2022年4月10日日曜日

ヌーロジーからヌーソシオロジーへ、理解社会学の新たな地平を模索する

 自然は美しい。しかし、時に民族単位の集団で人のすることは醜い。争い殺し合うのはなぜか。民族の利害を超えた「崇高なる精神」(ヌース)の探究を見失ったせいではないか。

半田広宣のヌーソロジー(NOOSOLOGY)は没概念、用をなさない。基本定式は、ヌース + ロゴス=ヌーロジー(NOOS+LOGOS=NOOLOGY)であり、ヌーソロジーとはならない。ステムはヌー、インマヌエル・カントの『理論理性批判』でもヌーロジー(NOOLOGIE /de)である。『聖なるもの』で知られる宗教学者ルドルフ・オットーのヌーメン(Numen)やヌミノーゼ(Numinose)でわかるように、連辞でない限り、術語形成上母音の挿入はあり得ない。単綴りでは不可、端末子音のスは脱落する。

ヌーロジーのコンセプトは(NOOLOGIE, de)、ドイツの哲学者ルドルフ・オイケン(Rudolf Eucken)によって、「世界と霊魂を包括する精神」(ヌース)として定義されたが、ヌーロジーの系譜はカントの定言命法にまで遡る。「いざ賢明に、自分の悟性(ヌース)を使う勇気を持て!」(Sapere Aude: Habe Mut, eigenen Verstandes zu bedienen. 『啓蒙とは何か』、私訳)問題は、その悟性をいかに行使するか。

一見意外な展開に見えるが、そのベースを合理化し、愛と知と力が渦巻く緊張の場へと理解を深め、無意識の流れを見える化する、アンドレアス・ボッパルト(Andreas Boppalt)の情報科学的手法(メタモルフォロジー)に受け継がれている。今日支配的な、物質と精神の歪んだ世界構造を「脱構築する」こと(deconstruction)が目標とされる。ライプニッツ研究に始まり、ナーガールジュナの空論(ダルマの教え)に着目、フィールドは多岐にわたり、苦を和らげる知のアスペクトは、「知を力」とする知識社会学に相対する。

ただ、ボッパルトには手詰まり感を否めない。他方、怪しげなチャネリングの話は論外として、半田の関心は一見奥深く、物質と精神の抜本的見直しを含め、三次元を超える展望が視野にあるようにも。とはいえ、ヌーロジーの基本定義と定式に沿ってこそ正しく展開可能。サスティナビリティーの大原則である。比較研究から差別化するのが望ましい。

ヌーロジーの手に負えない国際社会の諸問題は、ヌーソシオロジー(NOO-SOCIOLOGY、これぞ「理解社会学」本来の義、マックス・ヴェーバー)によって解決可能。ヌースの本義は、ゲマインシャフト内外に働くモノを、偏りなく「理解する」こと(Understanding, Verstehen)にある。理解規則は「諒解行為」(Einverständnis、主観的な語り振る舞いをする人が、他の期待に準拠して行為すれば、結果として客観妥当な蓋然性が得られる)仕組みを捉え、その都度空け開く場(スペース)に即して、コンセンサスの確率を高める。
21世紀喫緊の課題:プーチンのロシアによるウクライナ侵攻がもたらした国際平和秩序の混乱と破局からの回復を切に祈り求めたい。今回はこれまでとする。異論・反論があれば、喜んで傾聴したい。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved 2022