2015年1月11日日曜日

テロに屈しない、憎悪に口実を与えない、言論の自由に理解と工夫を、善への刺激策を!

 風刺画掲載で知られるフランスの週刊誌シャルロー・エブディがアルカイダ系テロリストに襲撃されたのが7日、「アッラーは偉大かな!」と口々に叫び、著名な風刺漫画家で編集長シャルボニエ氏を初め12人が皆殺しされた。言論の自由を謳歌する欧州世界に衝撃を与えたこの事件は、9日に特殊部隊の投入によりテロリストたちの全員射殺で終わった。パリを舞台にした二件の内一件は、ユダヤ人の若い商店主が犠牲となった。彼らに殺された婦人警官はイスラム教徒だったことが判明している。神の名をみだりに唱えるだけでない、自爆することがコーランで殉教だと教えられたと容疑者は自白している。誤った解釈(プロパガンダ)に踊らされていることは確かである。
 他方、イスラム教の預言者を風刺することがいいとは思われない。相手が一番嫌がること、代表の人格誹謗に近い諧謔が好まれる風潮も困ったものだ。西洋知識人の尺度を彼らに押し付けてはいけない。憎悪に口実を与える刺激物はできるだけ控えた方がいい。余計な刺激物は、誤った理解を焚き付ける温床となる。もっとも、今回は自国民による犯行だから、事件の衝撃度は大きく一線を超えた。風刺画(カリカチュア)も文字(エクリチュール)と同様に独り歩きするから、ルサンチマンの応酬に口実を与えるだけだ。主観的意味の押し問答より、悪の刺激物に負けない、経験妥当な正しい「理解への欲求」(善への衝動の促し!)こそが望まれていよう。
 若きアーレントは、「ユダヤ人として迫害されるのであれば、ユダヤ人として抵抗しなければならない」と告白したことが思い出される。たとえ「悪」の首謀者が「凡庸」であるとしても、ここで身を引いてはいけない。パーリア的存在の自由を求めて戦う必要があると彼女は確信した。悪が世界を滅ぼうとしても表層のみ、善のみがラディックス(深層、存在の根底)に迫りうると。このたびの事件を目の当たりにして、21世紀に於いて言論の自由を行使する際に、風刺画や文字を理性の限界内に抑えることの難しさ、カオスの勢力に対してはひるまず抵抗することの大事さ、最後は自分と戦わずして身を引くことの愚かさを痛感させられた。アーレントへの学びは、時機に適ったそれぞれの「我が身」への反省となるだろう。
 憎悪の糸口となるものをつくるべきではない。挑発行為(「侮辱権」の主張)はやめたほうがいい。むしろ言論の自由に関する理解の妥当性を問い、「善」意志を刺激する政策実現(「認知権」の平等)を求めよ!共感のポイントは、双方にとって「善」の理解が食い違っている点に求められる。如何にこれを自己調整するか、諒解関係の構築は、共通の「善を欲する」意思に委ねられる。紛争の元はと言えば、イスラエルとパレスチナを巡る欧米主導の強引な戦後政策に起因していよう。貧富の格差と民族差別が宗教対立の背景にある。それが解決しない限り、政治的に対等な「平方完成」は望めないが、互いの「平方根」を求める(「複素数」を導入する)ことで解決することもあり得よう。 負の遺産(虚数)を"i" に置き換えよ!1月14日更新。
Shigfried Mayer(宮村重徳),
copyrights © all reserved 2015, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo 

2015年1月1日木曜日

年頭所感:「退くことで先んじる」、私の「哲学宗教日誌」元年

  新年のご挨拶を申し上げます。今年も、当ブログ「理解社会学の工房」をご愛読・ご支援賜りますよう、心よりお願い申し上げる次第です。

   Ins Neujahr holen Sie sich wieder!                                                             
 Rahel = Hanna

  さて、スピノザとアーレントに在って私に無いモノは何だったのか、昨年来の反省課題である。八方塞がりでも弱腰にならない、簡単にやめない、降りたい自分に負けないで原点に「踏みとどまる」勇気だろう。不退転に構える意志の硬さより、「柔軟性」に偏り過ぎたことへの反省からである。すぐに和睦・妥協に持ち込ませない、自己意志貫徹の心得が「一歩後退、二歩前進」(“Schritt zurück“)にあるのだとすると、「自己反復」する真理の要件は、何処から「実存する」(ek-sistieren)のか、死から或いは生の始源から。宿命の選択は、「私」の意思決定に託される。
  そこで、今年の年頭所感は、「私の哲学宗教日誌元年」。一歩後退して、パーリア(賤民)的存在の働きを(自分を無とする)「神の身振り」に学ぶだけでなく、初源に「退くことで先んじる」(praevenire amando)、アーレント自身の「活動的生」(vita activa)をモデルにして、真理の如を虚心坦懐に学ぶことにした。これを以て実りある一年としたい。ヴェーバーの『古代ユダヤ教』参照は当然のこと、彼女の「政治神学」がヴェーバーの「支配社会学」的視点と異なるところは、随時明らかとなる。ハイデガーとの差異は微妙だが、それ以上に興味深い。
  「私の哲学宗教日誌元年」と銘打ったが、史的ダルマの墓標を後にして、次なる指標ヴィトゲンシュタインの峠にたどり着くまでの旅路の元年、初源に「退くことで先んじる」道を学び合う、一般社会学言論の哲学講座開設へ向けて。

2015年度獨協大学外国語学部ドイツ語学科に於ける「テクスト研究」(歴史・社会部門)の「予告」(Voranzeige):「自分を包み隠さず理解したい、アーレントに学ぶ」(《Ich will verstehen, ohne mich zu verbergen. Der Fall Johanna Ahrendts)。言わば、コミュニケーション的行為の理解要件です。
受講希望者は、原書テクストの他に、ヤスパースやハイデガーと交わされた「往復書簡」に目を通しておいてもらいたい。保証付きで、報われて余りが有る。(3月22日更新、画像差し替え)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2015, the Institute for the Interpretive Sociology Tokyo.