Sozial-Rede Lektüre (社会学言論)

Allegemeine Sprachwissenschaft nach der soziologischen Kategorien-lehre hat die Aufgabe, die Konventionen der Sozial-Rede und -Gegenrede daraufhin kritisch zu überprüfen, ob und wie sie jeweils zu Stand sind, Einverständnishandeln zur erfahrungmäßig maximalen Geltung zu bringen. (d.i. eine der fünfizig Sätzen von und die Definition nach Shigfried Mayer. copyright all reserved, ab 27. Januar 2011, revidiert am 7. Oktober 2011)
 
「社会学言論」のカテゴリー構想(紀要「多摩論集」掲載の同名の論攷参照)は、オープンスペースのプロジェクトです。社会言語学と言語社会学に重なるか近接した課題を追求します。全体像はまだ荒削りですが、敢えてこれを定義すれば、働くモノとヒトで構成されるゲマインシャフト関係の言論的「存在と行為」に的を絞った、社会学思想の研究です。 なぜ今「社会学言論」なのかというと、単独者が「考える」ことと異なり、社会学概念としての「語る」ことは、すでに(複数の)聞き手を意識した(公共的・討議的な発話動機を持つ)言語行為だからです。しかもヴェーバーでは、ジンメルの歴史心理学的「理解」に曖昧だった点を正し、意味の上で他者に関係づけられた「ゲマインシャフト行為」(『経済と社会』では、ゲゼルシャフト結成へと関心付けられた「社会的行為」)が核心的問題となったからです。その上で、今日のマスメディア論で見落とされている課題、また話題の「公共の哲学」でもそこまでは追跡しない、「諒解ゲマインシャフト」構成員の言論的「存在と行為」の妥当性(確率論・真理論)を、社会思想史に辿りつつ論じる必要があった。その様な理由からです。さしあたり、それが必要になった実際の経緯については、Blogs Aim and Design(ブログの趣旨説明)で述べておいたので、以下では幾つかの今日的応用課題について補足的に論じておきたい。

匿名でのアンケート形式による社会言論の調査について思うに、判断の目安とされる以上の、過大評価が問題となろう。その点を反省するために、いわゆる「世論・輿論」(Opinio Publica, Public Opinion, Öffentliche Meinung)を象る「平均的」社会言論が何か、言論文化興亡の秤縄となる「社会的判断力批判」(プルデュー)がどの様にして可能かを、しっかりと考えてみる必要があります。例えば、「標準規格」から外れるケース(規格外のマイノリティー)をどう評価するかで、ジャーナリズムやソーシャル・メディアの「良心」(Conscientia, Gewissen)が問われるとしても、言論人の社会的「良心」なるものが曖昧では、討議のしようもありません。説得性に乏しく失言に喘ぐばかりの政治言論、信仰を盾に個人主義に立てこもり、社会から浮き足立った組織を合理化するに忙しい宗教言論、均衡理論モデルに一番近いとされながら、景況感に揺らぐ(乱高下する)だけの不安定な経済言論、購買欲をそそるだけの功利主義的なコマーシャル言語の暗躍など、慣習的に是認され流通している社会言論の現状分析を踏まえて、自称啓蒙主義者たちが怠慢の故に陥っている、語ることについての「未成年状態」(Unmündigkeit)を脱却するに必要な、「諒解」可能なゲマインシャフト関係の如何にを追求します。「言論の自由」を満喫し謳歌しながら、身近に「言葉の暴力」が叫ばれて止まず、無力感・悲壮感が蔓延する中で、社会的判断力批判を目的とするにしても、公共的「社会言論の正義」 (Richtschnur der Sozial-Rede)が何かを先ず考えること、その為の考えるヒントを収集し提供するのがこのページの課題です。例えば、記号学の先駆者コンディヤックやその大成者ソシュールに、大切なヒントの幾つかを辿ることが出来るでしょう。
言論の社会調査は、アンケートの平均値に満足せず、「経験の妥当は諒解の妥当」 (ヴェーバー)という原則に立ち、働くモノに応える批判的精神(判断力批判の理念)でこそ共鳴しあえる社会関係を目指します。最後はソシュール論が問題になるとしても、ソシュールが拘った印欧語族の視点を「借用」しただけでは、日本語社会の問題は一向に解決しません。その意味でも、専門学会(学術団体)でしか通用しないような難渋なメタ言語レベルの議論は、ここではしません。予め、お断りしておきます。

マスメディアの言論について、若干の注意点を補足します。元はと言えば、グーテンベルクの印刷技術機械の発明にまで遡ること。文書の大量印刷と一括配布が可能となった結果、また写植技術が高度に発達した影響も加わり、オリジナルとコピー(原本と複製)、真と偽の境界線が見た目にははっきりせぬまま、いつしか情報源の信憑性が失われ、なし崩しに著作権が蔑ろにされる困った現状が一方にあります。他方では、「新聞社会学」(ヴェーバー)などあたかも前世紀の遺物かエピソードに過ぎなかったかのように、マスメディアの言論ツールには目覚ましい発展が伺われます。例えば、最近世界中で急成長を遂げているフェイスブック、一躍ブームとなっているツィッターなど、ソーシャル・ネットワーク・システムの利便性がもて囃されています。制作者の意図とは別に、マスメディア・コミュニケーションツールを利用するユーザー自身の満足度と問題点について、広く読者の皆様に率直なご意見をお伺いしたい。すでに最新のブログ記事、「ツイートに、足りぬ煉瓦のヒント得て」で話題を取り上げてみましたので、ひとまずこれについて、皆様のご感想と評価を仰ぎたいと存じます。

Shigfried Mayer (宮村重徳)