2019年9月15日日曜日

無臭はアブノーマルか、人間臭いがノーマルでは

日韓の問題に寄せて、民族の根源に見逃せない存在性格、わたしであることの臭い・香しさについて少しばかり論じておきたい。
学生時代にドイツのハイデルベルクで体験したことが親しく思い出される。アパートの女将さんがふと漏らした言葉、外国人学生に部屋を貸すに、アメリカ人は臭くて嫌、日本人は無臭で気持ち悪いと。汗流したらお風呂に入って自分の臭いを消す、極端に清潔好みの習慣が奇異に感じられるらしい。湿気の多い環境だから清潔にするのは当然だとしても、無臭となると話が違うかも。
クリスチャンならキリストの香りと言い、純粋経験となると宗教哲学的動機の絡むことでもあるので一筋縄にはいかないでしょうが、自分らしさの臭い・民族固有の臭いまで消す必要かあるのかどうか。無臭はアブノーマル(普通じゃない)、人間臭さがノーマル(正常)ではとの話も巷で聞かれます。考えるヒント:ノーマルは接線に垂直です。
タレントの壇蜜さん、無臭という強迫観念は無用ではないでしょうか。繊細な女性の感受性を考慮するにしても、無菌無臭の社会偏見に呪縛されない。むしろ、人間らしさの証として自分の臭いを受け入れ、あるがままを生きたらいい。そうすることで、臭いは香りになるはずです。臭覚は動物的本能だと吐き捨てる前に、しばしとどまり考えてほしい。疎遠が身近となることで、人間臭い存在者同士の新たな出会いが現に其処から始まるのではないでしょうか。今後日本でも増えるであろう外国人労働者の理解に最低限必要なことですね。(朝日新聞98日朝刊の記事に寄せて)、9月23日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019 by the Institute for Interpretative Sociology Tokyo, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2019年9月1日日曜日

複雑な言語活動と民族感情、詠ってジレンマを払拭せよ

自然は寒暖の差から土砂降りが発生し甚大な被害をもたらすが、その下で住まう人の世界は利絡みの環境次第で事情が捻じれ複雑化する。国民性の違い(存在性格でない)が障壁となって、自己内外にジレンマをもたらしている。米中に日韓を加えた貿易摩擦と経済戦争で、その違いが特異点を露呈している。
例えば、声高に自己主張して憚らず直談判に訴えるか、物腰低く憚った物言いでそおっと真意を伝えるか、語りふるまう姿勢で韓国人か日本人の留学生かすぐわかる。これはわたしがドイツ留学した際に自ら体験したこと、奨学金を求める候補者についてハイデルベルクの当局者が判断の目安としたこと。いみじくも、この度の日韓問題に同じパターンの繰り返しを見せられて考えさせられた。自己存在のルートには、三代を貫くDNAの違いが否定できない。自分の過ちを決して表明しないか、何かとすぐに誤りたがるか、自己同一性の違いが日常的な語り振る舞いに反映されている。半島系の人たちは非を認めず懺悔しない、むしろ過激な言行で局面転回を好む。もちろん、日本にも大陸系の人あり島国系の人あり、弥生人系か縄文人系かの違いはあるが、平均的に穏やかさを好む。ただ平均的イメージだけでは、存在性格まではわからない。
存在論的差異の把握の違いにして然り、南北統一を悲願とする隣国では、通り一遍の言説は頓挫する。まして具体的な政治倫理の行動について国民感情を無視した予断は許されない。反日運動は扇動的なプロパガンダ、自らの失政と側近のスキャンダルに目くらましする試みに過ぎないとの評価が正しい。アンチヘレニズムやアンチセミティズムとは次元を異にする。分断国家の宿命か、民族の根源ルートを探ることは容易でない、複雑系世界に固有な内存在の解釈課題、自己内対話(丸山眞男)に突破の技法が必要となる。それは、マルティン・ハイデガーの抱いていた密かな関心事(『存在と時間』、『形而上学とは何か』、『黒ノート』)でもあり、ハンナ・アーレントの問い返し(『実存とは何か』、『活動的生』、『全体主義の根源』)に反映されていよう。
喫緊の米中及び日韓問題に寄せて、それぞれの言語活動と民族感情を対他的に反省し、一旦留保するか一歩後退して学びなおす機会としたい。翻訳は暴力(ベンヤミン)、SNSやツイッター上の発言は癖球、文春レベルの噂話を鵜呑みにしてはいけない。真に受けると打ち損じる。発話には動機あり、何が目当てか自らに与えられた悟性をフルに活用してよく考えないと適格な判断はできず、期待される諒解可能な国際関係は達成できない。動機の布置連関に判断の目安あり、語り振る舞いに於いて「目的合理性は最も明証的である」(マックス・ヴェーバー『理解社会学のカテゴリー』)。
輸出規制強化の狙いは専ら北朝鮮の非核化に係わること、共有すべき国際法上の課題であるから、目的合理性の観点からして、南北統一の悲願とは別レベルの問題であろう。国民感情は一旦括弧に入れないと、国際政治は成り立たない。内政の柵を他国にごり押しできない所以である。
はっきりと物申す韓国人には学ぶ処が多い。曖昧さに終始する日本人が学ぶべき処だが、政界トップの挑発的・扇動的発言に乗せられない、側近の垂れ流すフェイク情報に踊らされないよう心がけること、非現実的な赤化統一という政策の偏りを正すかトップを罷免することも、主権者たる国民自身の果たすべき大事な責任課題である。自治権が認められていない香港でさえ、若者たちが立ち上がって赤化統一(中国共産党による香港の漢化政策)に背水の陣を敷いてプロテストしている。日米中韓の友人たち、君たちに出来ぬことではない。貿易摩擦と経済戦争の煽りから、唯一の被爆国である日本が望む東アジアの非核化への願いを頓挫させてはいけない。次世代の子らのためにそうしてほしくない。
存在者の存在を真理探求するのは必ずしも難しいことではない。文在寅(ムンジェイン)氏は聡明な人だからわかるはず。側近とサポーターたちに尋ねたい。「探し物は何ですか、見つけにくいものですか、それより一緒に踊りませんか、うふっふー」(井上陽水「夢の中へ」YouTube)の歌い文句も誘われて、共々に手を携え平和の花紐で世界の街頭を埋め尽くしたいものだ。伝統的に儒教の強い国には、権力者が非を認め謝罪する責任論理が通用しないのか。禪をパスした半島民に与える考えるヒント、ダルマの『二入四行論』の他に、『ハイデガーと芭蕉‐禅への途上』(大島淑子、明治大学での講演)が参考になる。ブラックアウトになる前に、詠ってジレンマを払拭するに尽きる。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、花紐社代表