2011年5月12日木曜日

言論の正義と美学のジレンマ?、水素爆発の暗影

Die Gerechtigkeit der Sozial-Rede ist die politische Aufgabe der Ästhetik.
【5月29日更新】
これまでに、「言論の自由」が話題になることはあっても、「言論の正義」について本格的に論じられたためしがない。はたして、言論の正義はあるのかないのか、あるとすれば何か、最近の事例を元に考えてみたい。例えば、東電叩きの例が参考になる。何か事故が起きると責任者が問われるのは当然としても、一企業の東電だけが悪者であるかのように、同じ論調で各紙は報じるが、国策として推進してきた歴代の政治家たちの責任は問われず、すべてが頬被りの侭である。管内閣の政治手腕が問われるのは当然としても、ジャーナリズムによる個人攻撃的・中傷的・人格誹謗的な「罵詈雑言」にはあきれ果てる。なるほど非凡でなく凡人の、つまり「普通の人」ながら真摯に薬害エイズ訴訟に取り組んだ苦労人、その管首相が自分なりに精一杯頑張っているのだから、国難の今私心を捨て彼を支えるのが常識であろう。与党野党を問わず、自分も「首相になりたい症候群」の政治家たちは、足を引っ張ったり揚げ足取りの愚行を重ねるだけで、みっともない(「笑劇」にも勘所の「美芸」があろう)。国家戦略的「復興会議」と言うもパフォーマンスをでず、「言論の正義」を踏まえた政治哲学の欠片も伺われない。政策的言行に自信なく首尾一貫性がない、捻れ国会での右往左往ぶりの報道だけとは、実に寂しい・困ったものだ。所詮「政治は妥協」というも、言行不一致ではどうしようもない。だからといって、言行一致は共産党だけではないかと言う、党利党略の肩入れをするつもりは毛頭ない。いずれも、「帯に短し、襷に長し」のミスマッチで、たいして変わりはない。
さて、我が国に於ける社会言論の不毛さ(未成年状態)は今に始まったことではなく、明治維新以来の負の遺産である。伊藤博文や中江兆民にしても然り、啓蒙主義の世界に渡り法の精神(契約思想、憲法と民主主義)を学びはしたが、短期間での学習には限界があった。知識の大半は鵜呑みされ、曖昧さと無理解に終始している。吉野作造の民本主義でさえ、国民の「身」に付いたものでなかったか、せいぜい上着を羽織るように「身」に纏ったに過ぎなかったから、多くの賞賛と共感を呼んだにも拘わらず、「言葉」(の暴力)に躓き破綻するも時間の問題であった。その証拠に今でさえ、国会審議で象徴されるように、相手が語ることを誰も聴いてはいない。「あいつはこう思っているに違いない」と、頭から決めつけているだけで、あくまで腹心の一物(自分の意見)を押し通すのみ、対話弁証法的な「討議」が成り立たない所以である。東電の原発事故を巡る政治家の発言の迷走ぶり・会見場での釈明の不手際は、紛れもないその証左であろう。
先ずもって事実関係はどうなのか、瀕死のトルソー(胴体部)を把握できるトップ(考える頭部)がいない。例えば、昨日の衝撃的な発表で、事態は一気に転倒しかねない。東京電力は5月9日(月)、福島第一原子力発電所で、原子炉建屋が激しく損壊した4号機について、「水素爆発以外の可能性がある」とみて調査していることを明らかにした。「建屋5階の使用済み核燃料一時貯蔵プールで、水素を発生させる空だきの形跡がないことなどが判明」した。この調査結果を踏まえると、建屋の倒壊には「別の原因がある」との見方が浮上していると。事実誤認とすれば大問題、大震災から二ヶ月あまりが経過した後の、不承不承での発覚である。
では因果関係はどうなのか。「建屋内には、原子炉内のポンプを動かす発電機用の潤滑油貯蔵タンク(約100トン)がある。他にも、溶接作業などに使うプロパンガスのボンベもあった」と考えられることから、事故との関連が疑われている。使用済み燃料棒の入ったプールの水質を調査した結果、意外にも「放射性物質の濃度が比較的低く、水中カメラの映像でも、燃料を収めた金属製ラックに異常が見られない」ことから、水素爆発を誘発する「空だきが起きていたとは考えにくい」と結論づけている。水素爆発でなければ説明できない破壊現象と、水素爆発以外の原因があった可能性を強く示唆する調査結果は、ジレンマをもたらす。
すると、運転を誤って起きた不祥事ではないとしても、運営(経営)上の想定を遙かに越えた大地震と大津波によって、核燃料でない他の燃料タンクが損傷することで、建屋上部の爆発に至った二次災害の可能性が高い。この点で、福島の事例はチェルノブイリの原発事故とは、根本的に様相を異にする。大事なことは、不確かな情報を元に騒ぎ立て、あらぬ風評を流し社会不安を煽ったり踊らされたりして、パニックに陥らない・陥らせないことである。危機的状況においては、常に正確な情報収集と冷静な分析判断が必要とされ、政治家には迅速な政策実行と救済処置が求められる。メディア言論には、受信情報の「正確さ」(客観性)と同時に情報発信源の「信頼性」(主観性)が求められる。しかし呉々も注意してもらいたい、判断者にとって「時間は貨幣である」(フランクリン)。主客未分の境涯を歌っている暇はない。時を惜しみつつも投資のタイミングを見失わないことが大事であるように、信頼できる価値情報はやはり時を知る「人手」次第、「見事な手さばき」(schöne Kunst)は妥当性と適時性を要する。
社会言論は、世論として平均化される場合を含め、自分の憶測や仮初めの判断を吟味しないまま垂れ流したり、ジレンマを他人に強いたりするものであってはいけない。それは「真偽」の選択肢を包み隠さず読者に提供しつつ、「言論の正義」(信憑性・真理性)を問わせるだけでない。同時に、為政者と国民の「諒解」に基づく社会的判断力に求められる妥当性追求は、高度に美学的な言論課題だからである。「身」と「体」を攫われ引き裂かれた人にとって、正義論(真理論)と美学論は切っても切り離せない。すでにシェリング(『芸術哲学』)において、真と美は同一のカテゴリーであると明言されていた。戦争行為のような人為的災害のみならず、地震と津波のような自然災害についても然り、それが国土復興に必要な「諒解関係」を結ぶ社会行為の大前提となることを肝に銘じておきたい。「自ら招いた未成年状態」(カント)を脱するには、まず失われた言語感性の再取得から始め、社会言論の格率(言語行為の主観的原理)を普遍的法の諒解レベル(公共性)へと高めるほかにないと、少なくともわたしには思われる。諸君の率直な意見を聞きたい。
(引用した一部のリソースは、20115100014分付けの読売新聞朝刊から、補足を含めそれ以外の文責はすべて私)

付記: (その後の経過報告と社会学的考察)
以上はあくまで4号機での話である。今度は、復興計画で一番進んでいたはずの「1号機で、原子炉内の核燃料の大半が溶融し、高熱で圧力容器底部が損傷した」と言う。この問題で、東電は5月12日、「直径数センチ程度の穴に相当する損傷部から水が漏れている」と発表した。「溶融した燃料は圧力容器の底部にたまっている」と見られ、東電は、この状態が、核燃料の「メルトダウン(炉心溶融)」であることを認めた」(読売新聞、他同様)。東電の松本純一原子力立地本部長代理は、同日夕の記者会見で、「燃料が形状を維持せず、圧力容器下部に崩れ落ちた状態」と現状を説明し、初めて公に「想定外」のメルトダウンを認めたことになる。2号機・3号機でも、同じことが危惧されると言うに及んで、二転三転する釈明に「今更」の嘆息しか残されていない。
今回の事故が教えることは、マテリエにフォルマがないと暴走する典型だという一点のみ。「冷たい理性と感情文化」、或いは「科学への反目と詩作信仰」のジレンマ(レペニース)を論うまでもない。語ること(言葉)と語り終えぬこと(無)への覚悟と備え、それも「心情倫理的でない、責任倫理的に方向付けられた」社会言論の実践が問われる。ヴェーバーの『職業としての政治』(89頁以下)は必読、政治家諸君は党派を問わず、終わりまで音読して自らの戒めとしてもらいたい。
原子炉を冷やすために、《真水》を注げば注ぐほど、《汚染水》が増えるというジレンマの「解」は、僅か数センチの亀裂で出来た《穴》、如何にしてこの《穴埋め》をするか、あとは技術者の「腕前」(Kunst)次第ということだろうか。5月14日、この僅かばかりの《穴》から、「一万トンの内少なくとも四千トンが《消えた》ことになる」と、消えた水の行方を巡り疑心暗鬼だけが先行し情報が錯綜する中で、当惑から衝撃へと状況は一転する。「暴走する車の車輪に、楔を打ち込む」(ボンヘッファー)人はいないのか、叡智者たる存在の真と美がマッチしないぞと「良心」に咎められても、呟くばかりで返す言葉に力がない。人類はそのミスマッチへの自己責任を厳しく問われている。
5月15日(日)21時25分

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku