取り上げます。「禅-別様に考える」(大島淑子)は、欧州大陸を震撼させた渾身の力作です。
4.未来の工房: 「一般社会学言論」講義を基礎付けること。コンディヤックやソシュールに学びつつ予備的考察を重ねることで、社会学的に予測可能な「諒解」関係を確かめ合える、広義のゲマインシャフト行為の可能性を探求します。これは言論統制下の中国は言うに及ばず、日本の言論界の閉塞した状況を打破するために必要であるだけでなく、経験妥当な「対話の技法」を模索し共有する、ソーシャル・ネットワークの学際的課題を追求することを意味します。

ブログ公開の目的は、読者泣かせの難渋な「理論」社会学に拠らず、できる限り平明な「理解と解釈」社会学で、これから働こうとする君たち(明日の世代)を、側面と背後から支援することです。それとの関連で具体的に、社会と経済、文化と宗教に関する歴史上のコンフリクトを、理解社会学(ウェーバー)の方法で解明します。

Shigfried Mayer (宮村重徳)

付記: 理解社会学に関心を共有する研究者、ブログの趣旨に共鳴し協力してくださる有志を募ります。
なお、Sozial-Rede Lektüre (「社会学言論」とDeutsche Lektüre (「独逸語講読」のページだけは、年度毎に更新されます。また他のページも、必要に応じて加筆修正することがあります。予め、ご承知下さい。