2014年2月26日水曜日

異常気象もよく見れば、寒気と暖気の背比べ、乾気と湿気の鬩ぎ合い

幾度も記録的大雪に見舞われて、今度は作付けする山地の農家に、都民には交通機関に甚大な被害をもたらしました。なぜかくも自然は無差別に人間世界を苦しめるのでしょうね。目の前で、大雪の後凍りついた道路に倒れて血を流している高齢者を目の当たりにして思うこと。歩くにも、防具のヘルメットは欠かせない。それにしても、寒暖は大入道の背比べ、乾湿は小入道の鬩(せめ)ぎ合い。乱世・乱高下のクラウドは、どうやら働く人には無関心らしい。玉突き現象も乱心でない、どこまでも「普通です」ですまし顔。異常気象を起こすそれが必然なのか偶然なのか人知れず、不安ならいざ知らず。少なくとも、マクロのエスが起性因なら誰も恨み言を言えるケースではない。クラウドの神を想定し、意思決定する人格存在のクリエーターと考えなければね。こうなると、ハイデガー(の存在)でも手に負えない。後のことは、スピノザ(の神即自然)かライプニッツ(の予定調和)に尋ねるほかない。(2月28日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), coyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年2月12日水曜日

ゆとり世代は「普通です」、でもネットで保守的・好戦的なのは?

  別にはやり言葉ではないのだろうけれど、自分は「普通です」と答える若者が増えている。ゆとり世代の口癖である。平均的自画像に自分を合わせようとしているだけなのかもしれない。しかし、いざネットで発信するとなると、これが意外に保守的で好戦的な性格をむき出しにする。「普通です」に、「破れ」を促す革新性は嫌われる。それは、枠組みから外されることへの不安から来ていよう。言い換えると、既定の枠組みを突破する自信がないのである。余暇を楽しむゲーム感覚に従うと、刺激的で好戦的なプレー意識が身についているので、都知事選挙でいえば、60万票の結果で示されている通り、田母神氏の宣伝工作に易々と乗せられてしまう。ツイッターで呟くことで、普段の不満が解消されているので、爆発的抗議行動や社会挑発的・革新的な行為に乗せられない、手を出すには及ばない。「普通でない」戦争行為の悲惨を知らない世代の若者たちが都知事選に積極的に参加していれば、結果は今よりもっと衝撃的な保守傾向を露わにしていたに違いない。もちろん、ゆとり世代にも多様性があることは周知の上、一枚岩でないことを念頭に置いての上である。「普通です」の言明から、未来社会の地殻変動を惹き起こす(「普通でない」社会を望まない、タブーの沈黙を破る)人物の台頭を期待したい。
 期待が大きいだけに、懸念もある。自然の働きに法則があるように、社会人の働きにもゲーム規則があることを教えるだけで済むのかどうか。何と戦うのか自分の争点が不明で目標が曖昧、推論に正確さが乏しく、理解に飛躍が多すぎる点が気になる。大学教師の一員として危機感を覚えるのは、わたしだけではあるまい。意思決定は彼ら自身がすることなので、私たちのベストチョイスを強いるわけにはいかない。ベターチョイスの選択肢を増やすことで、忍耐強く対話を挑むほかないように思われる。(2月17日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年2月5日水曜日

他人事でない鬼退治、自分の鬼子にどう向き合うか、難問だよ

 2月は節分の季節ですね。節分と言えば、「鬼は外、福は内」で、豆撒きをして楽しくお祝いしています。東洋の説話文学では、古来鬼は渡来者のルートに係わりがあるようです。例えば、タミール語で(怨念から来た?祟る)モノ、たいていは女性の恨み・辛みに起因すると言われています。或いは逆に、男性の恨みにも係わることで、渡来系(蝦夷系、アイヌ系)のヒトを「天狗」と呼び、邪魔者・異物者して扱う。これが鬼子となると、そう簡単には追い出せない。
 精神分析学でいえば、赤鬼は内心の不満が高まり怨念となり、燃え盛る火のように怒るモノの働き。青鬼は内心の不安を煽り、猜疑心を焚き付ける、冷酷無情を駆り立てるモノと言えるでしょう。いずれの刺激も同一根の衝動(Betrieb)である。
 蝦夷征伐を大義名分とした征夷大将軍の仕来りは、政治的な意図を持った、民意を逸らす目的で設けられたことでしょう。自分自身の赤鬼・青鬼はそっちのけにしてね、無知な大衆には豆(金)をばら撒くわけです。いずれにしても、鬼は怨霊と係わりがあります。
 他方欧米では、悪魔とか悪霊とか言いますね。サタン(ヘブライ語)やベルゼブル(ギリシャ語)と言った、人を誘(いざな)うモノの働きで、誘惑者は人格的存在です。たいていは、命じるモノと委託を受けて働くモノが結託している。イエスが荒れ野で、サタン(悪魔、悪霊の頭)から試練を受ける話しが有名ですね。わざわざ、「天使がそばで仕えていた」と添えられている。「サムエル記」では、サウル王を襲った憂鬱の悪霊も癒しの善き霊も、(絶対有の)神から来ていると指摘していた。そういえば、ゴウタマ・シッダルータにも「悪魔との対話」というのがある。こちらは教えを妨げる教師・悪しき知恵者だが、絶対無の立場から向き合う形となっている。
 鬼の話しがエージェントに及ぶと、国政や都政と無関係ではない、よく考えて見ると深い関係がある。してみると、東西文化の文化風土の違いを超えて、自分たちの赤鬼・青鬼、鬼子とどう向き合うのか、それが鬼門としても避けて通れない、共有すべき社会問題となるのではないでしょうか。節分の季節も都知事選挙へ向けて、この問いを読者の諸君への誘(いざな)い事としたい。
 付記: 都知事候補者の一人桝添えさんは、過去に自民党を飛び出した(脱藩した)だけでなく、女性や高齢者をばかにした侮蔑発言をするなど、かねてから毒舌者の経歴がある。その点で、自民党にとって彼は鬼子、彼を擁立することは鬼門でないかと思えたので、このブログを書いてみました。烏合離散の派閥的な勢力争いをする政党政治には付き物ですが。一度スピノザの『国家論』をお読みなったらいい。すっきりしますよ(笑)。
(2月8日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology