2013年7月11日木曜日

窓はあってもトイレがない、経済のジレンマと社会の断末魔

【7月13日更新、参院選へ向けて】
 ニューズウイーク誌のコラムニスト池田信夫氏が、2012年10月19日の「エコノMIX異論正論」で、原発は「トイレのないマンションか」と問うておられる。かつて「夢の燃料」とまで持て囃された原発だが、無限に増え続ける汚染された排泄物、見えざる無臭の危険物を収納する専用トイレがない。もはや「トイレのないマンション」では済まない、誰もリスクを負えない最終レベルの問題を提起している。高レベル放射性廃棄物を「地層処分」する・地中深くに埋めるというのは、「仮設トイレ」の話である。すぐ満杯になることは目に見えている。私見だが、このまま原発を稼働させることは、一時的な経済的利便性と引き換えに、生命の惑星である地球という大地を「地雷原化」するようなものだ。いつどこで暴発するか誰にも予想できず、被害の規模も想定不可能である。まずもって一万年単位のシナリオを想定し管理する能力は、今の人類にはない。トラウマとなるリスクだけがあって、人類滅亡の引き金とならない保証は全くない。窓はあってもトイレがない、経済のジレンマは社会の断末魔である。
 第二次阿部内閣が推進する「三本の矢」を旗印にした経済と金融政策、いわゆるアベノミクスは、デフレ脱却を名目として「政官業一体」で為されている限り成功しているように見える(確かに、「官僚依存からの脱却」を目指していた民主党政権にはできなかったことだ)が、最後は「なし崩し」の原発再稼働容認でいいのか。原発インフラストラクチャーのトップセールスマンを演じる阿部氏の真意が問われよう。今回の参議院選挙では、他でもないそこが第一の争点であり試金石となる。人として生かされている「存在の尊厳性」と社会保障、それ以外(ねじれ国会解消やTPP参加など)はさしあたり二次的か枝葉末節のたぐいである。
 忘れてはいけない。東日本大震災は自然災害の域を遥かに超えていた。東京電力福島第一原発事故で露わになった通り、紛れもない「人為的災害」だった。そうではないか。未だに避難生活を余儀なくされている多くの福島県民の苦痛を尻目に、「あたかも何もなかったかのように」立ち振る舞い、省庁の経済利権と金融政策を最優先した将来のツケを国民(次世代の若者)に背負わせるべきではない。トイレのないマンションが嫌なら(当然ではないか!)、君たちは断固としてノーを言い、良心的拒否権を行使する必要がある。未来社会は君たちの手中にある、選ぶ権利の行使によること、棄権してはいけないよ。
 最後に、福島原発事故の最前線で陣頭指揮をとられた吉田元所長逝去の悲報に接し、衷心より氏のご冥福を祈りたい。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyrights © all reserved 2013, by the Institute for Rikaishakaigaku