2011年12月31日土曜日

安全神話の「壁」崩落、衝撃の一年を回顧する

Stoß der zerstörten Wand oder gefallenen Mauer, eine Rückblick
【2012年1月1日(日)、更新】
 東日本大震災(2011年3月11日)は、22年前のベルリンの壁崩壊(1989年11月10日)に比肩する、壁崩落の事件だった。貸し借りを含む分別の世界を、根底から揺るがす大地と大海の力に、驚愕し言葉を失わなかった人はいない。「想定外」の津波被害を食い止めるために築かれた、釜石が自慢する世界一のスーパー堤防(壁)が脆くも崩れ去った。東京電力福島第一原子力発電所の原子炉建屋の壁が、水素爆発で無惨に崩れ落ちた。近代科学に胡座をかいた安全神話の壁が、ことごとく崩れ去ったのである。一連の出来事を目の当たりにして、茫然自失に陥らずに済んだ人は事実一人もいなかった。リーマンショックの衝撃で世界の経済が一挙に混迷し、世界的金融危機に陥って以来の、地震と津波と原発事故という三重苦の傷跡が癒えぬ間に、我々は満身創痍で新年を迎えようとしている。これが予兆に過ぎず、今度は大空の異変から何が起きてもおかしくない、地球文明の破局さえ予感する人がいる中で、大地と大海と天空の運動に翻弄されるだけの、塵にも等しい人の存在に、我々は何を期待できようか。
 いったいどの様な仕切り「壁」を築けば、人間は自然の脅威から身の安全と保証を確保できるのだろうか、深く考えされられる一年であった。「自然の精神」を詠い、超越論的構想力を以てして、自然を越える働きを手中に収めたはずの人間が、「未成年状態」に逆戻りしているのはなぜか。啓蒙主義以来の理性主義(理性神信仰)が、「言葉」という壁の上限を穿った(が、依然「言葉への途上」にある)のに対して、「想定外」の名目で「無」という壁の下限を疎かにしていたツケが回ってきたのだ、と言うことも出来よう。自然の働きは法則を「説明する」ことで納得されようが、社会(ゲゼルシャフト)を構築する人間の働きは説明だけでは足りない、なぜ未だに「未成年状態」であるのか、(行為者の主観的意味を)「理解する」ことが必要とされる。或いは、それだけでもまだ何かが足りない。壁となって働くモノを観る・しるしを見届けることが、来る年の最重要課題となるはずである。壁という概念は多義的だが、さしあたり人格性・身体性の意味で理解しておきたい。
 「理解社会学の工房」では、本年度ヴェーバーよりもフッサールとハイデガーにシフトしたブログを多く掲載してきた。その理由は、大学でのテクスト研究の要請に拠るほかに、来年5月に開催されるプラハ会議での講演を準備する目的からである。読者には、その点をご理解いただきたい。社会言論の世界は、強い風に吹き飛ばされるか大海の波間に漂流する言の葉のモザイク模様、乱舞する表層面に惑わされてはいけない。働くモノは大地深くにあり深海にあり天空の彼方にあり、我々の身体性の秘密を紐解く鍵となる。諸君が神の存在を否定するなら、それに代わって現に其処で自分の壁となって働くモノをしっかりと観るか、崩落した壁にしるしを読み取ることで、納期の迫った師走を背後にしつつ、無事で新年が迎えられるよう祈るほか無い。痛みを伴う決断を先送りすると生涯デフレに陥るので、我が身の人生の納期を自覚し先駆的に死へと歩むにしても、或いは「復活の未来」から今を生きるにしても、「平常底」の決意を常に新たにすることで、青天霹靂の年末年始を迎えて欲しいと願う次第である。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 / 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年12月11日日曜日

「目白押し」のXmas-豊かさと貧しさの記号論

Was dem Weihnachtenmarkt  fehlt,  zur Semiotik des Reichtums und der Armut
【12月14日(水)更新、改題、イラスト挿入】
 本格的なクリスマスシーズンを迎え、日本中が震災からの復興特需に肖ろうとして、どこも商いで大忙し。ですが、売りに出されている物と言えば、クリスマスとはおよそ無縁の "X"mas の特価品ばかり。目玉商品というと、クリスマスの時期に乗じて発表される新製品でしょう。例えば、目を見張るダイヤの指輪であったり、お買い得のドレスやバッグに乳母車付きであったり、最先端技術と流行を生かした新車やパソコンであったりします。特製のクリスマスケーキは欠かせないとしても、クリスマス事件の本体に代わる目玉とは言えません。流石に(かつてのキリスト教諸国である)欧米では、クリスマスの工芸品が「目白押し」と言ったところでしょうが、これは装飾品の類です。押し出された子が端っこに行って、中にいる子を押し出すゲームのように、クリスマス祝会ではぐるぐる周りの押しくらまんじゅう、目玉のプレゼント(my X)にたどり着けばそれで御の字、「目白押し」は豊かさの象徴ですね。秋から冬にかけて小鳥のメジロが枝に留まるとき、押し合うように横並びする可愛らしい群れの習性から来たと伝えられています。最新鋭のi-Padやスマホ欲しさに、君たちも早朝から店頭に立ったとき、寒風に震えながら「目白押し」に並んだことがあるでしょう?
     
なるほど、町のクリスマスは目白押しで賑やかに見えますが、しかしその始まりは貧しい人々の祭りごとでした。マタイ福音書(2章)が伝える三人の博士(星占いの学者先生たち)は特例枠として、ルカ福音書(2章)が語り伝える羊飼いの訪問や馬小屋での誕生物語で知られるのは、そのいずれも裕福ではない。その反対に、むしろ泊まる宿さえない、ひどく貧しい佇まい(ein mangelhaftes Wesen an jede Substanzen)です。神が人の子として生まれたという「受肉」(Incarnatio)の出来事は、神(無限者)がご自分を貧しくする(有限を受け入れる)事件でした。その意味で、神の存在が豊かさの記号であれば、クリスマスで話題となる人(幼子イエス)のそれは貧しさの記号ですね。人の貧しさの中に豊かさを宿らせた事件だったというのも、一通り理解できます。
他方で、私たちが自然の働きについて語る場合、自然の恵みを豊かさと言うことはあっても、自然の脅威を貧しさとは言いませんね。自然がギリシャ語のフュシスからラテン語のナトゥーラに翻訳されて以来、生成消滅の消滅部分が消えて、生成し産出する側面だけが注目されるようになった。科学信仰に後押しされた発展思想の始まりです。だから最近では反省を込めて、生態学的危機に対処するには、ギリシャ的自然理解(大地の経験)に戻らないといけないという議論が盛んになりました。ハイデガーも『芸術作品の根源』で翻訳の問題を取り上げ、ギリシャ語のヒュポケイメノン(基体)がラテン語のスブスタンティア(実体)へと訳出されたとき、ギリシャと「等根源的な経験」が無いままで誤って実体と訳された経緯を問い質し、これは由々しき問題だと指摘し、ローマ的思考(「ローマ法」の上に築かれたキリスト教神学・スコラ哲学的存在論)を公然と批判しています。「ギリシャ的大地の経験とローマ的世界の原闘争」とは、相当に挑発的な物の言い方ですね。「物とは何か」という問いが「歴史的」だとすると、ギリシャを頂点とした「芸術の終焉」を語るヘーゲルを避けては通れません。真理論を時間論との連関で論じる際に、ヘレニズムとヘブライズムの何かが混同されていないか、問題が再燃しそうです。
通常、サブスタンスのある人(a man of substance)は「裕福な人・資産家」を指していることからも分かるように、スブスタンティア(実体)は豊かさの記号です。スピノザが『エチカ』で《神もしくは自然》を語り、神を「実体」と言うとき、実体が豊かさの記号であることが示唆され、議論の大前提となっています。したがって、貧しさの側面が記憶面から消えていったのは、自然の成り行きと言えるでしょう。クリスマス神話を紐解く鍵は、「自らを貧しくする」と言うケノーシス論の課題、ずばり記号論的な意味合いを持つ神話的言語事件です。
にもかかわらず、クリスマスと言うだけで新製品の発表に「目白押し」の来客を期待して、商機を捻出し画策する為には形振り構わない、入れるべき肝心の目玉がない・眼目を坐視した商慣習にはうんざりします。せめても、人形のダルマさんに「目を入れる」ような、それなりにクリスマスらしい目玉(メルクマール)が欲しいものです。社会言論としては、「らしさ」を演出するコマーシャル論の課題ですね。目玉に当たる「それ」がないと、「諒解関係」に必要な信頼価値が失われます。
そこで、最後に諸君に聞きたい。豊かさを決める自然らしさ・本物らしさ・人間らしさ・自分らしさの「らしさ」とは、いったい何でしょうか?
ヒント:「らしさ」については手持ちの辞書や事典で調べること。自分らしさの指標、時の重さ(豊かさ)を量るには、エスの天秤にかけてみること。(前回のブログ参照)

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the institute for Rikaishakaigaku