2019年6月6日木曜日

近すぎて見えない、8050問題の地平

会社の上下関係や師弟関係と異なり、親子や夫婦の関係では、近すぎて見えないから悲劇を生む、他者性の視点欠落が顕著だ。何時迄も睦まじく尊敬しあう関係を維持するには、世代間で違う価値観を押し付けない、端的に「わたしは理解したい」(ハンナ・アーレント)、その一心で突破できる。お喋りでない、討議することでもない。「理解」を欲する処から、対話が始まる。他者として相手を敬う感覚が沈黙の帳を開き、自閉し内に籠る硬い殻を内から自然に破らせる。病んだ心を理解し諒解する経験は、相手の目線で対話するだけでも十分でない、対話は隔たりのあるコミュニケーション行為、さしあたり自己内対話(丸山眞男)で始める。自分を受け入れて強がらず弱音を吐かず、あえて心を障壁の如くするには及ばない。
壁観して安心無為、誰をも怨訴せず、怨を体して進むのみ(ダルマ『二入四行論』)、神即無に理解(心識)が達すると、神即自然の道が向こうから開ける、心即是仏の観心道に、父を忘れ逃走しないために心の覚書(神秀)、真影(仏影)が見つかるまで時を惜しまず。祖師ダルマ自身の言葉に注目、「我は昔より・・・」の懺悔告白が成実、何ものにも依存しない、何ものをも寄せ付けない、師に会えば師を殺し、親に会えば親を殺す(大東国師)、親なるは神、父は十字街路で出くわす親爺でもいい。それが誰のことかと名乗らせるまでもない。捨てられる前に自ら捨てると気取るまでもない、出自を捨て出立する覚悟が求められる。物騒な話だが、禅では立派な自立の証である。
八十歳代の親たちに五十歳代の子らが同居する、いわゆるパラサイトシングルの諸問題も同じ。違いがあるとすれば、年金暮らしの親世代への経済的依存が自立を妨げていることに気づくのが遅すぎること、過度の庇護が仕事探しに障害となっていよう。親鳥は、ある程度成長した小鳥を見放す、エサは自分で探せとばかりに巣から蹴落とすではないか。乳離れ・巣立ちが極端に遅いのが人類(ホモサピエンス)の特徴だと、居直っているわけにはいくまい。
仕事がないのではなく、誇り高き自分にふさわしい仕事が見当たらないだけのこと。国民の八割から九割近くが農民だった江戸時代と異なり、今日では農民は全国民の0.3%に過ぎない。大地の実りを享受する第一次産業の仕事(3K)を嫌がる人ばかりで、周りは皆と同じ第三次産業のホワイトカラー志望か、第四次産業で製造業がサービス業に変身、平均化されて久しい。再出発にジャンルを選ばず、スタートアップに業種を選ばない、偏りを正し脱自するチャンス、果敢にチャレンジしてほしいところだが、実際は、理想とは裏腹に、第四次産業革命後はIoTが売り物だが、スマホを片手に路頭に迷う人ばかり。地の利便性(コンビニエンシー)を享受して譲らず、自動化に伴う自己破綻のリスクが一挙に増え、不幸な殺傷事件が度重なる今日、考えることを面倒がるともう先行きがない。考えるだけで実践しないと奥行きがない。心(ラテン語でアニマ)がフラットでは、アニメーションのネタにもならない。老若男女を問わない、敬い愛すればこそ、屈折し動転する心を捉えるホモサピエンスの基本技法は、ずばり「わたしは理解したい」(アーレント)との告白で始まること、理解心理学(ヤスパース)や理解社会学(マックス・ヴェーバー)が諸君に水先案内をしてくれよう。
6月22日更新

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)