2010年11月18日木曜日

よもや・はてなの「無縁社会」論

Verdächtige Ahnung von der "familienlosen Gesellschaft" (Mu-En Shakai)
周囲に話し相手が一人もいない、最後は弔う親族も知人もなく、孤独死する高齢者が大勢いるのは、否定しがたい悲しい現実である。「無縁社会」というHNK特集の番組(2010年10月30日、土曜日)に居合わせた青年たちの中に、自分たちの将来を重ね合わせ同じ宿命を予感している様子が放映されたときは、正直に言って驚きを禁じ得なかった。しかしよく考えてみると、NHKという半ば官制メディアの流すことだから疑わしくもある。案の定、影で申し合わせたように「無縁」は「無援」と言い換えられ、脚本の筋書き通りに高齢者から青年の世代へと話題がするりと切り替わる。むろん、明日を担うこれからの若年世代に、「無縁」(Irrelevanz)は似つかわしくない。たとえそれに「無援」(Hilflosigkeit)の意味が添えられ上書きされようと、理解はおろか説得性は到底望めない。「よもや」の予感に共感を禁じ得ない、非正規の派遣労働に従事する若者が現に大勢いるとしても、不幸な誤解を招かないよう、「はてな」のマークを三つ付けて、一筆献上しておきたい。
一般的な話で言えば、我々日本人は他人(その典型が外国人)とのつきあいが下手で、深い関係に立ち入ることを好まないと言われる。核家族化から家庭崩壊にまで及んで、その傾向は大都市に於いて増長している。対策は、近所の人に日頃から毎日挨拶する習慣を付けること、挨拶に微笑みを絶やさないことだ。大都市に於いては、匿名性を享受できるよう、密閉した空間造りになっている。都市設計や建築構造物が欧米風に偏り、日本的家屋の良さが失われてしまったことも、大きな原因の一つだろう。マスクした希薄な関係がいやなら、大都市を捨て農村暮らしすればいい。高齢者支援の政策決定やPKOなどを活用することで、これは解決可能なジレンマだ。しかし、「無縁社会」という話題の背後には、人並みに楽をしたい・面倒や苦労は嫌だという、生活設計に拘わる別世代の課題が絡んでいる。
「苦は縁起、恥は無縁の、花菖蒲」(拙句)。縁無くして出世した人がいないように、「苦」(Qual) 無くして成功した人はいない。どう自分(の体)を苛める(sich quälen)か、職人的な目的合理性の自覚が問われる。目的が有れば自ら禁欲(節制)するもの、職人の「マイスターは、制約することの中で立ち現れる。法だけが君たちに自由を与える」(ゲーテ、私訳)。制約する (beschränen) とは、的を絞るということ、あれもこれもと欲をはらずに、「已(すで)にとする」こと。終わり一つの目標(ターゲット)が決まれば、苦も縁として自在に楽しめよう。「縁起が悪い」とか「縁を担ぐ」が誤解であるように、今話題の「無縁社会」は、若年層の君たちには誤解されやすい。例えば、商いの縁は有るものでなく造るもの、顧客(他者)と拘わる中で成る・立ち上がるものだ。だから、「法」(ダルマ)に従い縁を起こす意味で「縁起」と言われる。中観派を代表するナーガルージュナのむずかしい話はさておいて、コモンセンスとしてはそうであろう。では、縁造りに失敗して孤立化するのは何故か。高齢者の不在発覚事件に始まり、若年層の世代を蝕む「孤立無援」化の現象は、宗教学や深層心理学の対症療法では、根本的な解決に至らない。虐めによる自殺といった悲惨な悪循環を繰り返さないためには、受苦者の抱く主観的意味を解明しつつ、経験妥当な「諒解」関係を目的合理的に学ばせ取得させる、始終に双眼の「理解社会学」が必要とされる。若年層にこれを理解させるには、面倒な言葉の問題をクリアにしないといけない。啓蒙主義の原点はカントが指摘しているように、自分の言葉が話せない・自由にならないという、近代人が自ら招いた「未成年状態」からの脱却であったことを、思い起こす必要がある。世代が成年・未成年のいずれであれ、また立場が経営者か労働者のいずれであれ、言葉(語るモノ、エス)の暴力にどう向き合うかは、一般社会言論の課題なのである。
各々は集団社会の駒であって、歴史的個の確立を未だに知らずという、日本の特殊事情を考えるにせよ、苛める側も苛められる側も実は犠牲者であって、自分の心の叫び(愛の飢え)を聞いて貰いたいのだといった議論にしても然り、思い入れが過剰な(その実、人格性・非人格性を混同した)言語経験の環境を元から見直さない限り、目的と手段の混同を許したり、口実を合理化したりするだけで終わる。これでは、「無縁社会」の偏見は解決しない。2007年にアメリカのバージニア工科大学で起きた銃乱射事件のケースでは、「日本のいじめ自殺には、復讐する(一生後悔させる)という発想がある」が、「アメリカにはそういう発想はなく、直接危害を加えないと復讐にならない」(Pink Freud)からと言って、ニーチェ流のルサンチマン論を蒸し返して済むかどうか。高度なニーチェ解釈を交える前に、非人称化や非人格化に耐えうる言語経験の見直しが必要ではないかと、「わたし」には思われる。見えざる「諒解関係」を予想しこれに応えるシャンス(可能性)を分けあうこと、物理的・精神的に追いつめず、相手にもその様なシャンス(逃げ場)を与えること、これが共有可能な「縁」、良縁ではないかと思われる。
繰り返す。「縁」がどこかに転がっていたり、「無縁」という宿命的な何かが背後で君たちを縛る・操るのではない。君たちの目の前に、「壁」となって立ちはだかるモノが何かを考えてみよ、壁に目を凝らして、鼻から出入りする「それ」を嗅いで観よ観よ(臨済)。仮初めにも、「無縁社会」に怨念(ルサンチマン)で応えないこと。縁に従って働くモノを自から語らせると、それがシャンスとして贈られてくることに君たちは気づくだろう。価値観を異にしても違わず争わず、自己理解を交換しあう仕方で縁を結ぶはよし、最後は「能く自利し亦た能く利他する」関係となるよう勧められる。それでも、「縁尽くれば還た無なり」という(ダルマ、『二入四行論』)。ルサンチマンを戒める冒頭の「報怨行」(通常、前世の怨に報いる行)といい、「利他」する他者性の意識といい、縁が尽きることもあるという発話にも、インドの仏僧らしからぬ素性を偲ばせる。或いはポジティブに裏返し、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(イエス、『マタイによる福音書』7:12)でもいい。要は、自分のこと(で有るか)のように隣人への関心(愛しく思い、親しみ慕う心)を持つことだろう。関心を持つとは、印欧語の再帰動詞で、隣人へと「自分を関心付ける」ことだ。持つ・持たせるだけでなく、関心は発話し発信しないと意味がない。発話は自由人で有る「かのように」行為する私の発問となって初めて、関係の濃淡を有意味に表現しよう。それは、君たち自身の自由な発話・発問に基づく、「諒解」関係取得と社会参加(アンガージュマン)の可能性(シャンス)である。
よもやの不幸な誤解から、「無縁・無援」の悲劇を我が身に被らせないために、また縁が尽きて就活を無駄に終わらないためにも、最後に二三の身近なアドバイスをしておきたい。第三者として自分を捉え直す(共感し共鳴する自己の発見)、進んで話を聞いてあげる(他者のニーズの発見と共有)、普段に親しく挨拶する(諒解関係の醸成と機会創出)、どんなに月並みに聴こうようとも、要はこの三つに尽きる。起業・開業(Entreoreneur)への心得も然り、平常心で縁興し(エンタープライズ)するに、共感・聴取・挨拶の実践ですむこと、面倒なことは何一つ無い。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

補記: 「無援社会」をドイツ語で表記すると"familienlose Gesellschaft"、つまり「家族(の絆)無き社会」となります。核家族化に始まり家庭崩壊に陥った現状を踏まえて、詳細は別途に論じたい。

2010年11月4日木曜日

トルソーとしての「エスの系譜」

"Genealogie von ES" gilt als Torso an sich
 互盛央氏の『エスの系譜』(講談社)を一読しての感想です。ダブル受賞の評判通り、なかなか読み応えがありました。グローデック(「エスとの対話」)とフロイト(「自我とエス」)のコンフリクトは公然の秘密としても、前者は後者の引き立て役にされているだけなので、討議(ディスコース)の公平さが欠けているように思われます。フォイエルバッハとニーチェについては解釈を異にするので、別途に論じます。それでも、全体をフロイト論として読むと、論述スタイルの首尾一貫性が光ります。フロイトからニーチェ、リヒテンベルクへと遡る「エスの系譜」第一章では、緻密な論争背景の解明だけでなく、近代人の「私が思う」から非人称の「それが思う」へと論点が覆され、「語ること」から沈黙の中で「思われること」へと目線が切り替えされる。詩人をして非人称の「語ること」から「語り終えることのありえないもの」、すなわち「思われることの残響」になることが勧められる。精神分析学(精神病理学)を科学に数えるなら、一方の科学と他方の哲学及び文学が主導権を競いながら、同じエスとの対話ルートに還元される。そこがキーポイントです。個人的には、レヴィナスの思想に近いようで味わいの全く異なるアプローチに新鮮さを、エス・ルートの発見からデカルトの読み直しまでする意外な局面展開に、説得力のある圧巻のインパクトを感じさせます。
少しだけ欲を言えば、系譜の議論がリヒテンベルク止まりで、せっかくデカルトにまで言及しているのに、(ゲーテやフィヒテ・シェリングは語っても)スピノザが論じられていないのは、フロイト自身が彼には無関心であったか、(スピノザを論じるグローデックへの対抗心から?)あえて関心を示さなかったのだとしても、片手落ちのような気がします。エスの理解を違わせている何かが、その周辺に有るのではないでしょうか。スピノザは《神もしくは自然》で、神を非人称化・非人格化しており、彼の無神論は「エスの淵源」と無関係ではないはずです。ユルゲン・ヘレはスピノザを理解社会学の祖としており、その意味でもしかと問うておきたい。語るか沈黙するかのいずれであれ、エスは第三人称形の代名詞で伝える他ないモノ、わたしが常々「働くモノ」と言う場合も、ドイツ語で Es wirkt(「それ」が働くこと)ですから、多くの点で互氏と理解・関心・課題を共有しています。代名詞系に脆い、特に第三人称系が致命的に曖昧な日本語文法では捉えがたい経験でしょう。
第三章以降で触れられている通り、「エスの系譜」は反ユダヤ的なそれを含め、ユダヤ的知性と感性一般の秘密に深く関わることです。「それ」は、社会学的には「神と貨幣」(=《神もしくは貨幣》)で知られる古典的なシェーマと分かちがたい関係にあります。近代人が強い関心を抱くエスの表象には、頭のないトルソーか働くヒトの顔がない能面のイメージが強いですね。エスの世界はカオスの海、海面に立ち現れる「それ」が単頭か双頭か、貨幣の魔神の相貌が如何にであれ、これに挑む勇者・現代のマルドゥク神はいないのか、天と地(という二つの淵源)にしるしを求める見者・預言者はどこにいるのか、問われることになります。上限と下限(言葉と無)の淵が分かれるか渦を巻く「そこ」にまで両足で踏み込まないと、話題のエスをメディアの踊り場で商品化するだけで満足するか、仕立てられた流行(はやり)と平均化(人並み)を追うに忙しく、自分の時間がないヒトで有る(das Man-ist)、不安のマスクした業者や読者(迷い子)を増やすだけに終わりはしないでしょうか。「エスの系譜」を頭(カプト)のないトルソーに終わらせないためには、いずれスピノザの読み直しが促され、「働くモノ」(エス)の解明に必要となるでしょう。「それが思う」を「私が思う」ことの上位概念とするにしても、非人称(非人格化)の要件は詩人たちを必要としました。「無名とあえてなり歴史から自分を隠す」詩人に於いても然り、ヒト(ペルソーナ)に於いて働くモノ(レース、エス)のメタファー論的解釈が妥当かどうか、社会言論の真理性を巡り自我とエスが真剣な対話・熱い討議を重ねる中で、最後はセクトを含むゲマインシャフト関係の要件である、「諒解の妥当」が真理性の試金石となるはずです。その意味で、グローデックやフロイトだけでなく、ヴェーバー(『理解社会学のカテゴリー』)とハイデガー(『時間と存在』、『フマニスムス』)への学びは、必要にして十分意義あることだと「わたし」には思われます。2010年11月4日(木曜日)

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

追記: これはあくまで、初読の感想です。その後、『エスの系譜』の一年前に出版された『ソシュール 〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社、2009年)を読み進める中で、互盛央氏の問題提起が理解できたように思います。『ソシュール』を前提にして読むとしても、『エスの系譜』に感じた上記の疑問がクリアーされた訳ではありません。むしろ、「社会言論」批判という別の討議ルートでいっそう深まることになります。これについては、持論の「一般社会学言論」構想と拘わる重要な課題ですので、詳細は別途に論じることにしたい。2010年11月30日(火曜日)