2017年11月23日木曜日

赤ちゃんに市議会の傍聴券が必要なのか

 今朝の各紙に、「あかちゃん連れを市議会認めず」との見出しのもと、ある怪事件がレポートされていた。熊本市議会で22日、女性市議が生後7カ月の長男を抱いて議場に着席し、開会が40分遅れる騒ぎになった。長男を連れて議場に入ったのは緒方夕佳市議(42)。市議会は「議員以外は傍聴人とみなす」とした上で、傍聴規則で「傍聴人はいかなる事由があっても議場に入ることができない」と定めていることから、議長が緒方市議を注意。開会時間を遅らせて議長室で同市議を説得した。とある。熊本は私の故郷なので他人ごとでない。恥ずかしいの一言あるのみ。
 言葉も話せない・規則もわからない赤ちゃんに、いったい市議会の傍聴券が必要なのか。寝耳に水とはこれを云う。私がドイツ・テュービンゲン大学に留学中、大講義室の先頭座席に、赤ちゃん連れの学生夫婦あり、朝食用のリンゴをかじりながら講義を聴いていた。教授は遅刻する学生には厳しくて中に入れなかったが、共稼ぎの学生夫婦の様子を咎めることなく、赤ちゃんの聴講券を出すようにとの指示など出さなかった。日本はこの点でも時代遅れの感覚で無理解のまま、相変わらず女性や子供の差別をして平然としている。驚く他ない。政治界に於ける男女同権の理念も、現実に沿った柔軟且つ賢明な対応が必要となる。

2017年11月19日日曜日

手にしただけで、未必の故意が疑われる

 平幕貴ノ岩に対する横綱日馬富士の暴力沙汰は、日本とモンゴルの国交に影を落とす世紀の太事件ですね。「もう、あなたの世代ではない」と批判されて暴力に及ぶとは、とうてい考えられぬこと。遜(へりくだ)って、新たな世代に禅譲(ぜんじょう)する心構えが必要ではないでしょうか。最終的に凶器がビール瓶で無かったとしても、白鵬が証言しているように、手にしたのは事実でしょう。法律用語で云う、未必の故意(まっぴのこい、reckless action?)が疑われるのは当然ですね。貴乃花親方との間で平和裏に解決されることを願いたい。

2017年11月1日水曜日

女人の出定と台頭の逸話

 禅の名著『無門関』(むもんかん)に、興味深い喝が逸話として記されている。第四十二「女人出定」(にょにんしゅつじょう)に、釈迦牟尼(しゃかむに)の膝元で三昧(ざんまい)に入った女人あり。覚まそうとしても、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に女人を定より出すことができない。詳細は割愛するが、無門(むもん)の頌(じゅ)が実に面白い。頌(じゅ)とは総括的論評のこと。西村恵信の訳では「頌(うた)って言う。〔女を定より〕出すこと出来るも出来ぬのも、いずれも立派なハタラキだ。神のお面と鬼のお面、失敗するほど面白い。」(補足は私)。
  付記:悟りの世界と政治界とで、違うのは当たり前だが、気になることがある。押しかけ女房ならいざ知らず、押しかけ旦那衆の偏見には、女性の活躍に対する無理解がひどすぎる。「神のお面と鬼のお面」、何方が暴かれようと、自分に返されるは必定であろう。「失敗するほど面白い」で何が言われているかは、失敗から学べるかどうか、改革的精神に立つ真実の自己を探求する意思が有るかどうか、男性議員諸君の受け止め方次第。あくまで私釈である。パワーハラスメントやセクシャルハラスメントが保守系ではもっとひどいとの事実確認は釈明にはならない。