2012年6月15日金曜日

必要とされる誇り、必要とされない悲しみを越えて

Über die trübselige Lage der notwendigen hinaus!
[6月16日(土)更新]
 目下の仕事がない(希望する職場が見つからない)ことが、直ちに生きる意味がないことになるのでしょうか?就職先が決まると自分が社会に「必要とされている」と感じる、就職活動(Stellenjagt)がうまくいかない、一度や二度の就活失敗で、自分は「必要とされてない」んだと感じ(思い込み)、「必要とされる誇りを失う」。その場合の誇りって、なんでしょうね。面目が立たない?恥ずかしい?だから、死んだほうがましだ・楽だとつい思ってしまうのはシンプリズム(短絡)だとしても、それは(基本的人権の要件である)働く「人の尊厳」(Menschenwürde)にかかわること、他人事のように軽々しくは扱えません(カントの『道徳形而上学原論』は必読)。
 そこで、「必要とされる」とは何か、考えてみましょう。必要性は経営上の必然性(Notwendigkeit)の話ですから、さしあたり即戦力としての能力が問われます。個々人の可能性(Möglichkeit)については参照される程度で、話題にはなっても決め手とはなりません。あくまで道具として会社に必要とされるのであって、君自身の人格性が目的として取り扱われることは、残念ながらほとんどありませんね。
 さしあたりの、実践的なアドバイスを三つ。第一に、リーマンショック以来の金融不安に揺れる複雑性(complexity)の世界事情を見極めること。求人にも社会的ニーズというものがあって、それに君自身が応えられる要件を満たしているかいないか、しっかりと自己吟味すること。第二に、検索の条件を変えてみること。例えば、皆が殺到する第三次産業(サービス業)に拘っていないかどうか、希望職種や都市部への拘りを捨てて全国津々浦々を見渡せば、意外と見つかる可能性はあります。その為には、探し当てるまであきらめないことと待つこと(希望の哲学)を同時に学ぶ必要もあるでしょう。第三に、どうしても見つからなければ、大学に残って勉学を続けてもいい(四年で卒業する必要はありません)。或いはいっそのこと、志をひとつにできる友を探し出して、思い切って「起業する」こと(entreprendre, unternehmen)をお勧めします。必要性云々より、自分の可能性を信じて起業することには、その点で重要な意味があります。
 人生はチャレンジ(Herausforderung)です。多くの先人たち(君たちの親の世代)は、戦後の廃墟の中から仕事を立ち上げ、無から始めることができたのです。君たちにできないわけがない、そうでしょう?少し楽な生き方に慣れ親しみすぎて、多少の苦労は避けがたいでしょうが、また石ころや茨や雑草に覆われてすぐには見えないとしても、君が目指す峠への「道」は確かに有るのです。命を粗末に扱うことだけは止めましょう。明日の世界が君(の可能性)を期待し必要としている、君はなくてならない人だから・・・ 

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku