2012年12月17日月曜日

「脱原発」にそっぽを向いた「民意」の不思議

衆議院選挙の結果が出ました。57294ですか。これほどまでに民主党が大敗し、これほどに自民党が大勝するとは、予想外でしたね。世論があれほど騒いだ「脱原発・卒原発」にそっぽ向をいた民意の不思議、「ふわふわ民意」の正体は、何だったのでしょうか。悲惨な福島原発事故など、国民はもう忘れてしまったのでしょうか?阿部さんの新政権では、原発の見直し評価が予想されたことであるのに。
上の空(うわのそら)、脱原発はふわふわの、民意秋波の揺り戻し(拙句)。
よりによって、これまで官民業一体の原発推進派であった自民党に、これほどの秋波が押し寄せようとは、消去法の選択だったとはいえ、天神様も雷神様もきっと腰を抜かしておられるに違いない。デフレ脱却・景気浮揚を願うあまりの、衝動買いにも似ています。やはり、政治的存在を動かしているのは、貨幣魔神のレビヤタン以外になかったと、言えるかもしれませんね。思わぬ疑似信奉者の出現に、ホッブス自身も迷惑顔で苦笑していることでしょう。
選挙の結果から判断すると、民主党が「公約を実現できないことへの失望だけでなく、党内対立にみられるガバナンス(統治)のなさが世論の離反を招いた」(81%)、それが主たる敗因です。鳩山・管時代の負の遺産を引きずったまま、離党・脱党の波を止めることのできなかった民主党の内部事情と、これにデフレで足かせ状態の経済と外交の諸要因が相まって、維新願望や自民党の政権復帰を期待する国民の思惑と一致した捩れの結果が、昨日の選挙結果に反映されているのでしょう。
加えて、脱原発を謳う政党の乱立で、国民は消去法で臨んだ。つまり、紛らわしいほど似通ったもの・同類項を整理し文字の一方を消去することで、違った路線を主張するものだけが後に残されたわけです。消去法は、連立方程式の解法として広く知られているので、皆様もご存じでしょう。出口調査で分かるように、国民は自民党の政策を評価したから(わずか7%)というわけでなく、阿部さんを首相に望んでそうしたわけでもありません。消去法で選択すると、それしか手許に残らなかった、というのが真相だったようです。
 すると、決断の政治をモットーに戦った野田首相は、さながらレビヤタン(官僚の主)に立ち向かう現代政治のヨブか、踊り場に出てきた石原慎太郎氏や阿部総裁は、まるでセルバンテスの『天路歴程』に登場する、仮想敵の風車に挑んだ騎士ドンキホーテのイメージを思わせもしますが、ヒーローはいないということになります。
反省点はないでしょうか?マニフェストを金科玉条のように振りかざすと、やおら公約違反の金縛りにあい、無用な言葉狩りに終始します。日本政治の弱点は、言語の限界です。マニフェストの文言は目標設定に過ぎません。言葉にして盛られて無かったことを真摯に受け止め学習する態度こそが大事、遜った政治家の真骨頂がそこに有るはずです。言葉と無に対する覚悟性を新たにして、政界の仕切り直しと国政の再編をしていただきたいと切に願うものです。
ここにきて黒子も赤恥雪だるま、で話を終わらせないために何が必要か、皆さんのご意見をお聞かせください(12月19日更新)。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights all reserved, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年12月13日木曜日

迷っている君に贈る、選びのヒントとチェックポイント

 衆議院選挙が目前に迫っています。どの党にすればいいか、誰を選んだらよいのか、何が選挙の争点なのか、わからず困っている君に、考えるヒントとして発問形式のチェックリストを以下のように作成してみました。ご参考になさってください(12月16日改訂版)。

1.候補者は選挙の争点を曖昧にしてはいないか。目下の争点は、民主党・自民党・公明党の三党合意で成立した「社会保障と税の一体改革」の扱いを今後どうするのか。具体的に、「決める政治」を継承できるのはどの党なのか、それについて国民の信を問うことです。もちろん、政権交代後三年間の民主党政治の評価に関わることは、言うまでもありません。ただ、マニフェスト作成時に見えていなかった点を真摯に反省し、官僚依存脱却や財源確保の失敗に学びつつ、マニフェストに盛られていなかった重要政策を敢えて取り上げ、妥協の末に法案成立を成し遂げた点をポジティブに受け止め「よくやった」と評価するのか、それともネガティブに公約違反と受け取り「けしからん」と批判するかは、君たちの判断に委ねられています。膨れ上がった赤字国債を抱いたままで、もしこれが成し遂げられなかったとしたら、経済大国としての国際的信用が失墜し、どんな末恐ろしい結果を招来していたか、併せて考えておく必要があるでしょう。
2.候補者は選挙の争点をすり替えてはいないか。候補者の関心からする恣意的な焦点の移動、たとえば、憲法改正や国防軍の設置など、意図的な刷り込み・紛らわしい誘導がないかどうか。受けのいい人柄や癖のある論調にはくれぐれもご用心。デフレにより先細りする日本経済の景気対策(38%)と年金・医療(23%)、震災からの復興(7%)、先鋭化する外交問題(4%)は、緊急の政治課題であることは間違いのない事実ですが、今ここで焦眉を争う選挙の争点ではありません。候補者の語る言葉に、はたして「存在の上限」が見据えられているかどうか、そこが問われています。
3.候補者は脱原発のスローガンを本気で考えているのか。腰を据えよく考え抜いて政策立案をしているのか。それとも選挙のために、党利党略のスローガンを掲げているだけなのか。具体的な代替エネルギー(7%)や電気代高騰への対策・工程表の提示も用意しないで、きれいごとを並べあげて手前勝手なことを言っているだけではないのか。脱原発で、ずばり「下限の無」への覚悟性が問われています。そこから、政治家が語る言葉の表裏、嘘を見抜く必要があります。

 就活や婚活世代の君たちが、政治的存在に関心を抱いて、自分たちの意思を政治社会に反映し、率直な意見を突き付けることから始めないと、明日の日本は暗いまま沈むほかない。誰を君たちが選ぶかで、その候補者の所属する党首が次の総理大臣になることを、しっかりと心に留めて、選挙に臨んでください。棄権してはだめですよ。自分のためです。

Shigfried Mayer (宮村重徳), copyrights all reserved, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年12月12日水曜日

時節因縁の大事なお知らせ

 クリスマスを一週間後に控えた16日は、大事な衆議院選挙日に当たります。わたし自身、本年度の4月より、三足の草鞋を履いて東奔西走する多忙な毎日を強いられてまいりました。そのために年末の行事日程が目白押しになっており、諸研究会は日程変更を余儀なくされました。次週予定のハイデガー研究会は、第5日曜日の1230日午後5時からに変更いたします。場所はいつもの北千住駅前東口にあるカフェ・サンロード、時節因縁の開花を待ったこの一年の総括をします。
理解社会学研究会のメンバーも、時間の許す限りお越しください。ハイデガー哲学と政治のスタンスを、ヴェーバー理解社会学との関連で解き明かしながら、わいわいと和やかに年を越すのも悪くない。選挙の結果がどうであれ、表層世界の喧騒を超えて、政治的「存在」を暗くしたり光らせ輝かせる何か、働くモノのエスが見えてくるかもしれません。どなたでも関心のある方はお越しください。初めての方、一同心より歓迎いたします。

Shigifried Mayer(宮村重徳), M. Anton Kolakovski, Steffi Clemens

2012年12月3日月曜日

マスクに黒子、ほくろの点移動について

【12月15日、更新版3】
先行き不透明な今回の衆議院総選挙について、田原総一郎氏がさりげない言葉で、意味深長なコメントをしている。
 「嘉田さんというピュアな人を看板にして、バックには一癖も二癖もある人たちが集まった格好だ。クリーンイメージの嘉田新党で彼らが黒子に徹することができるかどうか。嘉田さんはそうした新党をまとめ議席をどこまで伸ばすことができるか。不安は残る。」(日経BP Net Mail 12/03、田原総一郎の政財界「ここだけの話」:「 守りの民主、攻めの自民。クリーンイメージの嘉田新党は大丈夫か」)  //引用終わり

すでに前回のブログ(「失敗した政治主導の駆け込み寺」)で指摘しておいたように、混乱した政局の原因は、官僚依存脱却の失敗にあった。その反省に立って民主政権3年の評価に絡み、今回の選挙がある。今回の選挙戦の特徴は、政治と官僚の閾を横断するマージナルな争いとなっている点だ。
嘉田さんだけでない。石原さんも橋下さんも、被るマスクは政治家であり(前または現)知事である。知事は選挙で選ばれた特別職の地方公務員、国家試験に合格して各省庁に配属されたエリート官僚と異なることはもちろんだが、選挙で選ばれた国会議員や地方議員に比べると、公務員である限り官僚の一員である。知事は地方自治体を指導する立場にあり、地方官僚を代表してその職務を遂行する。働く場所が中央であれ地方であれ、官僚の位が上級であれ下級であれ、国家公務員には黒子に徹して国民のために自分を捨て、公共的職務(公務)を全うする責務がある。知事に国会議員との兼職が禁止されている点を除けば、責務はほぼ同じである。
それに対して政治家(国会議員と地方議員)は、黒子であるより政治の表舞台に立って陣頭指揮を執り、必要にして有効な政策を練り実現する緊急性の高い課題を背負っており、官僚依存は建前上もご法度か本音では保身腐心の隠れ蓑にされていることが多い。
日本未来の嘉田党首がいくらピュアなイメージのマスクをしていても、曲者ぞろいの政治家たちを同じ屋根の下に纏めきれるのか、それとも彼ら(小沢グループ)に逃れ場・隠れ家を提供することで、本音では頭角を現したい連中の勢いに飲み込まれるのか、今のところすべては未知数であり予断を許さない。政治家と官僚が旧来の依存し癒着した利害関係を改め、今が取り直し・仕切り直しの時であることを思えば、即断は禁物である。小沢さんが嫌われ阿部さんが好まれるのもマスクしだい、というのも困ったことだ。党首自ら黒子となって働くモノに徹するのは、いったいどちらだろうか。大衆受けする甘いマスク(ポピュリズム)に騙されてはなるまい。脱インフレを、戦争特需で解決できるといった期待を抱かせるのは、挑発的で危険極まりない。
ところで、「黒子」とは何だろうか。黒子はヘルパー、芝居の晴れ舞台で演じる主役を背後で支えるわき役である。「黒子」が表舞台に出ることはまずない。出たら本末転倒で、その時点でお芝居はお終い、映像画面はカットされる。「黒子」はフランス語でスフレーァ(Souffleur)、主演者が台詞(セリフ)を忘れないよう、背後でセリフづけの役割に徹するのみ。ドイツ語では ein schwarz-gekleideter Bühnenhelfer(ビューネンヘルファー、直訳で、黒装束のステージヘルパー)。某辞書にKastengeist(カステンガイスト、上流階級の「社会偏見」)とあるのは、ちょっと理解しがたい。これではまるで、語源がカースト(階級制度社会)の排他意識と直接関係があるかのようで、無用な誤解を生じる。
漢字の黒子には、そういった意味合いはない。三省堂の『全訳・漢字海』によれば、黒子は本来マスク(面)の「ほくろ」という意味、地図の上では「小さい土地」、太陽の黒点が例に挙げられている。転義的に「黒衣の人」、つまり黒衣を纏った仏僧の総称でもある。官僚であれ政治家であれ、自分(私心、党派的エゴ)を捨てて国民に仕える、それなりに「黒衣の人」であることに徹することができるかどうか、政治的「存在」の真意が問われる。そこが、仕切り直しの試金石となろう。師走の選挙では、脱原発が本心から出たものかどうか、党首のマスクをよく見破り、黒子たちの動向(=ほくろの点移動)をしっかりと座標に見極めたい。
話を本題に戻すと、黒子(省庁のエリート官僚)が利権を占有する構造に誰がメスを入れることができるのか。すでにドイツで実験済みの、脱原発を謳えば当然電気代の高騰が見込まれる、その結果国民の負担が増大する厳しい状況にどう対処するのか、立候補の説明責任が問われよう。デフレを脱却するにしても、クリーンなエネルギー政策を打ち出すにしても、基本は原資のエネルギ-(x)を商品のエルゴン(y)に変換する、一次関数(y = f (x))の知恵比べ、猿まねでない、ホモサピエンスのすることである。必ずどこかに、マージンを操作する隠しの切り札=切片(+b)のプラスアルファーがある。まずは、お手並み拝見と行こう。
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2012年11月29日木曜日

失敗した政治主導の『駆け込み寺』

【12月1日更版】
多党が乱立する今日の日本政治の状況は、「官僚依存からの脱却」を謳いながら失敗したか途上にある、民主党政治のツケなんでしょう。さすがのドジョウ政治でも、分厚い官僚制度の壁は未だ破れそうにない。そのような中で、第三勢力を狙う新党結成と再編の動きがあわただしい。地方行政の長(知事)までが中央政界の変革に手を出し挑戦する事態は、評価の良し悪しはともかく、それ自体新しい時代の幕開けなのかもしれません。ただわたしには、脱原発や卒原発を名目的に標榜することで、そこを失敗した政治主導の「駆け込み寺」にしたいか、行き場を失った小政党の受け皿も一時の隠れ蓑に過ぎないように思われます。政治の転換期に、耳目を引くスローガンを立て、一気に流れを作るのが、小沢一郎氏の好む選挙用の得意技ですからね。政治哲学の片鱗もない政策的な摺合せ(「諒解」)もない野合だから、国民を動かす運動にはならず、有効な得票を期待することは難しいでしょう。未来日本の党首の手腕は、全くの未知数ですし、首を挿げ替えても・・・、国民のだれが国政を任せる気になるのでしょうか、疑問です。
「政治的動物」(アリストテレス)を突き動かしているエス(刺激的情報)には、格別の注意が必要です。政治言論には選挙用の見せ掛けが多いから、マニフェストの謳い文句にはくれぐれもご用心ください。「政治的存在」の言行一致に目的合理性の信憑性が問われます。不思議なことに、どの政党にも官僚依存脱却失敗の反省がない。残念なことに、あってもまともな総括すら聞かれない。
混沌としたそのような時だからこそ、就活世代の君たちが積極的に選挙に参加して、自分たちの世代を盛り上げてほしい。明日の社会がどうなるのか、不安でいっぱいの暗夜行路ではあるけれども、キャスティングボードを握るのは、君たち以外にはいないのだから。啓蒙主義以来の「未成年状態」(カント)からの脱却は、官僚を含む政治的「存在」とは何かを、君たちが自分の大地に踏みとどまり、しっかりと考えることなしには不可能だということを、決して忘れないでほしい。ロードマップとなる模範解答はありません。暗夜を「手探り」で模索してください。快適なタッチパネルもありません。「素手・素足・素顔」で探してください(笑)。
それでは困る?考えるのは面倒で嫌?そこで最後に考えるヒントを一つ、暗部(ナチスとのタッチ)を嫌疑するあまり、存在を明るみに出すハイデガーの画期的な質問状(epochmachende Fragestellung)までゴミ箱に捨ててしまわないようにね。諄いようですが、ハイデガーとヴェーバーへの学びは、未来日本を考える人のための必須要件です。

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2012年11月12日月曜日

プライドは大事に、清く収めてこそ自分上手

【11月15日更新】
 自分のプライドを取り戻さないと、何も始まらないケースがまずあります。軽い気持ちからであっても、むやみに他人をからかったり、根も葉もないうわさを引き合いに出して、生きる誇りを傷つけたり奪ったりすることは許しがたいことです。その反面、プライド(気位)が高いばかりに、たいていは自分のプライド(面子)が許さないことに起因して、失敗する人のケースが意外と政治家(とその取り巻き連中)、知識人や文筆家に多いですね。
 プライド(誇り)って、シェーム(恥)の対概念かその裏返しでしょう。自分の名誉にかかわることで、通常は自尊心(Stolz, Selbstgefühl)のことを指しています。なぜか日本のメディアだけが大騒ぎしていて、欧米諸国ではあまり話題にならない、のが気になります。「この糞ったれ、恥を知れ!」(Scheiße, schäm dich!)という言葉を日常的に使うことはありますけどね(笑)。政治的討議の場ではまずありえない。政治討論の放映には誠意と気迫と品位があって、留学先のドイツで生放送を毎日聞いていて楽しかった記憶が今でも鮮明にあります。井戸の中の蛙では仕方がない。諸君には海外留学をお勧めしたい。
 さて、日本の政治社会の言論界はどうかというと、相変わらずのプライドとシェームが入り乱れた泥仕合の様相を呈しています。本質的な議論は棚上げされたまま、誰かをこき下ろすか血祭りにででもあげないと収まらないか気が済まない。でしょう?朝夕の紙面をにぎわすのは、相手の人格を誹謗する文言の応酬ばかりで、もううんざりですよね。違いますか?
 対面上プライドは大事ですが、角が立つようなら清く収める・掃き捨ててこそ、空の間合いで魅せるコミュニケーション技法も上手になれる、と日ごろからわたしは思っておりますので、生活世界を平常底で生きるための自分の隠しモットーにしています。
 みなさんはどうでしょうか、恥と名誉の泥仕合を収束させるためにはどうしたらいいのか、みなさんの率直なご意見を伺わせてください。グローバル社会を生きようとすれば、日本は「恥の文化」だから仕方がないと、言い捨てにして話を終わらせない、生きたコミュニケーションの工夫、思い切ったコモンセンスの刷新が必要です。では、どんな?

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2012年10月27日土曜日

エスを考える力に、マテリアをヒトの器に象るには

【2013年2月04日(月)更新】
 コンピューター技術の進展には、目を見張るものがありますね。私自身は、1986年頃に三洋電気のワープロ(サンワード)を、その後同社のAXパソコンを買ったことに始まり、歴史は長いです。、当時はまだ Windows 2.0の世界でしたが、IBM DOS 5.0 を経てその後Windows 3.1からOS/2 まで自在に使いこなしていたので、そうとうのヲタクでしたね(笑)。 それでもコンピューター関連の技師やプログラマーにならなかったのは、私がそれを常に考える道具としてのみ扱かっていたからです。マルチリンガルな文書を作成するにはどういうプログラミングが必要かを理解しつつ、試行錯誤で自作したプログラムやマシーンは数え切れません。
 当時面白いプログラムがあって、Who ist God?(「神様ってだ~れ?」)と言うんだけど、アイコンをたたくとね、マイクロソフトのビル・ゲイツの顔が表示されたので、驚いた記憶があります。今日では、アップルのジョッブズさんの顔になるでしょうかね。
 前回のブログの続きを書くと、便利なスマートフォンやアイフォンを使うとしても、考える余裕を如何にして残すか、私の関心はそこにあります。邪魔なら捨てる、それが私の信条です。タッチパネルでなくても、電話やメールでの連絡は従来の携帯電話機器で十分だから、まだ買ってまで使う気にはならない。それでも、電子書籍関連のタブレット(キンドルやネクスス7)には強い関心があってね、近日中に発注したいと思っています。もちろん、それには目的があってのこと、古典や近現代の貴重なテクスト資料をPDF化し、いつでもどこでも読める機会を手にしたいということ。更に、それを使い考えた結果を公共の善に役立てないと、これまた意味がない。
 何を買い求め使うにしても、プライベートな趣味で終わらせず、「それ」を考える道具としマテリアを「載道の器」に象る工夫が必要だと考えています。君たちも買ったらいい。ただ、使う目的意識を大事にしはっきりさせておかないと、便利さあまりにその内考えることさえ面倒だと思う、考える要件を必要としなくなる恐れも避けがたいので、衝動買いをしないようにね。気が付いた手足がなくなって、ららんらんと光る眼球だけしかない、鬼太郎の親父さんのようにならぬよう(笑)、くれぐれも注意してくださいよ。
 「それを考える道具に」と言ったけど、「それ」は内外に働くモノのエスのことです。では、ここで問題です。(衝動を含む)エスを考える力にする、マテリアをヒトの器に象る工夫ってあるのかな?あるとすれば、どうやって?さぁどうぞ、全身を耳にしてお伺いします。

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2012年10月22日月曜日

見ずの勇気と識らずの自由、工房二周年の挑戦

 【改訂版、12月13日(木)更新】
 スマートフォンにアイフォン、便利なツールが出回って、使わないのはもったいない?そうですよね。文明の利器だから。ただ、便利なツールは考える余地を奪うから、注意した方がいい。これをすぐ使わないで、一世代古い機種で済ますことも選択肢の一つですね。工房二周年に当たり、今一度「見ずの勇気と識らずの自由」について考えみましょう。見ず識らずの立場は、すべて自分に考える余地を残す・捻り出すための工夫です。
 いったん画像で見てしまうと、想像力が衰え構想力が萎えてしまうのも事実で、実に困ったもの。後は影絵で踊らされてしまう、グローバル世界の暗部です。情報は理解し自ら体得(=咀嚼し味わうことを)しないと、それ自体刺激物のように脳内に溜まり、不安やストレスの原因となります。完全に目を閉じると妄想が立ち込めるから、半目でいい。見ない自由という選択肢もあることを、いちどよく考えてみてください。見ないで考える力を働かせる、そうすることで、君たちの希薄な存在感が充実する縁(シャンス)を得ることになるはずです。語りえぬものへの注意力にしても然り、禅問答にある「繋驢けつ(木編の蕨)」(けろけつ、自由を望んでもがけばもがくほど、繋ぐ杭が驢馬を縛りつける喩え)にならぬよう用心するには、言わず・見ざる・聞かざるの、三つの工夫が意外と役に立つかもしれないね。違うかな?(笑)、君たちはどう思う?使うツールに溺れないための工夫について何が必要か、新世代の禁欲主義への意見、「見ず識らず」への異論・反論を大歓迎!

余話: 
 昨夜のハイデガー勉強会でね、偶々ダルマが武帝と問答する事件が話題となったんです。実は原書の碧巌録では「不識」と書いてあるだけで、主語の「吾・我」がないので、ドイツ語訳の Ich weiß es nicht.は怪しいですね。むしろ、Das ist (mir) unbekannt. とした方が読み方としては素直でしょうか。ただ、「朕(わし)に立ち向かうお前は何者ぞ」と武帝が言ってるところからすると、ここは口語的に主語なしで「識らず」(Weiß nicht) でもいいかな。
 今回のブログを書くきっかけとなったのは、その時のやり取りでした。「如何なるかこれ聖諦第一義」とは大義名分、数多くの仏教寺院建立に寄与した自分の功績が如何ほどかと密かに尋ねる武帝に対して、ダルマは「不識」(知らず)とまったく取り合わない。そればかりか、「廓然無聖」(かくねんむしょう、からりとした虚空同然、聖など何も無いわ)とはねつける。編纂者の雪ちょう重顕が武帝の言葉について、先ほどの「なんという「繋驢けつ(木編の蕨)」(けろけつ)ぞ」、言句(言葉の定義)に囚われご不自由ですなとコメントを差し挟んでいるところが痛快ですね。

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2012年9月27日木曜日

はてなの政治、みんなやらせのパワーゲーム?

Wie das politische Wesen in der weltweiten Machtspielerei aussieht
[10月1日(月)更新]
最近の竹島や尖閣諸島を巡りエスカレートするばかりの領有権の争いには、日本人の我々に理解できないことが多い。国内では曖昧で怪しげな政治言論(「近いうちに」)が徘徊する一方、国外ではやらせのパワーゲームが流行っているということなのか、はてなばかりで疲れる毎日、息つく暇がもらえそうにない。
嘘でも言い続けていると、パフォーマンスにはそれなりの実体が残る。日本の政治家は真理論争を受け付けないか忌み嫌う、名誉をかけた権力闘争のなれの果てか、駆け引きの言葉ばかりが聴かれる。領土に絡む戦争まがいのニュースに、つい背筋が寒くなる。遠い神話世界の話ではない、これは現にマスクしたヒト(政治屋とジャーナリストたち)が仕組み暗躍する、身近な現実世界の怖い話である。刺激的な味がないと大衆は言葉を食べてくれない。つまり、触手を伸ばすニュースとはならないのだ。
政治は決め技でするパワーゲームの世界、相手に根負けしない勝負師の言語感性が必要とされるから、勘所を弁えたパンチのある言葉でないと通じない(交渉に役立たない)が、なるほどと思わせる根拠(存在諒解の説得性)がないと諸国民の信頼と共鳴を得ることができない。それが野田さんにはあって、谷垣さんになかったと言っているのではない。阿部さんには期待できそうにない(私見、失礼ならお詫びする)。
国際政治がパワーゲームを展開するのは、狙いがあってのことだろう。たとえば、有利な条件で交渉に臨みたいという狙い。しかし、尖閣諸島は清国の領土であったことは一度もない、列記とした琉球王国(今日の沖縄)の領土であった歴史事実を忘れてはならない。それにしても、自国の領土主権について中国をしてそれほどまでに執拗に語らせるモノは、権力闘争の名目でない限り、ずばり金目となる資源確保の其れではないのか、と疑われる。覇権主義であれば尚更のこと、マルクスや毛沢東ともまったく無縁であろう。忍び寄る構造不況化への中国指導者たちの危機感を反映しているのであれば、民衆の不安・不満を逸らす為の政策的パフォーマンスに過ぎないようにも見える。
そうであれば話は早い。飛鳥の仏法やイスラム法、ゲルマン法やローマ法の違いはあれ、国際法に乗っ取った論争、グローバル時代の「諒解関係」を構築するに、民族的利害関心の垣根を越えて、規範と慣習を無から統合する法(ダルマ)の理解を深め、新たに経験妥当な道(タオ、公共的善を共有可能とするポイント)を理解社会学的に模索すること、面倒でもそれしかないように見える。他にあれば、異論また反論に喜んで傾聴したい。
共産主義が資本主義の技法を奪取して変質した今日的グローバル世界の政治状況は、一筋縄にはいかない。理解しようにも、あまりに複雑怪奇である。ヴェーバーのように、資本主義の精神を培ったプロテスタントの倫理とカルヴァンの法理解だけで判断できない、合理的判断の西洋的尺度と従来の社会常識(規範と慣習の摺合せ)が、そのままではもはや通用しないから。視界不良の国内と国際政治に今何が必要なのか、政治的存在の諒解可能性についてじっくりと再考すべき時であろう。領海の暗夜行路に羅針盤を探そうとすれば、見えざる法の解釈学が要請されよう。

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2012年9月4日火曜日

「別様に考える」工夫、存在と場所移動について


Ein willkommener Anlaß, anders zu denken  
[9月7日(金)更新]
昨日今日のスコールは、酷暑に別れを告げ秋の訪れを知らせるサインでしょうか。半ば壊れて送風しか機能しない旧式エアコンで、熱中症にもならずよくぞここまで来れたな~とため息をつく間もなく、なけなしの財布をはたいて新しいエアコンに付け替えた途端の急激な気象変動に、嬉しくもあり(ちぐはぐさ故の)嘆きもあり、波間に浮沈する木の葉のごとき心境でお過ごしの方々も、他に少なくないのではないでしょうか。
さて、前回通知いたしましたハイデガー勉強会(公開講座)の場所を、大学のある松原団地から都心に近い北千住に変更することにしました。JR北千住駅東口のすぐ目の前にあるカフェー・サンローゼ(Café Sunrose)にて、第三日曜日(916日、1021)の夕方7時に開催いたします。ハイデガーに関心をお持ちの方・有志ある参加者をお待ち申し上げます。東西世界でなぜ「別様に考える」工夫が必要なのか、時間の許す限り原書を読破し、存在と無の分水嶺にまで分け入って、徹底討論いたしましょう。
追記:ヴェーバー研究会は、これまで通り三郷の理解社会学研究所にて開きます。

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2012年8月26日日曜日

ヴェーバーとハイデガー、補助線を引いてみると

[8月28日(火)更新]
 なぜヴェーバーとハイデガーなのか、二者の繋がりが諸君には不思議かさもなければ不可解ですか?ヴェーバー社会学とハイデガー哲学は、決して無縁ではないのです。フッサールとシェーラーを(後にはサルトルをも)厳しく批判する中で、ハイデガーはむしろ意外にヴェーバーと近いところに立っている。それが私の発見であり実感です。理解と行為という、二つの基礎カテゴリーについて、ここで長々と論うことはしません(詳細は、学会発表でのお楽しみ)。自分を知るも悟るも主観的意味の真理探究、いずれも理解のカテゴリーです。それは見性体験や客観妥当な経験の後付け(ゲマインシャフト行為の要件)を必要とします。二人の繋がりは、補助線を引いてみて初めて分かったこと、「私」で有るところの、それ(エス)を係数とする身体現象学の秘密です。
 今振り返ると、意外なところに接点があった。何度も言ったことで諄いようですが、そのヒントは大島淑子先生の『禅‐別様に考える?ハイデガーと禅についての試論』にあったことが分かります。ハイデガー勉強会(公開講座)で何度も読み返し、当時の講演メモをチェックする内に、そうだったんだと改めて感慨深く思い出しています。迫る「縁」(Bedingt-Entstehen)はこれを拒まず、感謝しつつ受け止めたいものです。

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2012年8月9日木曜日

君も名を上げたいの?無名に徹するのは嫌?

【8月10日更新】
 オリンピック選手たちのように、君も名を上げたいの?頑張る自分にご褒美を上げたい?いいでしょう。だれであれ、働いて報われないと嫌だものね。でも、有名病につける即効薬はないからね。撒いた種が芽を出し、花を咲かせ実るまで、待つことが必要でしょう。有名無実に陥って苦しむよりは、しばし有名へのこだわりを捨て、言わば働くモノに徹する、あえて無名(アノニマス)で有るに徹するといい。すると、就職活動で苦しむ君にも、やがて青天霹靂の峠道が目の前に開けるはず。予期しない職場から呼び出され、仕事の縁に恵まれるかどうかは、生成する「存在と時間」の秘密です。待てない自分に負けないこと!

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2012年7月13日金曜日

原点に戻ってハイデガーの勉強会(公開講座)

[9月30日更新]
 五月のプラハ講演の後いろいろと考えた末に、十年来の研究活動の発端となった原点に立ち返り、本腰でハイデガーの勉強会(公開講座)を立ち上げることにしました。フッサールやシェーラーと対峙する中で培われた初期ハイデガーの作品を一から読み直し、「公共的存在」の義を質したいと存じます。それは不安のあまりマスクして生きる非本来的?実存の仕様、匿名のヒトで有ること(Das-Man-ist)の意味解明につながることです。フッサールやシューラーに対するハイデガーの批判には屈折した思いがあるとしても、解明には心理学的でなく理解社会学的な分析手順を踏みます。関心のある諸君の積極的な参加を募ります。
 初回から数回は、大島淑子先生の『禅‐別様に考える?』(Zen - anders denken? Zugleich ein Versuch über Heidegger und Zen)を原書のドイツ語で読み合わせながら、本題に入ります。
  第三日曜日の午後7時より、場所は休日で公民館が使えないので、さしあたり東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)松原団地駅前のカフェーブルボン(駅の東口から直進して50m先左)にします。参加費無料です。おいしいフランス?コーヒーはプレゼント(初回は7月15日、第二回は8月19日...)

追記:第三回以降は、場所が北千住に変更されました。詳細は、左の欄にある Events a la cartes(各種イベント)でご参照ください。

Shigfried Mayer

2012年7月10日火曜日

真にアノニマス(匿名者)であることの権利と法意識

Über das wahre Recht, anonymous zu sein 
[7月13日(金)更新] 
 アノニマスとは、匿名で勝手なことを言い放題で、根拠のはっきりしない情報(暴露文書)をネットに書き込み垂れ流す、無責任な困ったヒトたちという悪い印象があるようですが、そういった評判は表面的で本来の義を逸しています。真にアノニマスで有るということは、古来探し求められた自由人の境地、名前を伏せる・自分を隠す仕方で疑義を申し立てる。何を疑い抗議するにしても、「法」を無視しては成り立ちません。敢えてアノニーム(無名、名無し)で有ることを自らに欲するのは、形無き法(ダルマ)に学び公共的善に仕える目的で為されること、官僚依存を批判するにしても名を捨て実を取るにしても、己を無とし「載道の器」として生きる覚悟(公共的正義、諒解されてある存在への注視)が必要です。それは、心身ともにあらゆる囚われから解き放たれた人だけに許されること、真実を知る権利と情報操作に対する発言権・抵抗権を、名を捨て自己責任に於いて遂行することですね。これを言い換えると、自由で有ることの(不可能な可能性に係わるのだという)「諒解」に基づくゲマインシャフト行為です。未だそうでないのにも拘わらず、自由人として期待され予期されること(他者の反応)に準拠して振舞う際に、妥当な蓋然性が有ることの認識が共有されています。
 それは両サイドで、常に悪用される危険性を孕んでいます。名を伏せてする社会的自己の発信行為は、情報源を操作し法制度を盾にする立場に対しては非力だから、テロリズムのように暴走しがちです。公共的存在の権利、「公権」とは何か、今後ブログでは理解社会学的に論じ明らかにしていきたい。
 真にアノニマスで有ることは、不法なダウンロードが規制されることに反感を抱いてしきりとネット攻撃を仕掛ける、気に食わないからウイルスを送りつけて揺さぶる、そういった愉快犯的な単独の無法行為や怪しげな国家的組織犯罪とはおよそ無縁(のはず)です。やはり、発信者が自ら名乗らない限り、実のところ線引きは難しいですね。ハッカーがクラッカーではないように、真にアノニマスで有ることは預言者的「自己否定」の極みですから、自由人で有る「かのように」見せる見事なマスクと、「諒解関係」に基づく経験妥当な生の技法が必要となるでしょう。公共的善はもちろんのこと、アノニマスで有ることの権利を保障する法への意識を高め、発言の「正当性」を内外に明らかにしないと、だれも納得してくれません。共鳴を得るには、魅せる何かが必要です。
これはあくまで私見です。反論があれば傾聴します。どうぞ…

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年6月15日金曜日

必要とされる誇り、必要とされない悲しみを越えて

Über die trübselige Lage der notwendigen hinaus!
[6月16日(土)更新]
 目下の仕事がない(希望する職場が見つからない)ことが、直ちに生きる意味がないことになるのでしょうか?就職先が決まると自分が社会に「必要とされている」と感じる、就職活動(Stellenjagt)がうまくいかない、一度や二度の就活失敗で、自分は「必要とされてない」んだと感じ(思い込み)、「必要とされる誇りを失う」。その場合の誇りって、なんでしょうね。面目が立たない?恥ずかしい?だから、死んだほうがましだ・楽だとつい思ってしまうのはシンプリズム(短絡)だとしても、それは(基本的人権の要件である)働く「人の尊厳」(Menschenwürde)にかかわること、他人事のように軽々しくは扱えません(カントの『道徳形而上学原論』は必読)。
 そこで、「必要とされる」とは何か、考えてみましょう。必要性は経営上の必然性(Notwendigkeit)の話ですから、さしあたり即戦力としての能力が問われます。個々人の可能性(Möglichkeit)については参照される程度で、話題にはなっても決め手とはなりません。あくまで道具として会社に必要とされるのであって、君自身の人格性が目的として取り扱われることは、残念ながらほとんどありませんね。
 さしあたりの、実践的なアドバイスを三つ。第一に、リーマンショック以来の金融不安に揺れる複雑性(complexity)の世界事情を見極めること。求人にも社会的ニーズというものがあって、それに君自身が応えられる要件を満たしているかいないか、しっかりと自己吟味すること。第二に、検索の条件を変えてみること。例えば、皆が殺到する第三次産業(サービス業)に拘っていないかどうか、希望職種や都市部への拘りを捨てて全国津々浦々を見渡せば、意外と見つかる可能性はあります。その為には、探し当てるまであきらめないことと待つこと(希望の哲学)を同時に学ぶ必要もあるでしょう。第三に、どうしても見つからなければ、大学に残って勉学を続けてもいい(四年で卒業する必要はありません)。或いはいっそのこと、志をひとつにできる友を探し出して、思い切って「起業する」こと(entreprendre, unternehmen)をお勧めします。必要性云々より、自分の可能性を信じて起業することには、その点で重要な意味があります。
 人生はチャレンジ(Herausforderung)です。多くの先人たち(君たちの親の世代)は、戦後の廃墟の中から仕事を立ち上げ、無から始めることができたのです。君たちにできないわけがない、そうでしょう?少し楽な生き方に慣れ親しみすぎて、多少の苦労は避けがたいでしょうが、また石ころや茨や雑草に覆われてすぐには見えないとしても、君が目指す峠への「道」は確かに有るのです。命を粗末に扱うことだけは止めましょう。明日の世界が君(の可能性)を期待し必要としている、君はなくてならない人だから・・・ 

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年5月29日火曜日

内憂外患の友に、何をそんなに急いで終わらせたいの?

Über den beeilten Selbstmord, oder die Kunst, mit dem Nichts anzufangen.
【6月5日(火)更新、改題】
 寄せては返す波の飛沫(時は命の働き)浴びるのを内に感じながら、色めき立ち其処に突っ立った侭でどうするの?波に攫われまいと足踏ん張って、帰らぬ人となったあの子の分まで生きなくちゃと、自然の疾風怒濤に逆らって一人息巻いてどうするの?人類(ヒト)が憎いから自然(モノ)は天災地変を起こすわけでないことを承知しているのに、(権力とカネに物言わせ)突っ張り合ってどうするの?力任せでは到底自然の勢いに勝てない、闇勢力に力で叶わないと分かっているのに、壁に頭をぶつけてどうするの?就職難の今がヒトとして生きる「道」の初めに過ぎないのに、「待つ」ことをしないでどうするの?自分の壁となって働くモノとどう向き合うか、内憂外患で八方塞がりに見える今が、「無で始める」生の技法を学ぶまたとないシャンスなのに、何をそんなに急いで終わらせたいの?…
 「無で始める」禅の話が難しい?なら、この工房で一緒に茶を啜りながら、安心して壁観するダルマを尋ね、平常底で自分と向き合う仕方を学んでみませんか。目線を変え、「神もしくは自然」(スピノザ)について語り合うのもいい。君の捜し物が何か知りたいな。自分の捜し物が分からないか、探しても見つからなかったのなら、その時の挫折感或いは失敗談を聞かせて欲しいな。ブログで公開されるのが嫌なら、別途にメールにてお伺いしてもいい。自ら語る(告白する)ことで、大抵は癒されるか解決します。ただ社会学的には、自分とは内外のゲマインシャフト(共同体)を意識したスタンスなので、歯切れのいい人格理論とは異なり、一筋縄ではいきませんが...だって仮初めにも、苦渋の自他関係(負の連鎖)を終わらせるのが君の目的であって、決して生命の営みそれ自体を絶つことではないはず、でしょう?一度は自殺を考えてことがある諸君の、率直な意見を聞きたい。


Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku Tokyo

2012年5月14日月曜日

重要なお知らせ

Wichtige Nachrichten
  ヨーロッパでの講演旅行のため、しばらくお休みいたします。当理解社会学研究所のブログ閲覧および書き込みはご自由にどうぞ。
次回のブログ主題として、就職活動失敗に端を発する青年たちの「自殺」の問題を取り上げる予定です。その準備を兼ねて、同世代人である諸君の気持を伺っておきたい。死ぬほど辛い・死ぬほうがましだと君たちが思っている、或いは一度は思ったことがあるとすれば、その理由を述べてください。返答は十日後を予定。

Shigfried Mayer

2012年5月1日火曜日

新型うつ(鬱)の社会原因、苛立つ自分の曖昧さ

Wie mit der Melancholie umzugehen ist, in bezug auf ihre soziale Ursachen
【5月4日(金)更新】
 うつ(鬱)は心の病で、精神活動が極度の不調に陥った状態を指しています、英語やドイツ語でメランコリーと言うので、誰でも一度は聞いたことはあるでしょう。精神医学では「気分障害」と言い、統合失調症に並ぶ二大疾患の一つですね。気分が高揚すると躁(そう)に、落ち込むと鬱(うつ)になり、山あり谷ありの両極を上下し繰り返す特徴があります。何らかの原因で寂しい・悲しい・虚しい・罪責観に苛まれるなどの気分から、勉学や仕事へのやる気が起きない・集中できない・物事に関心が持てない・感動できないなどの意欲の低下を引き起こしています。一般に、どちらも原因と発祥のメカニズムははっきりとしないとされていますが、恐らく心身のアンバランスから生じることで、疲れやすい・食欲が低下する・眠れないなどの身体面での不調と深く関わっているのではないかと思われます。心理学的な説明は芳賀さんにお任せして、ここではその社会的原因について考えてみたい。
 最近のニュースで話題となっている「新型うつ」は、なるほど症状面ではよく似ていますが、社会原因がややはっきりしているので、同じレベルで片付けることは出来ないと思われます。なぜなら、今の若い世代は昔の人のように責任感の重圧から強いストレスを感じてうつに陥っているのではないからです。社会に適応できない(自分の性や職場にミスマッチである)のも、一種の性格の弱さ(未定義の自己)から生じており、苛立つ自分というものが曖昧であるために陥っている状態、つまり苛々して切れやすいのも、相変わらず後見人に依存した自らの「未成年状態」(カント)と深い関わりがあるのではないでしょうか。
 だから、たとえそう見えるとしても、「自己中心的」という批判は当たりません。むしろシェーラーの言葉でいうと、内奥的人格(Intime Person)も社会的人格(Sozial-Person)も曖昧で未発達なために、未だに自分を探しあぐねている、苛々の原因は其処に始まっている、ということではないかと思われます。その背景には、「ゆとり教育」政策や「新学力観」の影響から、自分で仕事をやり抜く経験の欠乏や自己肯定感の低さと関係してもいるでしょうし、対人関係のスキルの無さや自他の失敗から学べないというのも、学べるはずの場所を奪われたか見失っている、早々に放棄しているせいでしょう。具体的には、親子関係の希薄化や核家族化(家庭崩壊即自己環境の破壊)に起因すると言えます。大学では、個別の問題解決を助けつつ自立の意識を高め、会社では個々に見合った仕事造りを助けつつ、忍耐強く丁寧に職場教育をしていく必要がありそうです。
 理解社会学の工房でも、本腰を入れて、「家族社会学」を展開する必要がありそうですね。準備が出来るまで、今しばらくお待ちください。さしあてりここでは、諸君の率直な意見を聞くことから始めたい。

Shigfried.Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年4月3日火曜日

体験と経験の栞、情報社会に埋没しない為に

Erlebnis und Erfahrung, ein Lesezeichen, in der informativen Welt zu ueberleben
 体験の裏付けがないと、過剰な情報は不安やノイローゼの原因となります。では、体験がないと情報は伝達できないかというと、そうでもなさそうです。生活世界の身近な現象から追体験(Nacherlebnis)が可能だからです。それは、経験知としても学習可能です。知識社会学の引き出しに入れておけばいい。必要なときに取り出して、参照することができます。では、体験と経験の違いが何かというと、体験は見て知ること(videre)、経験は聞いて知ること(audire)ですね。いずれであれ、物事の本質或いは要件(res)を掴む技法に、アクセスの違いがあるということ。ヴェーバーが言うように、シーザーを学ぶにシーザーになる必要はない。そうでないと、社会学や歴史学は探求できません。私たち日本人は書いて見て覚えることが多く、その反面聞いて覚えることが不得手なので、外国語の学習に困難を覚えたり科学的経験知に後れを取ったりします。記憶の栞を付けて寝かせておけば、必要な情報は時が来れば自ずと根を出し、不要な情報は腐り果てることでしょう。風評に惑わされず、経験妥当な説得性でコミュニケートするには、時々自分の記憶の引き出しを整理したり、ゴミ情報はきれいさっぱりと掃除する必要がありますね。文明人は捨てる?で語弊があれば、見るモノを少し抑制する(自己節制)だけで安心が得られる、情報カオスの世界を泳ぎ抜く、新禁欲主義のお勧めです。理解し考える力は、自ずと芽生えてきます。

Shigfried.Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年3月15日木曜日

自然は無差別、人間(社会)は差別的、なぜなの?

Die Natur wirkt ohne Diffrenzen, der Mensch macht sich  Diffrenzen, warum?
 2011311日から一年を経た今日、至る所で一周年記念のお話が聞かれます。何を記念とすると言うのでしょうか、不可解千万です。一周年記念の教訓的話など、聞くのはもううんざりです。自然学に対して、人間は形而上学を企ててきました。それも字義通り、超自然学(Metaphysik)をね。果たして、本当に自然の働きを越え出ているのか、疑わしい限りです。
現に私たちは見たではありませんか、家族の絆や人間関係が根こそぎ断ち切られ、仕事場も家屋も名誉も財産も瞬時の内に剥奪された挙げ句の果てに、一切が無に帰せられた、高ぶる波と原発によるあの壊滅的な出来事を。人間の叡智を誇ったスーパー堤防は全く何の役にも立たなかった。その衝撃的な事件を目の当たりにして、いったい私たちは何を語ることが出来るというのでしょうか。お寺も神社も教会も無差別に、津波に根こそぎ流されました。自然って何だろう、自然の働きに対して人間が主張する自由って何だろうと、真剣に考えさせられる一年でした。名ばかりの自由化と自由人の不在という不思議は、今に始まったことではありません。自由とは、社会の抑圧や縛りに対してそれからの自由ということであって、自然からの自由ではなかったはずです。自然の恩恵に与りながら、我が身を不利に陥れる働きの方だけは容認しないとは、人間の自己意識って我が儘ですね。そう思いませんか?神も仏もあるものかと疑い、呆然と立ち竦んでいる諸君の正直な気持ち・意見をお聞きしたい。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年2月28日火曜日

自由なのに苦しむわけは?(ヘルプ・デスク)

Wieso leidest du, trotz der Freiheit? (Helpdesk) 
 地震や津波のような自然災害は別として、日本は自由が保証された平和な国です。今では、昔と違ってお家のため・お国のためにといった大義名分で、犠牲を強いられることは一切ありませんね。何処で学ぼうとどの様な職場で働こうと、神を信じようと信じまいと、すべてが諸君の自由であり、自分の選択意志に任されています。それなのに、まるで自由がないかのように、就職難で苦しむのはなぜでしょうか。考えてみましょう。
 仕事が見つからない諸君に問いたい。何をしたいの?何を目指しているの?自分の人生の目標が定まらないと、不要なものに足を引きづられ泥沼に足を取られるのは必然。目標は在るものではなく造るもの、差し当たりこれぞと思うものもマークして、尋ね求めてご覧なさい。あれこれと物色するのもいいでしょうが、決めるときは決める!なかなか決まらない人は、ベターな方に賭けてみるのです。ゲーテの言葉に、「制約することの中で、マイスターは立ち現れる。法が、法だけが君たちに自由を与える」と。法というのは、社会の約束事です。卒論のテーマが決まらず迷っていたときに、留学先の指導教授から耳にタコができるほどこの言葉を聴かされた記憶があります。
 これは卒論のテーマに限った話ではありません。就職先の選択に悩むときにも、就職後の困難を乗り切るときにも必要となります。何故かというと、目的意識がはっきりした人ほど、社会や会社は評価してくれるからです。ヴェーバーが言うとおり、人間のする行為の中で、目的合理性に基づく行為が一番明証的だからです。目標がはっきりすれば、余計なものは自然と剥げ落ちるでしょう。いわゆる節約志向もその類で、あらゆる経済活動も余計なものを捨てて、自分にとって「無くてならない只一つのもの」を追求することになります。みんなと同じスマホなくったって、ほら十分生きていけるでしょう(笑)。
 それでも決まらない諸君に言いたい。最後に残るは人の尊厳に係わること、自分のプライドや名誉を捨てて、物を摑む手と歩く足が在れば十分なので、とにかく定収入が見込める就職先を決めることです。非正規の派遣労働だけは止めた方がいい。後で苦しみます。電子技術は盗まれるものですが、生きる技法・美学的技巧は盗んでも使いようがない、真似が出来ないのです。真似が出来ないのが人生の美学的センス、仕事に就いたら、君でしかできない結果を出してはっとさせ、なるほどと思わせるだけでいい。結果は後から付いてきます。
 それでもうまくいかない君へ、最後の一言。自分の壁となって働くモノから目を離さず、しっかりと見つめこれと対峙しなさい。壁となって立ちはだかるモノこそ、差し当たり君自身の明日(不可能な扉)を開く可能性(チャンス)だからです。七転び八起きのダルマの精神で、自分のチャンスを見逃さない、鷲づかみに摑んでください。九回失敗してもいい、形振り構わず十度目に受かればいい。自分の失敗から学ぶ気持ちさえあれば、怖いものなど何一つ有りません。壁っていうのはね不思議ですね、面と向かってると心が落ち着く、意外と安心するんですよね。

Shigfried Mayer, opyright all reserved 2012, 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年2月14日火曜日

忘れられた栞:『自己のテクノロジー』、フーコー回想録

Vergessene "Technologie des Selbst", Lesezeichen aus dem Foucaults Seminar
【2月16日(木)更新】
  フーコーセミナーの記録、『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫)は、8年前(2004年)に買って読んだ記憶がありますが、いつの時代であれトラウマ(悪夢)のように、壁となって立ちはだかる「自己」なるモノへの係わり方・迫り方を教える点で、実に刺激的な書物ですね。二流・三流の参考書などゴミ箱に投げ捨てて、このようなリソース(生の討議資料)を熟読することが望ましい。ほら、憎まれ口を叩かれたあのフロイトが、生き生きと語り始めます。それでも、フーコーを読むくらいなら、むしろフロイトを読んで欲しい。意識上(表層)の葛藤は、大抵は無意識(深層)の中に原因となるヒントがあります。またデカルトを論じる余裕があったら、ぜひスピノザを論じて欲しい。気張らず自然体で自分と向き合えるようになります。私は最近、心理主義の立場で物を考えない、現象学的社会学や理解社会学に関心があるので、フロイトやフーコーの書物は長い間放置され、本棚の片隅にほこりを被っていました(笑)。
 久しぶりに手にとって再読してみると、フーコーが4世紀のシリア・パレスティナ修道会の瞑想法を参照している箇所に、自分の赤ペンが入っていることに気づき、懐かしい思いで一杯になりました。これを読む切っ掛けになったのは、講演の冒頭でも分かるように、禁欲主義に関するフーコーのヴェーバー解釈になっていたからです。これが後に、史的ダルマ論への一傍証を提供することになります。でもね、もて囃される刺激的なフーコーのそれより、学生諸君にはフロイトの古典『精神分析入門』の方をお薦めします。
 古典は原石です。古典の源流に遡れば遡るほど、忘れられた原風景がよりいっそう鮮やかに見えてくるでしょう。見た目に煌びやかな宝玉を都会に探し回るより、無意識の荒野を散策して原石を見つけ、鈍い原石の輝きを自分の目で味わうことが大事です。(スマートフォンに代表される)便利さを掃き捨てて、人より少し不便を感じるくらいの立場に身を置かないと、真理探究のハングリー精神は生じません。
 ひとたび自分史の分水嶺に立ち入ろうとすると、生身の手足は傷だらけになるのを覚悟する必要があるでしょう。当然、傷に付けるメンソレータムと絆創膏は必須ですね。特に峠付近は風が強く寒いから、杖とマフラーをお忘れなく。自分の峠までは獣道、何が潜んでいるかわからないからね、杖は「自己のテクノロジー」のアイテムとして欠かせません。携帯は使用不可、「影の国」には電波が届きません(笑)。


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2012年1月26日木曜日

平常底で「日々是好日」、壁観九年の節目迎え

Jeden Tag sei euch gut, seelenruhig etwas zu lesen, was da ist.   
【2月9日(木)更新、付記追加、データ補正】
 最近は投稿が遅れ気味で、読者の皆様にはご迷惑をおかけしています。多少言い訳になりますが、禅思想の集大成『碧巌録』を傍らにして、ダルマの『二入四行論』に読み耽り、そのドイツ語訳に励み専心する毎日、ですので、肝心のブログにはなかなか手が回りません。前者が完成品であるのに対して、こちらは文章も粗悪で読みづらい、荒削りで未完の作品(語録・断片集の類)ですが、これには禅の根源体験を彷彿とさせる、原石の輝きがあります。(ドイツ語の知識のあるなしに拘わらず、関心のある方は「史的ダルマ研究会」へお越しください。歓迎します)
 日頃から学生たちには、原書のみ読むように注意し、翻訳書や解説書など参照するのは以ての外だと厳しく指示している立場からして、参考書の類は自分では読みもしませんし、人にもお薦めしていません。それでも最近は、読書会で読み合わせる必要性から、わたし自身もやむを得ず買い求めて読んだものが二冊ほどあります。
 言語派社会学の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対話本『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)と、大澤氏の『〈世界史〉の哲学 古代編』(講談社)の二冊です。興味深く読ませていただきました。問題の所在をずばり指摘される点、常識的な理解を覆しぐさりと急所をつく点で、二人は共通しています。
 橋爪先生は、抜け目のない緻密な論理で読者を圧倒し、なるほどと納得させてくれますが、ヴィトゲンシュタイン流のゲーム理論で、主語論理が通じない歌詠み三昧の述語論的世界、東洋的無に親しむ世界の社会問題がすべてうまく解決するのかどうか、最後まで疑問が残りました。
 他方大澤先生の哲学本は、西洋哲学史を縦断する知識と論争史を前提としており、読んでも初心者には皆目分からないのではと思われます。ミステリーのキリスト殺害事件(キリストの死の残響)から、資本主義社会の成り立ちとその陥穽をつく仕方は他に例が無く、マルクスを引き合いに出して論じる点でも刺激的で圧巻ですが、様々な論者の意見がモザイク模様に鏤められており、たとえ一通り読めても筋書き通り要点を理解することは、学生たちや一般人には困難ではないでしょうか。話をあちこち関連づけないで、もっと論議の的を絞り分かりやすい展開にしないと、読む方の負担が大きく辛いところです。
「日々是好日」は、”Zen - anders denken? Zugleich ueber Zen und Heidegger” (『禅-別様に考える?禅とハイデガーの一試論』、大島淑子) の裏表紙にある私への贈り言葉、いつまた直下型の大地震が関東平野で起きるかわからない、絶えず不安と戦きに苛まれる中で、「平常底」で壁観するにも読書三昧してもらうためにも、この本のように誰もが理解できる言葉で語らないと、真意が伝わらず心が通じません。知識や閃きを披露することが自己目的でない限りではね、大澤さん、聞いてますか?
付記: 副題にある「壁観九年の節目」とは、史的アルマの自身のケースはもちろんのこと、それを真剣に考えるようになった時点から数えて、つまりわたし自身が壁観を始めた2003年から数えて今年は節目の九年目という意味です。

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2012年1月3日火曜日

年頭所感:「絆」で温もる、生活世界の原風景を

Wiederentdeckung einer Ur-landschaft, wo man in den familiaeren Banden leben kann.
【1月25日(水)更新】
新年のご挨拶を申し上げます。明けまして「おめでとう」と言うことがひどく憚れるほど、昨年2011年は深い傷跡を東北の方々にもたらしました。被災者を初め大半の国民が、家族の絆の大切さに改めて気づき、その点で思いを一つにしたのではないでしょうか。長い間、日本社会が家庭崩壊や学級崩壊という人間デフレで苦しんだ果ての震災体験、社会の基本が身近な友であり家族であること、失われて初めて身近な存在者の「絆」(band)の大事さが忘れがたく身にしみて、私たち国民の心を激しく揺さぶりました。
 そこで、今年の年頭所感は、私が学生だった頃の愛読書、フロイトと肩を並べる異彩の精神分析学者、「言語療法」(ロゴセラピー)で知られる、ヴィクトール・エミール・フランクルの言葉をお贈りします。以下はすべて私訳です。
私たちを襲う過酷な「宿命は、大地のように人間に属しています。人間は重力によって大地に縛り付けられています。しかし、それ(大地の縛り)なくしては歩行は不可能なのです。私たちが立っている大地に対するのと同様に、宿命と向き合わなければなりませんが、これを自由に対する私たちの跳躍台としなければならないのです。宿命なき自由は不可能です。(私たちの)自由は、宿命に対する自由という仕方でのみありえます。」(『死と愛』)。アウシュヴィッツという強制収容所の壁を体験した人の言葉、ずしりと重たいですね。過酷な宿命に対する仕方で、つまり彼が重視する「態度価値」乃至行為価値としてのみ、自由があり得るのだという主張には、強い説得力がありますね。その意味で、邦訳の「運命」でなく、自由に余地を残す「宿命」が正解、訳語としてこちらが相応しいと思われます。
「およそ、生きること自体に意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずです。苦しむこともまた生きることの一部であるなら、宿命も死ぬことも生きることの一部でしょう。苦悩し死ぬことがあってこそ、人間という存在は、初めて完全なものになるのです。」(『夜と霧』)。この言葉には、愛する妻を思い彼女との「絆」を獄中から再確認することで、どんな苦しみにも耐える意味を見いだし、決して諦めない、壁の彼方に自由を見届ける前向きな気持ち、容赦なく襲いかかる苦難に負けず怯まず、「それでもなお、生きることに然り(ヤー)と言う」一貫した「態度価値」、宿命に押しつぶされそうな青息吐息の人の言葉でない、不思議なくらい熱い命の息づかいが満ち溢れていますね。
 年頭に当たり、今一度被災者の思いを自分のこととして受け止め、友や家族の絆を、存在の温もりとして、一緒に取り戻したい。「絆のある生活世界の原風景」を描き直す一年としたいと存じます。「家族社会学」については、いずれ時を見計らって論じることにします。改めて、2012年が「絆」を元手に(自分がでなく、他の人が種を蒔いた、その)「実りに与る」体験の元年、飛躍の年となりますよう、皆様のご健勝を心より願いつつ、新年の挨拶といたします。

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