2011年3月13日日曜日

「波」に攫(さら)われる、生活世界の原風景

Die von den tobenden Wellen fortzureißende Lebenswelt als Ur-Landschaft
【4月13日更新】
2011年3月11日(金曜日)14時46分(日本時間)、「東北地方太平洋沖大地震」(正式名:東日本大震災)が目の前で起きた。先ずは、天災に見舞われた方々、犠牲者と残されたご遺族の方々に心からお悔やみを申し上げ、亡くなられた方に哀悼の意を表したい。外より見ればわたし自身が広域被災者の一人だとしても、書棚が転倒して専門書が「瓦礫の山」になった程度のこと、未曾有の激しい震動に書棚が耐えきれず、シェリングが先に落ちて下敷きとなり、その上にコントとフォイエルバッハが次々と床に叩き落とされて、足の踏む場もないほど山積した状態となった他は、危険が身に及ぶほどのことではなかった。いつも読めるように手前に積んでいたから先に落ちたまでで、意味ありげな解釈の紛れ込む余地などない。それにしてもひどい、まるで大地が酩酊しているかのように(als hätte der Boden einen Kater)、家屋・電柱・木々が上下左右にゆらゆらと足下で大きく揺らぎ、天地が軋み地平線が撓むようなあの奇妙な感触は忘れがたい。振度5でこうだ。では振度7でどうなるのか、想像を絶する悲惨な光景がリアルタイムで放映されている。
普段はのどかな漁村の風景、山間に開けた僅かな平地に突然激しい揺れが襲いかかり、家財道具が吹っ飛び、ぎしぎしばりばりと木造家屋が壊れていく。狼狽え絶句している暇など無い。津波警報が出て5分も経たない内に(あくまで体感、目撃情報では20分後)、すでに背後から囂々とうなりを立てて津波が押し寄せ、易々と堤防を越え瞬く間に町全体に襲いかかる。後ろを振り返らず手に何も持たず、着の身着の侭で高台へと逃れた人だけが間一髪で救われた。生死の分け目に紙一重の偶然、逃れるに5分の余裕もなかった。高台から見られた壮絶な風景、津波が押し寄せ、あっという間に町中の建造物を飲み込み、家も車も舟もすべてを押し潰し流していく。「家が…家が…」と絶句する高齢者、「お母さんがいない…」と泣き叫ぶ女の子、「妻が…子供がいない」と嗚咽する男性、「親がいない…連絡が取れない」と取り乱す女性、「一度に、仕事も職場も肉親も失った…、これからどうしたらいいのか」と肩を落とし呟く青年。いずれも、高台にいるからこそ言えたこと、残り大半の方々は必死に叫ぶ言葉を誰にも聴かれることなく、大「波」に攫(さら)われ濁流に呑まれて、未だに行方が分からなくなっていると。…
恐るべきはマグニチュード9.0の大地震より、人間の予測を遙かに越えて、壊滅的な働きをした巨大津波の方だろう。「なみ」(波)が巨大なうねり(die tobende Welle)となって押し寄せ、「工作的人間」(homo faber)の誇る社会建造物と人為的自然環境を容赦なくなぎ倒し、身も体も家も車もすべて攫っていった。同僚の山根一眞教授の被災地レポートによると、「海が見える場所、海岸に近い低地はことごとく破壊され尽くされていた。「津波に流された」という表現は正しくなかった。「津波にぶっ壊された」と言 うのがふさわしい。自動車は高速道路での正面衝突のように破壊されているものが多かった。爆撃を受けたような家屋は残骸が残っているのはまだましで、まっ さらな土台だけしかない建物が少なくなかった。被害のありようは、地域によって異なることも分かった。仙台の南、阿武隈川より南の破壊され尽くされた海岸沿いの地域は海砂が覆われてい たが、石巻市では湾の底に溜まっていたものなのか、ヘドロまみれの場所が多かった。地震発生から3週間、そのヘドロが乾き、悪臭を放つ粉塵として舞い始め ており」、呼吸器官への影響が心配される。「リアス式海岸が続く石巻市北上町から南三陸町へと続く細い道路、国道398号線は何カ所かが寸断され…、土盛りの上に鉄板を敷くなどの 応急工事で通行可能になっていたが、道路沿いの入江にある漁港、その奥に続く低地の集落は、巨大なハンマーを思いきり振り下ろして叩き潰したような光景が 続く。建物の上にちょこんと乗っているクルマ、民家に突き刺さっているトラック、海岸から離れた山の裾野に鎮座する漁船。仙台空港周辺では軽飛 行機が流されて1カ所に固まっているシーンも報じられていた。自動車が空を飛び、船は陸を進み、飛行機は水に浮かんで進む……、悪い冗談としか思えない光 景が、これでもかこれでもかと続き途絶えることがない。そして、数多くの方々の命が奪われた」。→ http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20110408/219368/ 
まるで、思う我の主観と客観(思惟と延長)・《私と外の世界》(Ich und Außenwelt)の合理主義的区別は自分勝手で恣意的だと言わんばかりに、また「神的自然」 (Gottesnatur)など所詮人間中心的考えの隠れ蓑に過ぎないとあざ笑うかのように、一瞬にして人間の集落を飲み込み一掃する自然の「猛威」(die tobende Welle)を、今私たちは目の当たりにした。科学を嗜む近代人の末裔である我々は、自然破局(Katastrophe)が神々の怒りでなく悪魔の仕業によるものでもない、深層にあるプレート(海面下の大陸の岩盤)のずれにより歪みが生じ地震波を生んで、巨大な「なみ」のうねりを起こしていること、現象が深層の変化に連動した結果を露わにしたに過ぎないことを知っている。としても、「なみ」のある喉かな生活世界が泥と油と廃材に塗れ、あたり一面どす黒い廃墟(Ruine)と化すまで僅か数十分の出来事、原風景の余りの変わりようを否が応でも見せつけられて、誰もが語る言葉を失い自失呆然としているのではないだろうか。
もはや、技術によって得た自然界の征服者たる立場を自負する、近代人(個と集団)の意識レベルの問題ではない。日本一の防災の技術を誇る町の堤防も、高度の情報や通信技術を駆使した最新の道具さえ全く何の役にも立たない現実を目の当たりにして、防災を軸とした都市計画の徹底的な見直しと文明論の仕切り直しを余儀なくされよう。主観とペルソーナ文化を誇る我々が自然を見くびり過ぎていたのか、それとも我々人間の科学技術の進歩が追いつかぬほど、自然界の奥行きが深いのか。世界の東西を問わず、我々がまだ、「叡智界」の住民でないことだけは確かである。
三陸海岸の住民たちは、過去の地震と津波の体験から高台移住の必要性を十分知っていたし、親の代から知らされていたはずだ。最新鋭の防波堤と度々の防災訓練にもかかわらず被災したのは、危険を承知の上で海岸沿いで家業を営み商いする方が便利であり、実際に楽だったからではないか。15メートル級の高波にも耐えうる鉄壁の防波堤を造ることが困難ならば、海岸3キロ以内の平地には宅地を造らせない、住宅地は高台のみとし、平地には耐震構造の高層建造物以外は原則禁止するほどの大なたを振るわないと、今回のような惨事が繰り返されることになろう。民主党が唱える「政治主導」(politische Führerschaft)は、ここでこそ必要とされよう。少なくとも、政治的手腕(Staats-klugheit)に技ありの力量(Begabung mit der Staats-kunst)が試されるのは、生活現場の現に其処である。
自然は法則的だとしても、その働きは一見して「無差別」である(例えば、地震や津波は襲う場所や人を選ばない)。問題は対応する人間の側にあり、「自分」のことを考え複雑に行動するから(一筋縄には行かないという意味で)厄介である。最小限必要となるのは、防災の圏域を越える商いや生活上の利便性に走らない・走らせない、全住民と役人たち自身の意識改革であり、次に自然の脅威と向き合う新たな町造りに必要な、「諒解ゲマインシャフト関係」の理解を徹底し、内外の危機管理を日常的に共有する関係を実現することだろう。そのためには、「自然と社会」のコンフリクトの原点に立ち戻って考える(「理解社会学」する)必要があろう。
「なみ」の問題解決は並大抵ではない、波紋するモノとヒトの知恵比べと言えよう。それはカントが指摘する、「叡智界」(または可想界、intelligible Welt)で働くモノ(物自体)の人格性の謎に迫る、難問中の難問(アポリア)である。ジンメルのように、両者の間をシンメトリーに捉えて済むわけではないと思われるが、シェーラーの天才的知性(共感論)でもってしても解決せず、最後は有機体的な「世界観の哲学」に挑み挫折を強いられた、非人格性(非人格化)を巡る実践理性の解釈課題である。無差別に働くモノの脅威に向き合うヒトの言語感性と技法(Kunst)の如何にが問われ、同時に我々の覚知或いは統覚(Apperzeption)の哲学的要件が、「現象学的社会学」(シュッツ)或いは「理解社会学の共感論的批判」(ギデンス)の目線で吟味されつつ、最後は「言葉と無」という上限下限の極み(大島淑子)から厳しく読み直されることになろう。

追記: 大地震による東京電力福島原子力発電所の一部損壊の事件は、単にエネルギー供給といった社会政策上の問題でなく、国民の命にかかわる重大な国家的危機管理の要件であるので、これについては三陸海岸の都市設計の問題と同様に、詳細は別途に論じることにしたい。なお、被災体験のみならず、各自の思い・ご提案をお聞かせください。随時、当ブログのコンテンツに反映して参ります。 

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年3月1日火曜日

「帽子」のある、生活世界の原風景

Die huttragende oder aufrecht zu behütende Lebenswelt als Ur-Landschaft
3月と言えば「雛祭り」の季節、ということで、今回は特に肩の凝らない、見て楽しい話をすることにします。中でも、生活世界に欠かせない「帽子」(der Hut)について、一緒に考えてみましょう。帽子の歴史はとても古いようです。頭に帽子を被るのは、ヘルメットのように頭部を「保護する」(behüten)または 「保護される」という目的以外にも、1780年以降ヘレンフート(Herren-hut)の名の通り、初めは男性用として「保護されている」(in guter Hut sein, unter der Hut sein. /die Hut)身上を保証するモノでした。最初の素材には、17世紀までビーバーの皮(Kastor-hut)が好まれていましたが、それが豚革のフェルツ(Filz-hut)に変わり、次第に絹の製品(Seiden-gewebe, Silk-hat, 上)が主力となり、新旧大陸の市場を席巻します。やがて大量生産可能な安価な、ビロード(中)や麦藁(下)製の代用品に変わります。注目すべきは、帽子それ自体が支配社会学的な造形物(象徴)だったことです。しかしその後は男性に限らず、女性たちも自分の身を美しく着飾るために被るようになりましたね。女性解放が進んだ今日では、帽子本来の意味が薄れスタイルも変容しました。
そもそも、欧米の男性たちが被っていたシリンダー状の頭部と広いツバを持つあの奇妙な帽子、のっぽのシルクハット(Zylinder-hut, Silk-hat)は何だったのでしょうか。現代日本人は帽子を被る習慣がないので、想像つかないでしょうか。右下のイラストをご覧ください。古来帽子は社会的身分、つまり自分の「身」の権威と尊厳(Autorität und Würde)を表す象徴、ステイタス・シンボルとして広く愛用されていました。例えば、イギリスの故チャーチル首相やアメリカ合衆国のリンカーン大統領、デンマークの哲学者キルケゴール、ハリウッド映画の天才チャップリンの肖像画を思い出せば想像がつくでしょうか。
今回ブログで考えてみたいのは、帽子が特定の社会的役割(自分らしさ、人格性の要件)を果たしているという点です。歴史を遡るとすぐに分かることですが、殊更に帽子を必要とし今でも愛用している人々がいます。ユダヤ系の人々です。それはいったいなぜでしょうか。
例えばナタールヤ・ネストロヴァ(Natalya Nestorova)は、1944年生まれのユダヤ系ロシア人の画家で、ロシアに於けるユダヤ人文化の精神的支柱となった女性です。「過ぎ去った時代の絵画」(Die Bilder aus der vergangenen Zeit)などを主題に、小鳥・帽子・小舟などのメタファー(隠喩)をふんだんに使用して、他に類のない非常にユニークな作品を残しています。最初の絵は「ロシアの遍歴者たち」(Russian Wanderlings)、次の絵は「飛び去った鳥」(“Vogel, der wegflog” Bird that flew away)、三番目は代表作の「壊れた翼」(Your Wing is broken)です。とくとご覧ください。(但し著作権の関係上、私的観賞以外の目的には使用しないでください。右上のシルクハットのイラスト以外は、ライセンスフリーではありません、ご注意ください)



  
                                                           
         
皆さんがこれらの絵から何を想像されるかは、とても楽しみです。詳細は後でお聞きすることにして、最初の絵の特徴は、公共の場でマスクをしたヒト(das Man)の「顔つき」(Mask, Gesicht)、二番目の絵は、転んだ人の「顔」、飛び去った鳥(飛鳥)へ戸惑い慌てる「視線」、魂消た様子でもんどり打つ「体」の動き、それに顔を剥き出しにして傍らに落ちる「帽子」です。 三番目の絵は「堕落天使」(ルシファー)のことではありませんよ。就活中の「君の翼がブロークンしてしまった」かに見える、リスクとブレイクアウトを予感させる、衝撃的な造形イメージです。背景がネストロヴァの好む「郊外」でなく、頽廃した「都市文化」の頭上で有る点に注目してください。
次の絵は「舟」(“Schiff”、1966年)です。「ボート」に乗るカップルは、密かに「身」を寄せて生きる、自分たちの世界をイメージしたものです。その下にある「(モスクワ)郊外を散歩する人たち」(Spaziergaenger)の絵と合わせてご覧ください。


   

               
背景の遠近法云々より、ここでも「帽子」が特徴的です。ボートに乗った二人は、自分たちの顔を帽子で隠していますね。「彷徨えるユダヤ人」たち(Wanderling Jews)の特徴・心情をよく言い表しています。下の絵は、遙か極寒の東方へと監視の目(追っ手)を逃れ、モスクワ郊外を安堵して「散歩する人々」です。彼女(ネストロヴァ)は民衆の画家として、苦渋に満ちた遍歴者たちの生活世界の只中で、「平常底」を生きるヒトたちの姿をストレートに描いています。「ネストエロヴァが描くキャラクタのほとんどの顔は、観る人から隠されている」。何よりも「壁として宇宙の深部にある見えざる宇宙の智慧の泉に瞑想入りする」仕方で、「観る人からその顔を背けている」(A.ゲルツマン)のです。ユダヤ人男性は「帽子」に、ユダヤ人女性は「鳩の翼」に、ユダヤ人であれば誰であれ、ジェンダーフリーの「壁」(Wand, Wall)に自分の「顔隠し・神隠し」をする他ないのです。
  よく考えてみると、日本でも幕末までは旅の道中「三度笠」を被ったり、野武士や虚無僧のようにすっぽりと頭部を覆う深い「笠」を愛用していました。その目的は、自分の「身」を隠すため、公共の面前では匿名で有る必要があったからだと思われます。その証拠に、忍者や隠密であれば半開きの笠に代えて、字義通り「覆面」するわけです。それに対して、仏法僧たちが笠を被って修行の旅をするのは、自分の栄誉・家族・財産を捨てて「頭陀行」の証をするためでしょう。禅では、「無名とあえてなり、歴史から自分を隠して生きる」ダルマ門下生(松岡由香子)が、そのお手本だと言われています。「悟るということも無い」から、称号も戴冠もいらない、つまり無冠です。ところが、キリスト教でもカトリックの修道院では、一定の役職を表す帽子(身の位を指す一種の戴冠)がありますね。例えば、ローマ教皇が頭部に被る煌びやかなモノに注目してみてください。プロテスタント教会では、全く見られないことです。「キリストのケノーシス」(自分を無とする実践)をするにしても、牧師に帽子や戴冠は一切無用と言うことでしょうか。牧師が帽子を被るのは、せいぜい個人の趣味の範囲でしか見られません。やはりユダヤ系の人々に、帽子を被る格別の理由・必要性があったことは、歴史が教える疑えない悲しい実物教訓です。これは、より深層の「先験的主観性」(フッサール)を「最終産物」(Endprodukt)とする・見なすだけでは説明できない、忘れられた生活世界・忘れられない過去性(忘れてはならないホロコースト)を振りかえさせる討議のシャンスとして、皮肉にも『存在と時間』(ハイデガー)の避けて通れない課題、「ユダヤ教とケノーシス」の問題(レヴィナス)となるでしょう。もっとも、ユダヤ人のフッサールだけでなく、ハイデガーも森を散策するときは、自分の帽子を被っていたようですが、これは風土的な身なりでしょう。(続)

Shigfried Mayer , copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku


脚注:
このブログ記事は、拙著『史的ダルマの研究-ボーディ・ダルマと「彷徨えるユダヤ人」』(出版準備中)で展開した内容から、ほんの一部を分かりやすく日常言語で紹介したものです。次回は、「「障害」のある、生活世界の原風景」です。「生活世界の現象学」シリーズの一環として、四季の折々に投稿するつもりです。上記の拙著は、出版費用が整い次第、刊行する予定です(スポンサー募集中)。
       Natalya Nestorova の画像は、Lehmann College Art Gallery・The City University New York の管理下で展示されています。旧いアーカイブについては以下のアドレスで参照、Archives → http://www.lehman.edu/vpadvance/artgallery/gallery/
 Loschek, Ingrid: Reclams Mode- und Kostümlexikon. Stuttgart 5. Aufl. 2005.; A. Gerzmann のエセーについては、後で報告します。  
③ 松岡由香子、『慧可伝』(花園大学禅学研究所)