2014年9月27日土曜日

「げんてん」皆無の現状では誤謬推理だけが跋扈(ばっこ)しよう

【改訂新版】
 「ぜん」との「えん」にケノーシスの「わけ」あって、ハイデガーと取り組み、無名法師のダルマに魅せられるようになった。「ぜんにん」(禅門の人)を悲しませたり、(宗門が異なる)他の誰かを喜ばせたりする意図など毛頭もない。
 思うに、「波斯国胡僧」の祖師なしには、インド仏教はもっと早く滅亡していたのではないか。抽象的な無などどこにもない。無名とあえてなり歴史を避けて生きたヒト、「無となって働くモノ」に徹したこのヒトなしに、中国で大乗仏教が広まらなかったに違いない。このヒトの「かべ・かん」なしには、「ぜん・と」も不安、けごん・てんだい・ほっけの「あらかん」も安心して生きる道はなかったはずだ。そうではないだろうか。
 「ぶっきょう・と」が、「いすらむきょう・と」の侵攻で失われた「げんてん」の復刻を望む気持ちはよくわかる。しかし、サンスクリット語「げんてん」のあるなしで(有無が不透明なままで、訳経・偽経を論(あげつら)うのは非生産的な気がする。翻訳は解釈、新たな作品である。事後的なサンスクリット語化も「と」による再解釈に他ならず、「創作」となんら変わらない。ましてや、文字に依らない・サンスクリット語化による経典の権威付けを求めない「ぜん・と」を責め立て、中国撰述を理由に『けつぎ経』を「偽経」呼ばわりしたり、仏説的分別のあるなしで「けいきょう・と」を「外道」扱いしたりするのは意味がない、やめた方がいいと私には思われる。胡僧の祖師と向き合うことなしに「ぜん」文化の基が考えられないように、壁に共鳴する「けいきょう」現象を抜きにして、「ぜん」の燈史は語れない。
 以上あくまで私見だが、「げんてん」皆無!の現状では、ある「かのような」誤謬推理だけが跋扈(ばっこ)しよう。無いものねだりから来るルサンチマン(裁き合い)の応酬は、百害あって一利なしであろう。不毛な偽経論争に終止符を打つためには、経蔵の「ぶんけん」解釈学だけでもまだ足りない。律蔵・論蔵を含めた三蔵の「りかい」社会学が必要だと思われる所以である。何かのお役にたてばうれしい
 楔は大事なところにそっと打ち込まれる。ダルマの「是如安心者壁観」は楔である。宗派宗門の利害を超えた平和実現の礎、対話の「げんてん」となる。異論また反論があれば、喜んで傾聴したい。(10月19日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年9月16日火曜日

京都への旅、ダルマの影追いヴィトゲンシュタインに...

913日から14日まで、久々に一泊二日の京都旅行。目的は、同志社大学で開催された宗教学会で研究発表するためです。『予言者的「壁観」のルーツとダルマ伝承』は、時間をかけ用意周到に準備した威信の作。アウトラインを解説するだけで優に一時間はかかるものを、十五分で済ますという無理難題を無事済ませてきました。「波斯国胡僧」(ペルシャ系外国人僧)の祖師と「向き合う」ことなしに、「壁観」を論じても何も始まらない、史的ダルマを理解することなしに「壁観」探しは意味をなさないと思うのですが、参加者が少なく反応はいま一つ。「諒解」関係を築くまでには時間がかかりそうですね。今後の課題とします。
 今回の学会で得た唯一の収穫は、ヴィトゲンシュタイン。大正大学の星川啓慈教授は、死後42年たって発見された幻の『哲学宗教日記』の背景となった場所を、自ら散策してヴィデオに収め、解説してくださいました。『太陽とヴィトゲンシュタインの宗教体験』を論じる際に、なるほどヴィトゲンシュタインは「語り得ざること」として、「神について」語ることを自らに戒め、論じることは一度もなかった。しかし「神と語る」ことを止めなかった、むしろ思索の源泉・原動力としていた主旨を伺い、強い共感を得ました。実は、数年前にわたしもこの『哲学宗教日記』を買い求め、読んで深く心を打たれた記憶があります。スピノザのことが先にあり、そのままにしておいた経緯が思い出されます。取り組みの幅ができ、「仏を思い神を考える」ケースタディーの選択肢も増えて、今後がいよいよ楽しみです。(10月2日更新)
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo.