2013年10月16日水曜日

いい加減「そのつもり」をやめないと、「ぶりっ子」では一生埒が明かないよ

【10月22日(火)、2014年3月12日(水)更新】
最近、大学生に限らず小中高生を指導する機会が増えた。そこで気づいたことがある。わかった「ふり」をする、またはわかった「つもり」でいる、ふり・つもりでその場をしのぐ学生や生徒たち、「ぶりっ子」(江口寿史)が非常に多い。なぜだろうか。中には、お世話になっている両親や先生には迷惑をかけたくないという、優しい気持ちからそうしている子も確かにいる。でも、大半はよい子ぶってそうしている。わかったふりをしていると、何も新たに学べない。わかったつもりでいると、学ぶべきポイントを見逃してしまう。だから、(絶対評価でも)成績が伸びないのは当然である。
おそらく、彼らが就職して社会人になっても、同じことの繰り返しになるのではないか、と危惧している。一応考えたつもり、わかったつもりで対応している内に、役に立たない奴だと見捨てられよう。そう、「ふり」や「つもり」は見せかけ(建前上)のことだから、本音では上の空、現に何の成果も期待できない。ならばいっそのこと、自由人のふり・つもり(未成年状態)をやめて、成人した自由人で有る「かのように」振舞う覚悟を決めてはどうか。「かのように」とは、森鴎外の小説でもあるように、現実ではまだそうでないのに、すでにそうであるもの「として」自分を見なし、そのように見なされた自分(社会的自己)を引き受けることで考える我を取り戻し、見せかけの自分(未成年状態)とは手を切る、即刻おさらばすることだ。
ただ教育の上では、子どもたちを「その気にさせる」必要があろう。背伸びしてもらわないと、成人にはなれない。彼らが社会人になった後では、自分の言動に責任を持たせる意味で、個人レベルでの「自己言及性」が問われる。しかし、肝心の社会的自己が曖昧だと、仕掛ける方も仕掛けられる方も同じ穴の貉(むじな)となり、、一緒に罠にはまって抜け出せなくなる。とにかく、国民を「その気・そのつもり」にさせないと、政治も経済もうまくいかない。さぁ、ここが考えどころ。では、大人げない騙しあいに終わらせないためには、どうしたらいいのか。「ふり・つもり」の実態はともかく、実際にその気になって行動をするかどうか、最後は「自己言及性」を引き受ける諸君の覚悟性如何だろう。
宗教的ゲマインシャフト(お寺や神社や教会)でも同じ。「我、知らんがために信ず」(Credo ut Intelligam)というアンセルムスの言葉がある。しかし、信じてもわかったつもりで終わっているケースが多い。牧師でも信徒でも同じ。わかったふり・悟ったつもりの顔(マスク)をして、偉そうに先生ぶったりよい子ぶったりしていると、君は思わぬしっぺ返しを食らう。信じているとは口先だけで、神や仏のことを真面(まとも)に考えることをしない。まして、真理のことなど深く追及しない。だから、一向に討議も交わりも深まらない。その方が楽ちんだから、考えることなどしない、とっくにやめている。パウロは口やかましいから嫌だとか、「赤肉団上」(臨済)の真剣勝負は疲れるからと嫌々している内に、木偶の坊か唐変木になる。仏や神を「信じる」と言いながら何も「考える」ことなく、自然と恩寵の一見矛盾した働きのなぜを問わずにいるとね。単なる無為無策と「安心無為」とは違うよ。やはり、「つもり」の本気を行為で確かめ合う、壁周りの切磋琢磨がないと、どこかタガが緩んで無責任になる。緩みがひどいと何を言っても不毛だから、お尻を叩いてもらうか喝を入れてもらわない限り、とても「諒解関係」(ヴェーバー)など育たない。その点で、禅だけは違うのだろうか。「考え中」を理由にもたついていると、即座に棒で一発叩かれるか、お叱りの一喝を食らう。手痛くても、実にありがたい(笑)。

Shigried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年10月2日水曜日

寒露の季節、旧稿に「大なた」、新稿に「大わらわ」の近況報告

秋分の日(9月25日)はとっくに過ぎて、寒露の季節(10月8日から)となりましたね。見渡せば、いつの間にか、至るところが秋の深まりを色濃く感じさせる今日この頃。私が今していることといえば、一昨年のプラハ講演の原稿に「大なた」をふるい、新たな論文(書き下ろしの新稿)に仕上げるために「大わらわ」の毎日。長年の課題だった「史的ダルマの壁観」について総括する傍ら、「一般社会学言論講義」の草稿造りに、余念なく溌剌として取り組んでいます。そのせいか、とにかくお腹が減ります(笑)。
ところで、大わらわは漢字で「大童」と綴ります。武士が戦場で「髪を振り乱して奮闘する」ように、企業戦士が「形振り構わず仕事に打ち込む様子」を表しています。それにしても、なぜ「大童」と書くのか、三省堂の『漢字海』で調べても、肝心の記述はどこにも見当たりません。『平家物語』に、「兜も落ちて、おほわらわになり給ふ」とあります。「童」は「わらべ・わらわ」の読みなので、子どもが我を忘れ夢中になると髪が乱れることから、大人が兜を脱いで大の童よろしく、髪を振り乱し夢中になって仕事に取り組んでいる姿を、大人げなく燥(はしゃ)いでいると、揶揄しているのでしょうか。語源辞典では、「童」は3歳から10歳くらいの元服前の子供で、髪を束ねないで垂らしている姿を指すとのこと。髪の乱れの形容から生まれた言葉だったんですね。他方、「童」にはなぜか「頭髪が抜け落ちている」という意味もあるようで、抜け毛が気になる私には、こちらも気にはなりますが(笑)。
 それはともかく、年内に論文をドイツ語で完成させる緊急の必要性があり(大学の紀要掲載は2014年6月予定)、ブログ記事に時間を割く機会が減りそうです。そのため、師走に予定している年次総会を除き、毎月開かれている理解社会学研究所の読書会等は、しばし休会とさせていただきます。ご了解ください。(10月8日更新)


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