Primary Resources (原資料)

Primäre Textquelle für Webers Lektüre von der"Verstehenden Soziologie" bzw. den "Soziologischen Kategorien"
ヴェーバー解釈の応用としての『一般社会学言論』とは別に、ここでは「理解社会学」のリーディング・リソースについて、簡単にご説明いたします。(一部刊行年の記述にタイプミスがあり、元の原稿に照らし合わせ訂正いたしました。深くお詫び申し上げます。編集部一同、2011.03.05)

1.マックス・ヴェーバー『理解社会学のカテゴリー』(1913年)。岩波書店より林道義訳(1968年)、未来社より海老原明夫・中野敏男訳(2003年)が出版されていますが、後者が正確で分かりやすい。難解でもオリジナルが一番、ヴェーバーをして語らせている「それ」を、ご自分で確かめつつお読みになることです。原書("Über einige Kategorien der Vertehenden Soziologie", 1913)は、Gesammelte aufsätze zur Wissenschaftslehre (1968), S.427-474 に収録されています。学習用に、次のサイトでダウンロードできます。近日中に、手引きとなる注釈付きの対訳本を出しますので、それまでしばらくお待ち下さい。
→ http://www.sociosite.net/topics/texts/weber_1913.pdf

2.マックス・ヴェーバー『経済と社会』("Wirtschaft und Gesellschaft", 1921 ff,, 1925 ff.)は未完の遺稿,。その第一部「社会学のカテゴリー群」(Soziologische Kategorien)が「理解社会学のカテゴリー」論文を基盤とした論述全体の前提要件、つまり第二部以降に対して「トルソーの頭」(カプト)で有るかどうかを巡り、周知のようにヴォルフガンク・シュルフターと折原浩の間で論争された経緯があることで分かるように、深い因縁の関係にあります。英訳はありますが、まとまった全文の邦訳はありません。岩波書店より清水幾太郎訳の『社会学の根本概念』が出ていますが、あまりお薦めできません。講談社から、『経済と社会』の内、差し当たり清水訳のカプト乃至マスクをつけたトルソー部分(旧稿)がほぼ翻訳され、『世界の名著』シリーズに加えられています。富永健一訳の『経済行為の社会学的基礎範疇』は、比較的よく仕上がっていますが、厚東洋輔訳の『経済と社会集団』・『共同体の経済的関係についての一般的考察』・『ゲマインシャフト結合とゲゼルシャフト結合』の訳語は旧来のものになっており、訳語の拙さと不統一が目立ちます。原文は、以下のサイトでMax Weberをサーチしダウンロードできます。あくまで、個人の学習用です。
 → http://www.textlog.de/

大切なことは、オリジナル(一次資料文献、原資料)のみ読んで、翻訳書など読まない・読ませない(借り物で勝負しない、自分の悟性を使え!)。レファレンス・ブックス(二次資料文献)の解説書・参考書を先読みすることなどもっての他だと、ドイツ留学中に指導教授に厳しく言いつけられたほどです。まして、学生たちが筆記した「聴講ノート」など、当てにしてはいけません。ソシュールでは焦眉の問題となっていることが、ヴェーバーでは論議の対象ともならない、いわゆる「遺稿」に付きものの聴講ノートの扱いについては、文芸評論家たちの格好の餌食ともなりやすく、格別の注意が必要です。著者を著者以上に理解する「心理的解釈」技法(シュライエルマッハー)は必要だとしても、構想力を逞しくして憚らず、著者以上に雄弁に語り過ぎる危険性があるからです。ソシュールの講義を巡る「聴講ノート」の扱いについては、互盛央氏の学位論文を読み通した段階で改めてご報告します。それでも原資料以外に、参照可能な何か手掛かり・足掛かりになるものがないと困る、という日本の読者・初心者のために、ヴェーバー関連ではユルゲン・ヘレとルドルフ・リヒターの『理解社会学』教本(教科書)について、拙著『理解社会学のコンプレメンタリズム』で比較し紹介しておきましたので、そちらをご参照下さい。
原資料だけでは到底理解できない、参考書がどうしても欲しいということであれば、 アルフレッド・シュッツ(『社会的世界の意味構成』、1932年)とアンソニー・ギデンス(『社会学の新しい方法基準-理解社会学の共感的批判』、1987年)がいいと思います。ドイツ語版ですが、クラウス・リヒトブラウのヴェーバー論は偏らず客観的で、安心して読めます。また、彼が編集した『マックス・ヴェーバーの基礎概念』(2006年)に、一度は目を通すべきでしょう。研究者の多彩な顔ぶれと多様な解釈項に、学ばされるところ大です。個々の概要は、別途にこのブログサイトでご紹介することにします。

歴史的個人の解釈範囲では、「書簡」や「伝記」が重要です。中でも「自伝・自叙伝」、つまり自分史(Auto-biography)が最良のプライマリー・リソースになります。 これから働こうととする君たちが、職場で他の人たちと向き合う「顔」がペルソーナです。顔は自分の「外観」だとしても、他者と対面するに欠かせない、唯一読み取り可能なオープンりソースだからです。これが「内観」として捉え直されるようになったのは、ごく最近のことです。ペルソーナは、Fire Fox でお馴染みの、着せ替え可能な代物でないことは言うまでもありません。私たちがする行為は、常に他の人へ意識的に、或いは無意識に関係づけられて為されることで、特定の有意味な世界を任意(恣意的)に、または諒解的に構成しています。それは誰かへの顔向けのメッセージであったり、第三者への真剣な迫り・願い、無言の抵抗・要請であったりします。四面に広がる社会のどの座標系でどのように、わたし個人に於いて働くモノが描かれるか、白紙に筆と墨汁で書き殴ってみたらいい。或いは思い当たるものを記号化して、関数グラフに描画してみるといい。直線か曲線、閉ざされた円還か螺旋状、比例か反比例で描かれる、見えざる点と線が浮かび上がってくるはずです。差し当たりは相手の名を特定せずに文字式(y = ax + b)にして、ご自分の行動範囲をスケッチしてご覧になるといい。肩に力を入れ踏ん張らずとも、自分を悩ますエスの暴走がコントロールできるようになるでしょう。

Shigfried Mayer (宮村重徳)