2019年11月30日土曜日

報いを望まず人に与えよとは

 香港で区議会選挙の圧倒的勝利に酔っている暇はない。日本国内は矛盾の渦なのに、どこも煮え切らず苦痛で顔がゆがみそう。東大名誉教授上野千鶴子先生の、来賓として述べられた新入生歓迎の式辞に驚かされ、思わず心が揺さぶられる。
「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成 果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」
上野先生は、フェミニズムという女性学乃至女性運動の権威として知られる。性差別が当たり前の、頑張りが報われない男性優位の壁社会で、苦々しい思いをかみしめる女子学生諸君の気持ちが吹っ切れる、名言である。壁に映じる影の存在を哲学するだけのハイデガー(男性)に、あなたの言う「実存と何か」と楯突いた、ハンナ・アーレント(女性)の「活動的生」を引き合いに出すまでもない。アーレントは政治不安に有為を訴えたが、壁観して安心無為に逆接する強い心意気あり、注目すべき存在は指標となる。讃美歌21の566番には、自分に「報いを望まず人に与えよ」とある。作詞家はアン・ハナフォード、十九世紀にニューイングランドのユニヴァーサル教会で初めて女性牧師となった人。女性解放運動の先駆者である。『コヘレトの言葉』11章1節が参照されているので、読んで真意を味わってほしい。12月3日更新
追記:上野千鶴子先生は東大総長でなく名誉教授、式辞は総長が語るものと考えていたせいですね。うっかりミスに近い。Yさんのご指摘に感謝。
Shigfried Mayer(宮村重徳)

2019年11月10日日曜日

除籍されたハイデガーとマン、影絵と対座し目が点に

四十三年ぶりに、駒場キャンバス(東大教養学部)を訪問した。一九七三年当時は時計台のある正門校舎の背景は青空のみ、今のように不釣り合いな高層建築の校舎はなかった。ドイツ語研究所部門はその十一階にあり、いざ訪ねてみると、重複図書の都合により「除籍された」ハイデガーとマンの古書(ドイツ語研究文献)などが机の上に山積み状態、中でも、アルフレッド・イェーガーの『神、もう一度マルティン・ハイデガー』と、アンナ・ヘーラースベルク・ヴェンドリナーの『神不在の神秘思想‐トーマス・マンの解釈』(私訳)が目に留まり、とっさに鷲摑み。いかにも、影の国でハイデガーとマンに対座し、駒場で出迎えられているも同然の感触を得て、思わず目が点になる。存在と時間は、その都度のわたしで有ることのタイミング次第、まるで古書の研究課題を委託され、「頼むぞ」と言われているかのようで、全身に衝撃が走る。
本郷キャンバスでは九月から、宮田眞治先生のドイツ語原典講読演習(トーマス・マンの『ヴェニスに死す』)に客人として参加している。偶然にしては繋がりが揃いすぎて、驚き怪しんでいる。理性と歴史の真理探究は堂々巡りして存在の忘却に陥るから、既存の存在論を解体するにしても、事実性の解釈課題として内存在に燻り続ける火種は消し難い、神を抜きにしては、ハイデガーのダス・マン(非本来的実存)もトーマス・マンの壁に映じる影絵作品(無の世界)も語れない。
追記:昨日の11月9日は、一九八九年にベルリンの壁が崩壊して三十年目の節目となる、「壁観」再考の機運となってほしい。詳細は別途に譲る。
注:タイトルのキーワードGottesferneは「神への遠さ」、 Gottesnäheの「神への近さ」への反語。神話的表象を避けて、あえて「神不在」と訳出しておいた。『近さと遠さ―禅への途上』(大島淑子)が参考になる。11月18日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), 理解社会学研究所所長、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、