2014年1月25日土曜日

「脱・原発」で都政を問えば、知事自ら安心の壁=民心の鏡でないと

 「脱」と言っても、脱法や脱臼の話しではないですよ。脱人間化(非人格化)のように、誤った縛りを脱することです。『知性改善論』でスピノザが言っていることは、富と名誉と快楽を追求する際の秤縄となる「最も善きモノ」が何であるか。神即自然を壁また鏡にして、レンズを磨きながら考えて、必然の定めとしてある萬有の「法」の如何にを、平民の目線で淡々と問い続けている。もとはラテン語と言っても、面白いですね。なぜか自然言語でする職人的工房の奥深い味わいがある。それに事実上、これが『エチカ』の序論の役割を果たしている。他方、『神学・政治論』の副題は「聖書の批判と言論の自由」でした。最高善を追求する「知性」とは、悟性また理解力のこと、彼にとっては常に社会言論のカテゴリーです。これが、『国家論』でますます明瞭になります。
 今日の問題として読み直すと、例えば首都や国家の戦略として、誰かがエネルギー政策の転換を図るために、「脱・原発」或いは「原発ゼロ」を提唱するとします。もちろん、間近に迫った東京都知事選挙の話です。政界を引退した人(細川さん)が、盆栽をいじり陶器を焼く一職人として生きたその延長線上で、或いは(宇都宮さんが)弁護士的職人気質に徹して、東京都民にとって「最も善きモノ」が何か・如何にして達成されるのかを、「脱」或いは「ゼロ」で論じようとしている。面白いじゃないですか。別に、細川さんや宇都宮さんをスピノザのケースと同一視するつもりはないですよ。でも、田母神さんにはない、およそ桝添さんとも違う何か、異なる味わいが二人にはある。
 「脱・原発」を言うことで、都知事の立候補者が肝に銘じておくべきことは、自然と社会の萬有を貫く(神即自然の)「法」の働きを証左しつつ、都民のために知事が自ら安心の壁=民心の鏡となることです。
2020年の東京オリンピックについては、政治介入ゼロのスタンスを願いたい。
(2月1日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年1月15日水曜日

百年に一度ならまだしも、一年に百度のリスクを抱え込まない為に

最近の新聞報道では、中国検索大手「百度」(バイドゥ)のIMEが、入力文字情報を無断送信したことについて、全国で話題になっている。「全国の都道府県と政令市のうち29府県市で1000台以上の公用パソコンに同ソフトが使われていた」事例が発覚したばかり。皆が口をそろえて、「入れた覚えがない」という。原因は、何らかのアプリケーションに抱合せで組込まれたプログラムが実行されている。実行するには、圧縮プログラムが解凍されなければならないが、その際の解凍するアプリケーション(例えば、汎用性を装った FreeZipsetup*.exe)に、抱合せで組み込まれている(すでに確認済み)。セットアップの結果は、使い慣れたホームサイトでなく、身に覚えがない「百度」(バイドゥ)のサイトが立ち上がる。つまり、ha123.exe の実行された画面が表示される。
対策: ①あわてずに、「スタート」から「ファイル名を指定して実行」を選ぶ。この画面で、msconfig を実行、②「スタートアップ」から身に覚えのないプログラムの実行を止めるために、チェックをはずすこと。③それでも、NU(ノートンユーティリティーズ)などの整合性チェックで、(ha123.eseの)「プログラムが存在しないか、(レジストリーの記述が)妥当でない」と指摘されて、「修復」するかどうか聞かれる。一括して「修復する」を選ばないこと、まずチェックを外して、決して修復させない!こと。多々ある喪失プログラムの一つとして表示されるので、意外と見逃されやすい。ha123の文字列が見つかったら、必ずチェックを外し実行を阻止すること。④コントロールパネルを開いて、不要なアプリケーションの削除を実行する。そうしても残るもの(以上の現象以外)については、随時対応していく他ない。⑤さしあたり、海外でも中国人が多数住む所(例:ドイツなど、中継地点経由)で制作された便利なアプリケーション(例えば、人気の高い babylon.exe など)を信用しない・実行しない・「翻訳」させない!こと。レジストリーの深い部分にまで食い込んでいるので、削除が大変。確かに、自動翻訳プログラムは便利だが、素性の知れないものが多い。リスク満載であることを忘れてはいけない。理解したければ、自分の手で辞書を開いて訳しなさい!人任せが一番の禁物です。他にも、フラッシュプレーヤーに抱合わせでついてくる mcafeescan.exe も要注意。随時、問い合わせには応じたい。問題があれば、いつでもご連絡ください。(1月25日更新)
【注1】FreeZipsetup*.exeには二つあり、FreeZipsetup-OmWXXEvZV.exe と FreeZipsetup-dBM9hLU.exe、まちがっても絶対に手を出してはいけない。
【注2】リスクの管理は自己責任ですること。無断送信は個人情報の漏えいにつながる、言論の自由を脅かすものだから、これを蔑にする国のソフトを安易に信用してはいけない。
Shigfried Mayer (宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology

2014年1月1日水曜日

年頭所感: 不在の仕方で現前する、「神即自然」の《身振り》に学べ


 

 スピノザが「理解社会学の祖」だというのは、ユルゲン・ヘレ(Jürgen Helle)のテーゼです。『エチカ』の各論ごとに随所で、「わたしは~と理解する」(intelligo)と繰り返していることから、それなりの説得性はあります。但し、働くモノとしての神は非人格性で一貫しており、目的合理性を寄せ付けない。その点で、我が思う主観世界の存在基盤(近代人の分裂症的自己理解)を揺さぶり、社会学思想さえも「脱臼」させるほどのすごいインパクトがある。中でも『神学政治論』は、ヘブライ語法を駆使した先駆的聖書解釈(高等批評)で物議をかもした経緯があり、これを社会学言論の課題として読むと、もっと面白いですね。とにかく、今年は(個人研究の枠内ですが)スピノザを論じることで、法政大学大原社会問題研究所の嘱託研究員としての役割が果たせるものと考えています。初代の大原孫三郎先生がクリスチャンであられたように、牧師を兼務する私が研究所に貢献できるよい機会ではないか。そのように考えて、「神の身振り・目配せのみによって動かされる」(Nos ex solos Dei nutu agere)存在を紐解き、「天馬」スピノザに於いて働くモノが何かを見届けること。生成する現実から目を逸らさずに、しっかりと神即自然に向き合いたい。これを以て、実りある一年の事始め、今年の年頭所感としたい。(1月7日更新)
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