Deutsche Lektüre (独逸語研究)No.2

当ブログでは、講義では行き届かないドイツ語文献の理解と解釈の技術的な補足、助言とサポートをします。 頻繁に書き換えますので、随時立ち寄り注意深く読んで参考にして下さい。

第二回.Mündigkeitの語源ルートについて。
前々回の講義の後、聴講生の一人(F君)から質問を受けました。「未成年の」に当たるドイツ語のmündigは、der Mund(「口」)にではなくdie Mund(「手」)に遡るので、言論に関連づけるのは間違いではないかと。応答があると、嬉しいですね。重要な問いなので、一筆します。
古高ドイツ語のルートでは、確かにそう です。ご承知のように、ドイツ語はラテン語からのルター訳ドイツ語聖書に起因します。詳細はカットせざるを得ませんが、男性名詞のder Mund(「口」)は、ラテン語のmando I(食物を「嚙む・食べる」、転義的に言葉を「味わう・咀嚼する」)に由来するのに対して、形容詞のmündigは女性名詞のdie Mund(「手」、ゲルマン法のmunt)の元となるラテン語のmanus(世襲で権力を掌握する「手」)に遡るので、直接の因果関係はないように見えま す。こちらは家督相続に関する発言権を「一手にする」ことで成り立つ、世俗権力の自己保持と世襲制度の用語ですね。別形のmando II(権力を「譲り渡す」、判断や執行を「任せる・委ねる」)と関係があるかも知れません。ドイツ語の形容詞mandan(「世俗の」)は、そこから来て いるのでしょう。
ただ、私の関心は「それ以前」にあり、ゲルマン語の分岐具合や中世ラテン語の言語ルート解明にはありません。それ以前のギリシャ語・サン スクリット語・ヘブライ語の世界を広く参照しつつ、人類史に於ける社会言論の「事件性」解明と、「言葉の連鎖」を成り立たせているモノの働き、言語活動に おける目的因と起成因の「布置連関」(Konstellation)を、理解社会学の解釈課題として究明することですので、(「それ以後」の話は)どちら でもいいのです。私が「未成年状態」を社会言論に関連づけて議論するのはその様な理由からで、ムントの区別(ジェンダー)を無視しているからではありません。
一方で「口」は日常的な食生活の用語、他方の「手」は家督相続の懸案事項として、食の「安全」と身の「保護」に関わる法律用語で違いがあるように見えますが、口も手も同じ身体器官、「からだ」のルート(コルプスは複合的なゲマインシャフト行為世界)で繋がっています。実際にお調べなるとお分かりのように、線引きは任意的です。ゲルマン語の系譜にさえ、両者が時に混同された例(揺らぎ)が多々見受けられます。クルーゲをご参照ください。
2011年11月9日(水)、Shigfried Mayer


第一回: ドイツ語で自分の悟性(理解力)をスキルアップするには
方法序説1: 語るモノを聴いて理解する
働く人の世界では、見て読み書きする力より、聴いて理解する力が評価のポイントとなります。聞き分ける力の有無で、瞬時に的確な判断を下したり諒解関係を予想しこれに応えたりする能力、他者と意思疎通を図る際に必要な、コミュニケーション行為の真価が試されます。就活を控えるドイツ語学科の学生諸君は、テレビを見るよりラジオ放送や放送劇(Hörspiel)を積極的に活用し、聴いて理解する力を養うよう努めてください。試しにここでは、ドイチェ・ヴェレ(Deutsche Welle on demand)を使ってみましょう。朝な夕なに、「聴覚イメージとコンセプト」(ソシュール)を繋ぐモノの働きが察知できるよう、傾聴し音読する習慣を日課とすること。

DWサイトはこちら →  http://www.dw-world.de/dw/0,,265,00.html?id=265
ラジオ放送はこちら → http://www.dw-world.de/dw/0,,4678,00.html

方法序説2: 聴いて理解したことは、自分の言葉にして書き留める
一度理解したことを自分の言葉で定義することで、修正可能なポインタを確認し、生産的な解釈学的経験の変域を広げることが出来ます。

方法序説3: 喩えや物語のスタイルでコンテンツを理解する
多少難しい議論でも、質的・量的調査に基づく事例やアンケート提示があれば、一躍説得性が増します。ストーリー性のある比喩(直喩・隠喩)、対話(インタビュー)や物語形式の導入で、 相互理解を助け深めることが出来ます。比喩形式は、記憶を確かにし想像力を高める秘訣です。語るモノを直観的に理解するには、放送劇(Hörspiel)が効果的です。次のサイトでは、「蜜蜂マーヤの冒険」を試聴することができます。子供向けとしても、レベルは侮れません。

→  http://www.audible.de/adde/store/product.jsp?BV_UseBVCookie=Yes&productID=BK_UNIV_000641DE

方法序説4: 自分で考えること無しには、何も理解されたことにならない
考えることで、私で有る(人格的存在意味)を疑わせ、非人称化するモノの働きに直面することになります。疑うことを止めれば、そこは神話か信仰の世界ですね。しかし、私たちはすべてを疑うことなど出来ない、すべてを信じることも出来ないから、平均的規格のヒトで有るに満足したい。それが独り立ちできないことへの安易な逃げ口上に過ぎないとしても、他にどうしたらよいのか、そこが考えどころ。ここ数年に渡り、法政大学社会学部と獨協大学外国語学部ドイツ語学科で、同じ主題の「蜜蜂マーヤの理解社会学」を取り上げ論じてきたのも、実はそれを考えてのことです。関心のある方は、My Productsに収録された諸論攷をご一読下さい。中でも、第四論文の『ヴェーバーに於ける「諒解行為」概念の留保或いは喪失事件』で、その関連を論じています。


Shigfried Mayer (宮村重徳)

予告: 来年度(2011年度)は「思想」でなく、「文化と芸術」を担当します。晩年のヴェーバーに影響を与えた、リップスの『美学の基礎付け』(1903年)を取り上げる予定ですが、他に希望が出ているハイデガーの『芸術作品の根源』(1933年)も捨てがたい。第三の選択肢として、言語文化の演習を兼ねて、フェrナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』(1916、1922年)のドイツ語版、ヘルマン・ロンメル訳(1931年)を読み合わせててもいいかなと考えています。言語感性の美学に、「語り終えることのないモノ」だけが与えることの出来る、彫りと深みを追体験的に取得するでしょう。リップスか或いはハイデガーを春に、ソシュールの独逸語版を秋に講読してもいい。いずれにするかは、近日中に決めます。
2011年1月9日(日)