2017年12月10日日曜日

本題を改め『ダルマコード』とすることに

 一連の史的ダルマ研究の最新版を刊行するにあたり、本題を『ダルマコード』とすることにしました。副題は検討中、おそらく「禅に学ぶ自己の記号学」に落ち着くことになりそうです。年末年始の刊行を予定していますが、多少のずれは想定内。楽しみにお待ちください。数年前にダン・ブラウンの『ダビンチコード』が話題になったことがあるのを皆さまもご存知でしょう。本書は画像の謎解きでなく、言語経験の紐解きになるので、全く異なる仕様になります。

2017年11月23日木曜日

赤ちゃんに市議会の傍聴券が必要なのか

 今朝の各紙に、「あかちゃん連れを市議会認めず」との見出しのもと、ある怪事件がレポートされていた。熊本市議会で22日、女性市議が生後7カ月の長男を抱いて議場に着席し、開会が40分遅れる騒ぎになった。長男を連れて議場に入ったのは緒方夕佳市議(42)。市議会は「議員以外は傍聴人とみなす」とした上で、傍聴規則で「傍聴人はいかなる事由があっても議場に入ることができない」と定めていることから、議長が緒方市議を注意。開会時間を遅らせて議長室で同市議を説得した。とある。熊本は私の故郷なので他人ごとでない。恥ずかしいの一言あるのみ。
 言葉も話せない・規則もわからない赤ちゃんに、いったい市議会の傍聴券が必要なのか。寝耳に水とはこれを云う。私がドイツ・テュービンゲン大学に留学中、大講義室の先頭座席に、赤ちゃん連れの学生夫婦あり、朝食用のリンゴをかじりながら講義を聴いていた。教授は遅刻する学生には厳しくて中に入れなかったが、共稼ぎの学生夫婦の様子を咎めることなく、赤ちゃんの聴講券を出すようにとの指示など出さなかった。日本はこの点でも時代遅れの感覚で無理解のまま、相変わらず女性や子供の差別をして平然としている。驚く他ない。政治界に於ける男女同権の理念も、現実に沿った柔軟且つ賢明な対応が必要となる。

2017年11月19日日曜日

手にしただけで、未必の故意が疑われる

 平幕貴ノ岩に対する横綱日馬富士の暴力沙汰は、日本とモンゴルの国交に影を落とす世紀の太事件ですね。「もう、あなたの世代ではない」と批判されて暴力に及ぶとは、とうてい考えられぬこと。遜(へりくだ)って、新たな世代に禅譲(ぜんじょう)する心構えが必要ではないでしょうか。最終的に凶器がビール瓶で無かったとしても、白鵬が証言しているように、手にしたのは事実でしょう。法律用語で云う、未必の故意(まっぴのこい、reckless action?)が疑われるのは当然ですね。貴乃花親方との間で平和裏に解決されることを願いたい。

2017年11月1日水曜日

女人の出定と台頭の逸話

 禅の名著『無門関』(むもんかん)に、興味深い喝が逸話として記されている。第四十二「女人出定」(にょにんしゅつじょう)に、釈迦牟尼(しゃかむに)の膝元で三昧(ざんまい)に入った女人あり。覚まそうとしても、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に女人を定より出すことができない。詳細は割愛するが、無門(むもん)の頌(じゅ)が実に面白い。頌(じゅ)とは総括的論評のこと。西村恵信の訳では「頌(うた)って言う。〔女を定より〕出すこと出来るも出来ぬのも、いずれも立派なハタラキだ。神のお面と鬼のお面、失敗するほど面白い。」(補足は私)。
  付記:悟りの世界と政治界とで、違うのは当たり前だが、気になることがある。押しかけ女房ならいざ知らず、押しかけ旦那衆の偏見には、女性の活躍に対する無理解がひどすぎる。「神のお面と鬼のお面」、何方が暴かれようと、自分に返されるは必定であろう。「失敗するほど面白い」で何が言われているかは、失敗から学べるかどうか、改革的精神に立つ真実の自己を探求する意思が有るかどうか、男性議員諸君の受け止め方次第。あくまで私釈である。パワーハラスメントやセクシャルハラスメントが保守系ではもっとひどいとの事実確認は釈明にはならない。

2017年10月17日火曜日

運動体の長には、歴史を俯瞰する力が求められる

  蓮舫さん、「排除の言葉に耳を疑った」と言う前に、革新政党でもない希望の党になぜ合流の伺いを立てる必要があったのか、説明責任がある。あなたが辻村さんを支援する場で前原代表を批判するのはわかる、それはそれで結構だが、最初から保守系改革派を標榜している小池百合子氏(現:東京都知事)に、党を挙げて「下駄を預ける」ようとする姿勢自体を自己反省しないと、便乗か風雲任せではと疑われ、排除されたのは自己責任ではと国民の失笑を買う。
 希望の党は立ち上げたばかりの、女性が多勢を締める弱者の政党、政治への女性参加の比率が極端に低い日本を改革しようとする試みについて、判断は慎重に選択は常にオープンにしておきたい。私自身は枝野氏の立憲民主党に近い立場だが、あえて申し上げておきたい。前代表の蓮舫さん、揚げ足取りをしたり、合流した仲間を誹謗したりするだけでは、現行主流派の保守系を利するのみではないのか。
 枝野さん、あなたが言う通り「後ろ向きならない。排除の論理を取らない」なら、希望に合流した仲間を排除しないはず。総理経験者の野田住彦氏のように、彼らも支援してあげたらいい。歴史を動かす運動体の浮沈には、それなりの因果がある。トップを目指す政治家には、歴史を俯瞰する力が求められ、それ次第で真意が試される。よく考えてほしい。
  前原さん、現代表としての決断に敬意を表したい。事態の成否は見守る他ない歴史は縁の結ぼれ次第、後は説得力です。国民が納得して共鳴してくれることを祈りたい。反論があればお聞きする。
 小池さん、少しちぐはぐになりましたね。風聞に気後れせず、女性政治家としての真実一路を追究してください。今は辛抱の時、遠からず希望の時は来るはずです。ツィートの第五段。

2017年10月15日日曜日

男性優位のやくざ政治に女性が挑む選挙とも

 政治界に於ける女性の役割が極端に低い日本では、醜聞に隠蔽を辞さない男性優位のやくざ政治が原因となっている。これに怯まず、政治未経験で弱い立場の女性たちが挑む、未聞の選挙態勢となる。誰を応援するかは、候補者の心中を見破る諸君の隻眼に委ねられる。
ツィート第三段。

2017年10月12日木曜日

身命を賭け己を抛(なげうつ)覚悟が無いと

 各新聞社のアンケートが指摘する処では、与党保守勢力の現状維持が予想されています。せっかくの「希望」が勢いを持たないのは、自らの身命を賭して己を抛(なげうつ)覚悟が見えないからではないか。惜しまれるが、勝負は始まったばかり。革新派を自認する諸君と小池氏の奮起に期待する他ない。
 変動期に立場の移動や組み換えが生じるのは当然のこと、「ころころと変わる」との与党の宣伝文句に惑わされてはいけないよ。若者たち、誰が一番信頼できるか、口上手でなくても安心して任せられる人を選びなさい。ツイートの続き。10月13日更新。

2017年10月8日日曜日

憲法九条に文民統制明記も、森友・加計学園の説明責任放棄では

 安倍首相の最新の発案、憲法九条に文民統制を明記しても、森友・加計学園の説明責任放棄では、誰も信頼するはずがない。選挙の為のリップサービスに惑わされてはいけない。今日のツィートから。

一般社会学言論講義は、終わりから始める対話の技法

 一九八八年以来三十年務めた獨協大学での最終講義(テクスト研究)は、受講者と相談の結果、テクストはマックス・ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』構想に決定しました。実は、何処から切り込んでも同じなんです、シュライエルマッハーの弁証法講義でも、ハイデガーのプラトン講義でも、自他と向き合う仕方を学ぶ点で、禅で云う「己事究明」(こじきゅうめい)に尽きることです。これを、主観的意味理解と客観妥当性を巡り社会学的に「諒解経験」(りょうかいけいけん)として論じるか、弁証法で対話する「心」について心理技法(後の精神科学)から論じるか、洞窟の壁に映じる影を観て、真理に関する譬喩言論を捉え直し、「覆われの無さ」として自己究明をするか。いずれも同じことです。学生諸君の決断に敬意を表し、この秋学期は一番身近な問題、自ら理解することが誰にでも納得のいくような経験妥当性を得るにはどう対話したらいいのか。終りから始める対話の技法を習得する為に、一般社会学言論の総論を講義じます。その真骨頂は公開性、覆われの無さにあり、今日衆議院選挙をめぐりお騒がせな政治家の崢論(じょうろん)でも然り、いずれ、影で何と向き合っているかではっきりとします。近代人の陥りやすいジレンマについては、一緒に考え追求してみましょう。私が学び得たすべてを提供します。終りから始めること(目的合理性)に関心のある方の聴講を募ります。

2017年9月29日金曜日

己事究明を抜きに、小池の国政復帰にエール送るも、はてなかな

 簡単なことです。都民ファーストの人々が仕掛け人となって、後は私たちに任せてください。小池知事は、安心して国政に専念なさってください。国民がみな期待していますから、と転身しやすい環境を整えてあげるだけでいい。彼女のプライドを傷つけるようなことを言うと、逆に居直られて困ったことにも(笑)。閉塞した日本の社会が変わる予感がします。安保体制については私自身の理解も意見も全く違うが、日本の政治は保守層の自己変革からしか変わりようが無いのかも。
 政治変動のすごいエネルギーを感じますね。一方では、前原氏の決断にもよくやったと拍手したい処だが。拙速すぎではないのか。ともあれ、民進党の自己解体は寂しいですね。行き場を失った旧社会党系の人たちは、「空に住せず」と居直って、無名法師の気迫で無事生き延びてください。親芋が子種の栄養源となってこそ、新芽は育つ。官さん野田さん、聴いていますか?世代交代の時期にいくら叫んでも犬の遠吠え、残念だけど、誰も聴いてくれない。当面は、無・所属でこそ立つ瀬もあれ!と願いたい。柵(しがらみ)の無い、革新政党人の己事究明(こじきゅうめい)!が待たれる。
 追記:選別はグループの立ち上げに必要なこと、排除の論理は結果論ではないかと思う。希望の勢いに便乗したい、勝ち組に肖(あやか)りたいと思う諸君は自粛した方がいい。勝ち負けの打算こそが柵(しがらみ)政治の原因だから。無心で臨まないと、政権打倒は実現できない。
 蛇足:そんな寂(さみ)しい思いは棄て去りなさい。革新政党が日本で愛される何か別の道があるはず。卑近な例だが、禅宗祖師・ダルマの「壁観(へきかん)して安心無為」から、在家の修行者・居士(こじ)を中心に、漢魏の世界を覆す下からの宗教改革が始まった。十二世紀初頭の日本の達磨宗はそれを受ける。今年で五百年祭のルターの宗教改革を先取りする大事件に先立つこと一千年も前の話だ。改革精神を生きる己を見直すよいシャンスではないか。10月1日(日曜日)更新
 Shigried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2017, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo. 


2017年9月10日日曜日

蝉の抜け殻同然の国に日本人が旅行しないわけ

  ネットで話題の主題(中国人が不思議に思う、「なぜ日本人は中国に旅行しないのか」)について、一言ツィートする。遣隋使に遣唐使、隋・唐・宗の中国は達磨禅の精神で躍動し輝いていたから、旅して学ぶに十分な魅力が巷に満ち溢れていた。今の中国は金漁りばかりで心が無い、資本主義の殻を纏っているが、肝心の資本主義の精神に当たるものが見当たら無い。共産主義も名目ばかりで、毛沢東の精神さえ失われて跡形も無い。信教の自由も表現の自由も統制され、まったく保証されてい無い。どこも無いない尽くしである。残念だが、蝉の抜け殻も同然の国に、誰もあえて旅行したいとは思わない。何も学ぶものが無いから。上辺のイメージを塗り替えても駄目だろう。そう思うのはおそらく私だけではない。日本人の多くがそう感じていよう。
〔追記:〕こう云うのは、中国の友人たちに奮起を促し、栄えある自国の精神文化を見直し、掘り起こしてもらいたいからである。物質的繁栄の技術は盗めても、精神文化の技法は盗めない。学ぶ心が無いと修得できないことは、中国と日本の交流史でも周知のこと。「文化大革命の失敗から学ぶ」謙虚な姿勢が大事ではないのか、改めて中国の友人たちに問いたい。政治は国民の為にある。党派の為に国民が犠牲になるのは本末転倒であろう。

2017年9月4日月曜日

シュライエルマッハー『弁証法』講義、逸話は未渡し分の覚書

十二年間のドイツ留学中に、シュライエルマッハーの『弁証法』講義ほど、感銘を受けたものは他にない。ユンゲル教授の指導の下で逸話は尽きない、二年半有余の歳月をこの書だけに打ち込んだゼミナーの記憶がまだ生々しい。大学の所属先に関係で一度も取り上げることが出来なかったが、九月に始まる獨協大学での最終講義、秋学期のテクスト研究でこれを取り上げる可能性があることをつけ加えておきたい。逸話はアネクドーテ、接頭語のアでエクドータを否定して、未渡し分・未公開のお披露目である。
前回のブログでは、ハイデガーの『プラトン講義』に代えてヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』を講読すると宣言したが、学生諸君が望めば、こちらを選択する可能性もある。オーデブレヒト編集の『弁証法』は、「対話弁証法」のモデルとなった書物である。内奥的自我であれ社会的自我であれ、自他と向き合い対話するに、助けとなる手摺があると有り難いもの。

2017年8月25日金曜日

赤と黒の資本主義、貧富の格差社会に不在の精神を探る

 精神無き資本主義は蝉の抜け殻、赤と黒の何方(どちら)に転んでも針の筵(むしろ)である。獨協大学に勤務して今年でちょうど三十年目になる。最後となる秋学期は、予定を変更して、ハイデガー講読の続きに代えて、マックス・ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』をテクスト講読することにした。わたしの人生を左右した一書である。冒頭で、蜜蜂マーヤのアニメを観賞し、理解社会学への手引きとする。今日第四次産業革命の旗印のもとに導入されるインダストリー4.0で、いったい経済社会の何が変わるだろうか。精神無き資本主義は蝉の抜け殻、人間不在に秋波が靡く中で、はたしてインダストリー4.0の導入で、不在の仕方で働くモノ、資本主義精神の復活はあり得るだろうか。ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』構想は、意外なヒントに留まらず、またとない理解と実践の鍵を提供する。関心ある諸君の受講を期待する。

2017年8月6日日曜日

直感と直観、湯川秀樹と小林秀雄の対話から

『直観を磨くもの』(新潮文庫710)、小林秀雄の対話集を読んでみた。各界を代表する人物の中でも、湯川秀樹との対談になると、小林の鋭い直観が空振りし始める。湯川は科学者らしく、そうかもしれぬがそうでないかもしれぬと、返答はのらりくらりとして、エントロピーを巡る人間の直感に付け入る隙を与えない。小林が困るのは、評論しようとして持前の直観で物言うのだが、それが相手に通じない。第三者の立場を想定した、謂わば観測者の物言いが退けられる、壁に撥ね返されるからである。理性の因果律を巡りやり取りされる中でも、確率論となると熱い火花が散り始める。小林には、パスカルの『パンセ』(実験的精神の、賭けとしての確率論)が脳裏にある。
 では、科学者に、直感や直観は無いのだろうか?科学の真理は直感や直観の対象でないと云うことか? 湯川秀樹だけでない、チャールズ・サンダース・パースも科学職の人である。先行認識なしに物事の認知は成立しない。直観の介在を認めないのは、専ら連続性の確信からである。それもまた、科学者の直観ではないのか、数学的直観があるではないかと、最後まで疑問が残る。
実は、達磨の壁観(へきかん)は直観の対象でないのか。そうでないとすると、どう違うのかを考える中で、パースのことが思い起こされた経緯がある。達磨の禅に、近代のプロテスタント宗教改革を偲ばせるものがあるのは何故だろうか、現在考え中である。ジョン・パースは、ニューイングランドに移民した清教徒(ピューリタン)革命世代の人である。ジョンの孫にあたるチャールズ自身の確信には、理神論(デイズム)的認識の合理的枠組みがあり、それが下敷きとなって彼独自のカテゴリー論を形成しているのではないか。『資本主義の精神とプロテスタントの倫理』(マックス・ヴェーバー)の担い手を巡り、再考の余地がある。
手許には考えるヒントが多くあり過ぎて、落ち落ちと居眠りなどしてはおれない、もったいない。心も体も躍動する毎日で、手掛けている書物(『史的ダルマの研究』)も六百頁に近く、これより七百頁目に入る。今年はマルティン・ルター宗教改革五百年祭というが、本年中に出版に漕ぎ着ければ光栄である。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2017, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo

2017年7月18日火曜日

死は生き方の最後の挑戦、日野原重明氏の逝去を悼む

 七月十八日(火曜)の今朝、日野原重明さんが呼吸不全で百五歳の生涯を閉じられた。日野原さんは聖路加病院の院長を長く勤められた。クリスチャンだということもあり、牧師在任中の以前から注目していた一人、人間ドッグやターミナル・ケア(終末医療)で知られる。命の大事さ、生と死に向き合う仕方を教え、死は生き方の最後の挑戦だと、最後まで溌溂(はつらつ)とお語りになっていた。御著書『百歳からの健康法』を読み、テレビのインタビューでのお話を伺って、ずいぶん勉強させていただいた。例えば、今でも何かを料理したりカップ麺を食したりする際に、必ずオリーブ油を加えるようにしている。自分に対しても誰に対しても、ターミナル・ケアの心で接するようにしている。それもこれも日野原さんに学んだことである。ご冥福を祈り、遺されたご家族に心中より哀悼の意を表したい。


2017年7月7日金曜日

小池都知事の都民ファースト勝利の理由と今後

 先日行われた東京都議選では、小池百合子東京都知事の率いる都民ファーストの会が歴史的勝利を収めた。これは、新保守主義への期待故であろう。共産党の票は伸びたが、新進党の票は伸び悩み、相変わらず革新勢力は落ち目である。他に政権を委ねる選択肢が国民の目には無い、と映っている証拠だ。
 若者たち、自然と社会のコンフリクトにもっと注目せよ。社会集団というのは、いつもそうだが、差し当たりまた大抵は保守的なのだ。技術で自然を制御できると確信する勢力だけがモノを言う世界。革新的精神では到底飯を食っていけないというのが本音だろう。君たちは、国会での崢論(じょうろん)や選挙の結果を見てどう思う?その傍目に人間の愚かさをあざ笑うかのように、台風6号が猛威を振るう、多くの人の命が奪われ家屋が破壊された。この無差別な大自然の動きに賢く対処できるような、強靭で柔軟な社会精神を体現する政治家がいない!将棋や卓球の若い世代に負けていられない、自ら志して、大自然と対話し格闘できる社会人を目指せよ!ルターの宗教改革の五百年目に当たる今日、改革精神の論議はその後でいい。

小達磨、三郷にて

2017年6月20日火曜日

歴史はパートナーを選ぶ、元ドイツ首相コール氏に哀悼の意を

 616日(金曜日)に、かつてのドイツ首相ヘルムート・コール氏が亡くなった。心より哀悼の意を表したい。私がまだドイツに居た1982年に首相に選ばれ、わたしの帰国後に例の東西ドイツの壁が崩壊する事件の立役者を務めた人である。ヘルムート・シュミット氏が相手だったら有り得なかったであろうことが、ヘルムート・コール氏だったからこそ、当時のソビエト連邦大統領ゴルバチョフ氏との精力的な交渉に成功したのだろう。歴史はパートナーを選ぶ、これは本当の話だと実感する次第である。

2017年5月26日金曜日

官僚に負けた政治の未熟な体質(その二)

 今から五年前、201211月のブログに『失敗した政治主導の「駆け込み寺」』と題して論評したのは当時の民主党についてだった。官僚依存からの脱却を謡いながら失敗した民主党政治の付けではないかと疑わられたからである。今回は、官僚の前事務次官に暴かれた自民党政治の問題である。森本学園の認可問題から飛び火して、加計学園の国家戦力特区に獣医学部を増設する案件を巡り、「官邸の最高レベルが言っている」ことだとして圧力があり、理由不十分のままに、最後は「内閣府に押し切られた」事情を明かし、内文書が事実あったことを強く主張している。官邸側はこれを否定し「文書は確認できない」と云うのみ。前事務次官の前川嘉平氏は、「文書は確かにあった。あったものを無かったかのように言うことは出来ない」と猛反発している。いずれ証人喚問があれば、国会で真実が明らかになるだろう。都合の悪い事実はこれを隠蔽して憚らない。無理を承知でそういった文書は無かったものとする・封印するのは、周知の保守政党の常套手段である。言葉を粗末にしているから、そういった直対応で本音を隠し通し、追究されるとひたすら言い繕うのみ。憲法改正についても同じ轍を踏んでいる。平和憲法の不戦の誓いを曖昧にして、自衛隊の定義を盛り込み、戦争行為を肯定し賛美する真意をひた隠しにして、平和憲法の不当な合理的解釈が密かに断行されようとしている。怖いことである。若者たち、目を覚ましていなさい。有事と成れば、さっそく君たちが戦場に送られることになる。そうならぬ前に、良心に基づいて抗議の声を上げる必要がある。大原社会問題研究所は、いつも君たちの味方だから、何でも相談してほしい。

2017年5月5日金曜日

社会学の基礎用語(その一)、事実と現実について

デュルケームの「社会的事実」(fait social)で知られている通り、事実(fait =Faktum)は社会学用語ですね。事実性(Faktizität)は、例えば、某会社倒産という噂は事実か、それとも事実無根なのか。所与としてある言説の真相がどうなのか、端的に本当か嘘かと問い質されています。社会事実の嘘を暴く、隠れた事実は容赦なく暴露される。その反対に、限りなく疑わしいか、誰が見ても明白な事実なのに隠蔽されていることがあります。例えば、19世紀の欧州で増えた自殺統計が社会矛盾を露呈して、庶民に衝撃を与えたことは周知の事実ですね。初期ハイデガーが『オントロギー(事実性の解釈学)』講義でみせた事実性の解釈が、覆われの無さだとする真理の理解に通じるのはその為です。
これに対して、現実や現実性(Wieklichkeit)と云うのは、自然科学や精神科学が問うことで、夢や理想なのか現実のことなのか、ヴェーバーは「理想型」(Ideal-typ)を立て「現実型」(Real-typ)に対置しています。ヴェーバーは理想型を追求しますが、経験妥当性を求め取り組む姿勢では現実科学的です。他方、現実性(Reality)は実在性と訳します。アーレントが云う現実性(Aktualität)は、政治的領野での活動的現実性のことです。この三つはしっかりと区別できるようにしておきましょう。詳細は次回に、今日はこれまでとします。質問があったらどうぞ。

2017年4月20日木曜日

ダルマの壁観論、ドイツ語訂正版をアプロードしました

 お待たせいたしました。昨年公開したドイツ語論考『ボディ・ダルマの壁観論‐身体存在の自己経験』をアプロードしました。刊行物での誤字・脱字等を訂正したもので、今日より獨協大学外国語学部ドイツ語学科オリジナル・サイトより、ダウンロードが可能です。お読みいただければわかるように、ダルマの壁観は、柳田先生がおっしゃるように、空の実践です。ただ、身体存在の自己経験を批判的に捉えても、これを否定するものではありません。身体性を否定すると、グノーシス主義に陥ります。そうならぬよう、無我の実践をケノーシスとの関連で説き起こしています。無我説の身体現象学的考察です。近日中に出版する書物(その邦訳を含む公開済みの論文集)で詳細はご理解いただけるはずです。ご批評いただければ光栄です。

2017年4月4日火曜日

『史的ダルマの研究』出版のお知らせと予約、サポートのお願い

長年手掛けてきた『続・史的ダルマの研究‐安心壁観への道』(論文集)がついに完成、500頁ほどになります。出版形態については今考慮中です。今より、オンラインで予約を受け付けます。関心がおありの方は、わたし宛にメールしてください。出版前の予約には割引の特権があります。なお出版費用(最低200万円)の捻出について、読者の中でサポートしてくださるご意志のある方を探しています。宗門は問いません。どうぞよろしくお願い申し上げます。4月7日(金)更新
→ shigfried@tbm.t-com.ne.jp

2017年3月23日木曜日

テクスト研究から事実性の解釈学へ、現存在の峠道をたどる

 テクスト研究なのに、およそテクスト研究らしくない、現存在の解釈学への道のりを、新年度に向けて、若きハイデガーに探っています。「ナトルプ報告」で周知のアリストテレス的現象学の解釈に、食も忘れ寝るを惜しんで、思索に執筆に没頭しています。冒頭の「オントロギー」(存在論)は解体の対象で、本来の主題は「事実性の解釈学」ですね。「解釈学」(ヘルメノイティーク)は、かつてのわたしの作業場、懐かしい工具が散在している旧い工房です。「理解社会学の工房」という名称も、そろそろ改めないといけないかもしれない。いくら年をとっても、傍目に無一物でも、ほらこんなに溌溂としておれるのは、背中を押すように働いて止まないモノが現に其処に有るから。


2017年3月7日火曜日

〈実学〉でも〈無学〉でもない、〈一般社会学言論〉特殊講義

〈実学〉とは、実生活に役立たせることを目的とした学問のことで、文部科学省のお勧めにある。例えば、工学・医学・薬学・農学・法学・経済学・教育学などの諸部門。日本の大学では、哲学や歴史学・文学・宗教学など、人文系の学問分野は(実生活に役立たないという理由で)〈無学〉に等しく、それ以外は、概ね〈実学〉である。
 大事なことは、君たちが何を以て生きるのか。職業や人生行路の選択に欠かせないこと。ぶれない人生を送るには、軸の安定性が求められる。他方、心の病にかかり寝込まない為には、日頃からしなやかな体つくりが必要となる。心身の造りを学ぶことが、昔は〈教養学〉と呼ばれていた。今日では、大学改革の名目で教養部解体が進み、心身の造り方を学ぶ機会が何処にも見当たらない。〈無学〉とは、勉強しなくて済ませることでなく、〈無への学び〉である。無への学びは安心を会得する術、無心とも云う。
 社会学がリストに入っていないのは、わけがある。それは、専門分野の分化が進行した結果、諸学は専門馬鹿を再生産するばかりで、利回りに偏った人間のみを輩出して、実際の社会形成に何の役にも立っていない。社会学は諸部門を横断し、語り振る舞いの因果関係を論究するから、とりわけ重要である。社会学は、〈実学〉にも〈無学〉にも属さない。ド・ソシュールの『一般言語学講義』とヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』に基づいて私が提唱し展開する〈一般社会学言論〉講義は、〈実学〉と〈無学〉の大事なポイントを橋渡し転轍する役目を担っている。
 早速、2017年度の獨協大学ドイツ語学科での「テクスト研究」にこれが反映される。春学期は「若きハイデガーの『存在論‐事実性の解釈学』(1923)を、秋学期は「プラトンの洞窟の譬喩解釈」(1931 /32)を取り上げる。これは到底〈実学〉とは言えない、当然〈無学〉に迫るが、それに留まらない。存在論解体のその後をにらんで、〈一般社会学言論〉の立場から、東西世界に跨る現象学運動の因果(語り振る舞いの影響史的関係)を究めることになる。関心のある諸君の受講を期待している。
3月27日(月)更新

2017年2月14日火曜日

権威への畏怖と混乱の果てに

やはり、権威の座に就く人次第ですね、国際社会全体がこんなに右往左往する、せめても瓢箪から駒を期待する人までいる。当世の世界政情は、トランプのアメリカン・ファーストで混乱する一方で、欧州ではメルケルのジャーマン・ドリームが沈静化する。難民たちが労働市場に定着するといいですね。
今回のブログは、スタニスラフ・アンドレスキー『魔術としての社会科学』(1972年)に注目します。
「権威が畏怖の念を引き起こす限りは、論理の混乱と不合理は社会の保守的傾向を助長する。第一に、明晰かつ論理的な思考は知識の蓄積を齎し(自然科学はその好例だ)、知識の躍進がいずれ伝統的秩序を掘り崩すものだ。ところが他方では、混乱した思考は特に我々をどこかに導くわけでもない。その分気楽に留まることが出来るが、それは世界に何の衝撃も与えない。」(熊谷訳を修正、私訳した)。何の感動も衝撃も与えないとはどういうことか、よく考えてみてください。

2017年2月1日水曜日

「塗りつぶし現象」の果てに見えてくるのは

故事に、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」(He who hates Peter harms his dog.)とある。ドイツ語では、Jemanden wie die Pest hassenくらいしか思い浮かばないが、英語の文例には事欠かない。最近のハイデガー情報は、黒一色にベタ塗りの傾向にある。ウィキペディア・サイトがその典型だが、何が何でも黒づくめにしないと我慢ならない人たちによる、塗りつぶし現象と云える。Blacking outで、背景を黒で塗りつぶす。Blotting outとすると、全体を黒塗れにすること。Blot outは、インクなどの染みを付ける、名声や風景に恥となる汚点を付けることである。尊厳性を貶めても、まだ修正可能な状態にある。これがDaubing with blackとなると、膠(にかわ)で塗り付けて、黒い染みが剥(は)がれないようにする。剥いでも痕跡が残る。
ナチス政権時代の悪夢を払拭する為に、事実関係をよく確かめもしないで、疑われる関係者の名前を冠した通り名や住所名を書き換えるか削除する動きが、ドイツの各地で最近目立つ。バーデン州のフライブルクにある「ハイデガー通り」の改名もその一例である。これも塗り潰し現象の波及効果と云える。因みに、人目に晒すと都合の悪い書類の一部が塗りつぶされた文書をmasked Documentsという。ドイツ語ではmaskierte Dokumente, 謂わばdas Man”(世人、アノニマス)好みの文書保管形式である。
 一言だけコメントしておくと、「存在の真性」を問うたハイデガーの思惑とは裏腹に、青年時代を戦時体制下で生きた環境との係わりだけで、真理への問い自体を不問とし、記憶から葬り去る行為に等しい。冷静なハイデガー評価は、同時代の哲学者オイケンやその直弟子シェーラーと比べることで、しかも絶対比較級でのみ言い表し得ることだろう。「情に棹させが流される。知に働けば角が立つ。」(夏目漱石『草枕』の冒頭にある言葉、1906年、青空文庫)。しかし、ネットに流されている情報だから確かだと勘違いしてはいけない。原書を手に取り、読んで自らの目で確かめよ。他人の文言を借用して、あたかも自分の意見であるかのように主張してはいけない。根も葉もない情報を鵜吞みにしたり、有らぬ風評に流されたりしてはいけない。ネット上のご意見番を信用するな。その為に何が必要か、与えられた自分の悟性を使い、自らよく考え、噂の因果関係を確かめ、発話の真偽を判断せよ!いわゆる『黒ノート』(Martin Heidegggers Schwarze Hefte, Suhrkamp, stw2178, Berlin 2016)に目を通した限りでの取り合えずの読書感想文として。
201721日(水)、Shigfried Mayer(宮村重徳)、三郷にて


2017年1月22日日曜日

野性的手腕に期待もパンドラの箱か、偽情報を見極めよ

私が新聞やテレビのニュースで最初に眼を通すのは、いつも外国欄からです。四十五代目のアメリカ合衆国大統領にトランプ氏が選出され就任式が終わったばかりですが、反対派のデモも数多く報告されており、今後はしばらく抜き差しならない状況が続くことでしょう。SNSで流される情報が嘘か本当か、見極めるのは私たち自身です。ニュースの出所を疑うことが肝心です。大量の偽情報をツイッターに流すことをプロとしているお抱えの人たちがいるからです。ビッグデータについても同じことが言えます。携帯に流される偽情報に惑わされず、また振り回されないように注意したい。選挙結果を見れば一見してとんでもないことですが、初の女性大統領誕生よりも、野性的手腕への密かな期待を持つ人たちがいることも否めません。選挙も一種の賭け事です。歴史が動いた、どちらの方へ?差別主義的発言など、表向きの言動に囚われず、何が政策的に立案され実現されるか、米国内は勿論のこと、特に外交面での戦略の妥当性が問われます。云う処のディール(政治的駆け引き)で世界平和が維持できるとはとても思えませんが、公共の正義と公平がどうなるのか、今は事態の成り行きを慎重に見き分けたい。

2017年1月9日月曜日

百二十三万人の君たちに、成人おめでとう

 ゆとりとさとりのプラチナ世代、お付き合いは下手だけど、「プア充」(清貧で充実)でそれなりに輝いてるね。社会に溶け込むには苦労するけど、課せられる役割をしっかり演じれば、縁は向うから君たちを求めてくるよ。ちょうど、打者が球を呼び込む苦気持ち(無心)で臨めばそうなるように、球筋が見えてくればしめたもの。直球にもどんな変化球にも対応できるようになる。欧米並みに成人年齢が18歳に引き下げられると、力強い仲間が増える。

2017年1月1日日曜日

年頭所感:心の偏りを退け無心で臨めば夢かなう

全世界の読者の皆様に、新年のご挨拶を申し上げます。昨年と同様に、今年も理解社会学の工房をご愛読賜りますようよろしくお願い申し上げます。

工房七周年目に当たり、個人的には、人生節目の折り返し点に当たる峠に立ち、「史的ダルマ研究」の集大成に向けて、試論を卒業し本喝(「論文集」刊行)を宣言します。その確かな一歩を踏み出す為に、今年は対話のルール、心の偏りを退け無心で臨めば夢かなうをモットーにして、精進していきたい。出版費用調達へのご協力をお願いしたい。
欧米の読者に申し上げたい。予測不可能な未曽有の政治事件も界面上のこと、荒む波間に浮沈するも、芦葉達磨(あしばだるま)のように大河を渡航して安心無事、巷の風聞(ジャルゴン)に翻弄されず、己の不始末を記憶装置から抹殺しようと形振り構わぬ大衆にも幻惑されず、無限遠の彼方にある壁に無の絶対音感を聴き届ける一年、アーレントでもはっきりとしていなかった《壁観的生》即《活動的生》の元年としたい。
ダルマ現象を世界の文化遺産として捉え直すと、敦煌に眠る膨大な多言語伝承が鮮やかに生き返ってきます。さしあたり今年は神秀(じんしゅう)の読み直しから始め、日本達磨宗の初心に迫ることにします。東西宗教の出会いを綴る言語事件の歴史から、二十一世紀の展望が開けてくると確信する次第です。2016年1月9日(月)更新