2017年9月29日金曜日

己事究明を抜きに、小池の国政復帰にエール送るも、はてなかな

 簡単なことです。都民ファーストの人々が仕掛け人となって、後は私たちに任せてください。小池知事は、安心して国政に専念なさってください。国民がみな期待していますから、と転身しやすい環境を整えてあげるだけでいい。彼女のプライドを傷つけるようなことを言うと、逆に居直られて困ったことにも(笑)。閉塞した日本の社会が変わる予感がします。安保体制については私自身の理解も意見も全く違うが、日本の政治は保守層の自己変革からしか変わりようが無いのかも。
 政治変動のすごいエネルギーを感じますね。一方では、前原氏の決断にもよくやったと拍手したい処だが。拙速すぎではないのか。ともあれ、民進党の自己解体は寂しいですね。行き場を失った旧社会党系の人たちは、「空に住せず」と居直って、無名法師の気迫で無事生き延びてください。親芋が子種の栄養源となってこそ、新芽は育つ。官さん野田さん、聴いていますか?世代交代の時期にいくら叫んでも犬の遠吠え、残念だけど、誰も聴いてくれない。当面は、無・所属でこそ立つ瀬もあれ!と願いたい。柵(しがらみ)の無い、革新政党人の己事究明(こじきゅうめい)!が待たれる。
 追記:選別はグループの立ち上げに必要なこと、排除の論理は結果論ではないかと思う。希望の勢いに便乗したい、勝ち組に肖(あやか)りたいと思う諸君は自粛した方がいい。勝ち負けの打算こそが柵(しがらみ)政治の原因だから。無心で臨まないと、政権打倒は実現できない。
 蛇足:そんな寂(さみ)しい思いは棄て去りなさい。革新政党が日本で愛される何か別の道があるはず。卑近な例だが、禅宗祖師・ダルマの「壁観(へきかん)して安心無為」から、在家の修行者・居士(こじ)を中心に、漢魏の世界を覆す下からの宗教改革が始まった。十二世紀初頭の日本の達磨宗はそれを受ける。今年で五百年祭のルターの宗教改革を先取りする大事件に先立つこと一千年も前の話だ。改革精神を生きる己を見直すよいシャンスではないか。10月1日(日曜日)更新
 Shigried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2017, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo. 


2017年9月10日日曜日

蝉の抜け殻同然の国に日本人が旅行しないわけ

  ネットで話題の主題(中国人が不思議に思う、「なぜ日本人は中国に旅行しないのか」)について、一言ツィートする。遣隋使に遣唐使、隋・唐・宗の中国は達磨禅の精神で躍動し輝いていたから、旅して学ぶに十分な魅力が巷に満ち溢れていた。今の中国は金漁りばかりで心が無い、資本主義の殻を纏っているが、肝心の資本主義の精神に当たるものが見当たら無い。共産主義も名目ばかりで、毛沢東の精神さえ失われて跡形も無い。信教の自由も表現の自由も統制され、まったく保証されてい無い。どこも無いない尽くしである。残念だが、蝉の抜け殻も同然の国に、誰もあえて旅行したいとは思わない。何も学ぶものが無いから。上辺のイメージを塗り替えても駄目だろう。そう思うのはおそらく私だけではない。日本人の多くがそう感じていよう。
〔追記:〕こう云うのは、中国の友人たちに奮起を促し、栄えある自国の精神文化を見直し、掘り起こしてもらいたいからである。物質的繁栄の技術は盗めても、精神文化の技法は盗めない。学ぶ心が無いと修得できないことは、中国と日本の交流史でも周知のこと。「文化大革命の失敗から学ぶ」謙虚な姿勢が大事ではないのか、改めて中国の友人たちに問いたい。政治は国民の為にある。党派の為に国民が犠牲になるのは本末転倒であろう。

2017年9月4日月曜日

シュライエルマッハー『弁証法』講義、逸話は未渡し分の覚書

十二年間のドイツ留学中に、シュライエルマッハーの『弁証法』講義ほど、感銘を受けたものは他にない。ユンゲル教授の指導の下で逸話は尽きない、二年半有余の歳月をこの書だけに打ち込んだゼミナーの記憶がまだ生々しい。大学の所属先に関係で一度も取り上げることが出来なかったが、九月に始まる獨協大学での最終講義、秋学期のテクスト研究でこれを取り上げる可能性があることをつけ加えておきたい。逸話はアネクドーテ、接頭語のアでエクドータを否定して、未渡し分・未公開のお披露目である。
前回のブログでは、ハイデガーの『プラトン講義』に代えてヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』を講読すると宣言したが、学生諸君が望めば、こちらを選択する可能性もある。オーデブレヒト編集の『弁証法』は、「対話弁証法」のモデルとなった書物である。内奥的自我であれ社会的自我であれ、自他と向き合い対話するに、助けとなる手摺があると有り難いもの。