2011年2月21日月曜日

社会的自己の造形、「からだ」(身と体)のイメージ

Warum das Leib-sein etwas anders in Frage kommt als den Körper-haben 
一時「身体現象学」(メルロポンティ)という言葉が一世を風靡したことがある。その「身体」と「心身」はどう違うのか。己の「身」や「体」との関係が曖昧の侭に身振り言語が使用される結果、批判が苛め(人格誹謗や罵倒)に変質した、一触即発の危険球(死球)の応酬に走り、国会を初め地方議会に未曾有の混乱を招いている。「理解社会学」を必要とするのは、差し当たりまた大抵は、政治と宗教の世界である。社会学のカテゴリー論に基づいて「社会学言論」を展開する必要性から、日常的な日本語世界での概念使用の実際を吟味し、意味論上の再仕分けをしておく必要がある。
身と体は、心身と身体に置き換えられようか。確かに、どちらも「からだ」である。しかしご存じだろうか、身+体=身体ではない!理由を。漢字の造りからすると、単独で使用される「身」(本体・本人・自分、代名詞で:わたくし)とは異なり、「体」には異字体の「躰」と「體」(いずれも音はタイ)がある。偏の違いにも拘わらず、躰と體は十二部位を総合した具体的な「からだ・かたち・すがた」(+現象を支える本質、動詞で:体験する)で、およその違いは見当が付く(佐藤・濱口編、全訳『漢辞海』、三省堂)。国語関連を詳しく調べてみると、これが意外なことに、「からだ」(体)の原意は、実は首(頭部)のないトルソーのイメージである。世界の東西を問わず、罪人(ざいにん)が晒し首にされた際の、捨てられた胴体部分を指して言われる。「からだ」という読みは、金田一京助編集の『新明解国語辞典』(三省堂)に拠ると、「からだ」は肉体の和語的表現で、「から」の音は亡骸(なきがら)の「から」と同義、これに接語の「だ」を添えたものと考えられている。その「体」に対して「身体」はきわめて新しい用字で、ほとんど「体格」と同義。心身の「心」は身を、身体の「身」は体を修飾する雅語形に過ぎない。「体」は、首また頭と一緒に使用されて「一体」となる。つまり、首また頭が「体」に加えられて初めて、人として「生きた存在」と見なされるように、それなしには「体」は亡骸(なきがら)と同義の「からだ」(死に体)である。その「体」に対して、「身」は「心を包むモノ」として捉えられており、その限りで働くヒトの生きる体である。西洋のように「心(魂)と体」(Seele und Leib)の二元論ではないとしても、古高ドイツ語で知られているように、「身」(Leib)は「生」(Leben)と同じルートにあり、東洋に於ける「心」(心身、化身・法身)を共鳴体とする類似例、参照可能な平行事例として注目されよう。
「身」は話し手である本人が自分を指して言うこと、それも具体的形状もって体をなす(体言する)。金田一編の『新明解』では、身は「人としての権利を持ち、社会の一員としての役割・責任・義務を負う、主体としての自分という存在」(下線点は私)だと定義されている。身と体は社会的自己の身分と形状を表すもので、概念使用上その違いがはっきりとしている。「体」が肉体の和語的表現であるのに対して、「身」は身分を弁えて自分の名乗る言い方である。例えば、「身の程を知らない」とは、他ならぬ自分自身のことを知らない・自分を弁えないこと。「身を入れる」とは、自分の全力を尽くすこと。「身を滅ぼす」とは、自分の人生を台無しにすること等々、事例を挙げればきりがない。「身」は第一人称(話し手)である「わたくし自身」のこと(『三国志』参照)だが、「御身」(おみ・おんみ)では第二人称(対称)の「あなた」となる(石川啄木、「節子、予は御身が恋しい」)。いずれにしても、わたくしのことを「自分は」という習慣が中国にあったとは、実に驚きである。
さて、「身」を使った事例をドイツ語に翻訳するとすぐに分かることだが、そういった慣用的表現のいずれに於いても、「身体」(Körper)という概念が使用されることはない。ところが、例えば先程の「身の程を知らない」をドイツ語で言うと、Du kennst dich selbst nicht. (d.h. Du bist überheblich、身の程を知らぬやつだ、つまり「お前は思い上がっている」)となる。他の例文を列挙して比較参照すると一目瞭然、「体」はKörper, 「身」はLeib に相当していることが分かる。シンタックス上、正しくは述語部を明記して Körper haben(体を持つ) と Leib sein(体で有る) の違いとなる。「身体現象学」者が前者に注目する余り、後者を蔑ろにするか、存在と所有を区別しない(人格に注目する余り、遂行と存在を混同するほど、働くモノ自体の実質価値に拘る)。つまり、我が師・恩師のフッサールや大先輩のシェーラーに対して、若輩のハイデガーが詰め寄った《オントロギー》明け初めの地平が、此処・其処・彼処に見え隠れするではないか。二人(師弟の)対話を扱ったハンス・ライナー・ゼップの台本『(死の)暗影に包まれた国』のテクスト研究が、いよいよ面白くなってきそうな気配がする。それに加え、古今未曾有の「言葉の連鎖」(共鳴体の言語事件)の予感がしてならない。興味津々として醒めやらず、今からして「眠られぬ夜」の予感である。(続)

Shigfried Mayer,  copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年2月4日金曜日

リスクとブレイク、「終わり」への眼差し

Riskantes Gespräch, Brechen aus dem Ende, oder Blicken ins "Letzte"

これは日本の若者に限らず、欧米の若い世代についても一様に、「リスク感が足りない」とか、「ブレイク感に乏しい」などと呟かれる、最近よく耳にする話ですが、見過ごしに出来ない問題を提起しています。「平和暈けしている」からだという、在り来たりの理由だけでは、問題は何一つ解決しないでしょう。第一、暈けているのはどちらだと聞き返したくなる。「空気が!読めない」という大人に、「空気しか!読めないの?」と言い返したくもなる。もちろん、具体的なデータ解析に基づく反論の証拠を提示できるようにしておかないと、徒にリスクを背負い反感を買うだけで終わる、つまりせっかくの「良縁」もブレイクダウンする他ない。そこで今回は、身近に迫るリスクとブレイクを予感し、なぜか「初め」からでなく、敢えて「終わり」(das Ende, das Letzte)からアプローチする、思索者たちの対話技法、フッサール晩年の「美学」(Ästhetik)への関心と、ハイデガーでブレイクする「終わり」の秘密に迫る、芸術文化の言論課題について、少しばかり考えてみたい。
最近プラハ大学と不思議な縁があり、フッサール研究の第一人者ハンス・ライナー・ゼップ教授の面識に与るシャンスをいただきました。これを機に、彼の作品『影の国』("Schattenreich / Reino de sombras")を今読んでいるところです。シャッテン・ライヒとは、神話学で「死者の国、冥界」のことですから、邦訳題の「影の国」でなく、おそらく「死の暗影に包まれた国」ほどの意味でしょう。「時間」について師弟間で内々に、しかし激しいやり取りに息つく暇もないほどインパクトが強い、「生と死」についてフッサールとハイデガーの間で交わされた、対話形式の「台本」です。これがなぜ台本かというと、現に交わされた対話を記録したプロトコルではないからです。口伝資料に基づく創作とは言え、コンテンツはとても奥が深く、興味の尽きないところです。「超越論的主観性」の立場に固執する生真面目一徹の師が、時間についての討議の中で、自分の弟子から次第に袋小路に追いつめられる様子が、生き生きと描かれています。ハイデガーは、意識に於ける時間の流れを均質的に捉えるフッサールに対して、ゾルゲ’(憂慮)に生きる現存在を例に挙げて、最後に「死は可能性で有る」と説いています。「そんな馬鹿な、冗談だろう」と、師は一蹴しようとします。しかし、弟子は師を批判して一歩も引かず譲らない。日本では、師を批判するやつはもう来なくてもいい(顔も見たくない)。即刻お前は首だとなるでしょう。しかし欧米では反対に、師を批判出来ない人は弟子になれない、弟子志願の資格はないのです。その人が論敵の立場に有ろうと、自分を批判し乗り越えようとする立派な後輩に席を譲る、ずばり「禅譲する」のです。ハイデルベルク大学で、クニースの後任となったヴェーバーにしても、同様でした。大変な文化の違いですね。でも昔から、「公案」で師弟が激しくぶつかりあう禅の伝統にそれがあったことは、意外と知られていないようです。「法は無形」として働くモノは、「体」のみがよくぞ知る、「自己」経験の秘密です。
さて、死は人生最大のリスク、終わりの到来(納期)の予感です。リスクの予感とは己の死、自分を已(すで)にとする時、納期を予感する覚悟性なのですね。それが現存在の可能性だということが理解できるかどうかが、ここで二人を分かつ分水嶺となっています。難しい話はさておいて、終わりこそシャンス(可能性)だということを、どう理解したらよいでしょうか。可能性としての終わりは、学生諸君であれば、就活で行き詰まって「もう終わりだ」と叫ぶ、その終わりから始めることです。すでに就活を終えて会社員やビジネスマンとなった諸君にとっては、「納期」を知ることから万事が始まるのだということを、自覚する必要があるでしょう。ビジネスに失敗して自己破産しても、それが終わりではないのです。ハイデガーが「死」を語るとき、その終わりを自分に語らせる、ゾルゲに悩まされて行き場を無くした現にその時を、現存在の可能性(シャンス)として認めるよう勧めているのです。社会学思想の概念で言えば、これが「目的合理的」な生死の理解です。どこか、ヴェーバーの目的合理性理解に近い、共有可能なものを感じさせます。
リスクに対してブレイクの予感とは、まさしく「死」の終わりから働くモノが有り、自らブレイクしてくる、その様な終発的な「言語事件」(Sprach-ereignis)への予感です。 ブレイクと言っても、brake, bremsen (「ブレーキをかける」)ことではありませんよ。break, brechen (「破る、壊して開ける、突破する」)ことです。「今年は○○がブレイクしそうだ」とか言うでしょう。インフレで閉塞した景況感を突き破る、つまりブレイクするモノの働きを予感する、優れた言語感性が求められます。その様な理由から、今年のテクスト研究の主題は、「リスクとブレイク、《終わり》の美学」という主題にしました。リスク感やブレイク感の乏しい世代だと悪口を叩かれないために、前出したゼップのドイツ語訳テクストとハイデガーの『芸術作品の根源』を原書で読み合わせます。研究の成果については、このブログで折々ご報告する機会があろうかと存じます。それまで楽しみにしてお待ちください。ひとまずここは、節句に拙句の一つを添えて、話を締め括っておきます。

青丹よし、プラハが春の峠かな、ブレイクスルーの壁に魅せられ

Shigfried Myaer,  copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku