2013年6月22日土曜日

お花茶屋でスペシャルイベント、講演会のご案内

ブログ掲示板(20130622

 

行き方:京成本線お花茶屋駅北口下車、堀切菖蒲園方面へ30メートル戻り、東光幼稚園先を右折し一つ目の角を左へ、角より二軒目がそれ。

           

  

2013年6月19日水曜日

「陰陽師」の夢枕獏と「幻術師」の司馬遼太郎、披見するも似て非なる ...

【7月1日(月)更新】
 原作者(本名、米山峰夫)は、「エロスとバイオレンスとオカルトの作家」として夢枕獏(ゆめまくらばく)を名乗っており、批評家やファンの間でも、「密教的要素を散りばめたエログロの伝奇バイオレンスや、ひたすら男たちが肉弾戦を演じる本格的な格闘小説を得意とする」点で、評価ポイントが共有されている。1988年(昭和63年)に文芸春秋社から『陰陽師』(おんみょうじ)を出版。これは、平安時代の陰陽師・阿部晴明の生涯を描いた伝奇小説で、2001年(平成12年)に滝田洋二郎監督の下で東宝でテレビ映画化され、晴明ブームを起こしている。これがヒットした理由の一つに、晴明役の狂言師・野村萬斎の働きが注目される。萬斎は、能楽狂言方和泉流野村万蔵家の名跡である。海外にも紹介され、"the Onmyo-ji" (also known as: The Yin Yang Master)で知られる。 
 NHK版テレビドラマ『陰陽師』では、公共放送にふさわしく、脚本と演出はナレーションと共に大幅に修正され、赤裸々なエログロは影をひそめ、かなりスマートな仕上がりになっている。歴史ドラマにはほど遠く、史料的価値・裏付けはない。原作であれNHK版であれ、女の情念を話題とした創作、扱いは歴史物としても奇想天外な筋書きで分かるように、所詮は情・怨念(Ressentiment)に訴えるだけの興味本位のフィクションである。
 本格的な歴史小説家の司馬遼太郎とそれを読み比べると、似て非なるその違いがすぐに分かる。1956年(昭和31年)に出た幻のデビュー作『ペルシャの幻術師』にして然り、『空海の風景』や『坂の上の雲』にしても然り。歴史を風土に尋ね紀行する司馬の世界には、失われた歴史を物語ることで繋いでいく、歴史ドラマの真骨頂を随所に伺わせる。同じフィクションでも、天地の相違がある。
 今日の課題: 「陰陽師」に「幻術師」、どこに違いがるのだろうか。いずれもマジシャンの類である。注意点を三つ挙げる。①原作者が描く星占いと密教の世界、異なる考え方をする風土や慣習・歴史理解に注目すること!②見て楽しい・読んで面白いからといって、歴史の実像や真実に迫りえたと勘違いしないこと。③最も注意すべき点は、背後で歴史を操る者(例えばユダヤ人)がいるといった「妄想」(Wahn)を抱かないこと。なぜなら、ヴェーバーの概念を使って言えば、歴史はさまざまな人の動機が絡んで展開する社会行為の「布置連関」(Konstellation)なので、特に経済(的利害=利権)と絡んで展開する時は非常に複雑な経路をたどる。したがって、一義的には予測できない。以上、反論があったらお伺いしたい。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights ⓒ all reserved 2013, by the Institute for Rikaishakaigaku

2013年6月13日木曜日

「経済」と「社会」を天秤に、載せて目盛が噛み合わない?

【6月21日(金)更新】
 ブログの随所でことあるごとに、「比の一の値」に言及してきたので、読者の中には何のことだろうと首をかしげておられるに違いない。そこで、経済指標となっている場合のそれを参考にして、基本的理解をおさらいしておきたい。比の一論は単なる目盛合わせでない、株価変動に振り回されない、成熟した政治社会実現のためのトライアル、非正規であれ非常勤であれ、働く人の存在を復権させるための楔打ちか、主権在民の縁起こしを意識した投げ網造りである。
日本での株式評価額は過熱気味なのか、それともたいして過熱感がない、不安は必要ないということなのか。リスク評価の秤縄は、景況感で乱高下する経済の指標となる比の一の値がどれか、判断の目安とする単位が整数倍か分数倍か、それ次第で景況判断が分かれる。
問題は、日本の株価が実際の企業の業績とどれくらい一致しているのか、あるいはどのくらいかけ離れているか。統計上は業績が徐々に改善してきていることから、しばしの調整期間を経た後回復が期待されるので、株価が過熱しているとは感じられないと言える。
企業の業績と株価の関連を分析するに、「PER」と「PBR」という二つの指標が参照される。「PER」(price earnings ratio)は株価の収益率のこと、通常はP/EかP-Eと表記される。これは「株価÷1株あたりの純利益」で計算される。つまり、株価が純利益の何倍か、整数倍か分数倍(1以下の小数値)で純利益を表す指標だ。数値が低いほど、株が割安だということを示す。
ただ、ここで算出された「純利益」は、今期末の予想業績だという点に注意。前期実績と比較して、2023倍程度ならどうか、判断の分かれ目となるのは、比の一の値を求め割り出す定式の、「株価÷1株あたりの純利益」で得られる数値次第。
この指標から分析すると、20136月現在の株価はそれほど高くない。つまり、企業の業績全体から見て、株価が高すぎる状況ではない。この間急ピッチで株価が上昇してきたので、今しばし調整中ということだろう。
株が買われる時、それぞれの「PER」が参照される。PER20倍を超える時は、通常「割高でリスクが伴う」と判断されて、誰も積極的に株券を買わない。
景況感を測るに、「PBR」というもう一つ別の指標が参照される。PBRprice book-value ratio)は株価の純資産倍率のこと、通常はP/BかP-Bと表記される。これは「株価÷1株当たりの純資産額」で算出される。指標が1を割る(小数値を取る、整数1以下の分数倍となる)と、理論的には会社を解散したほうがいい、早めの解散に相対的価値があるということになる。東証一部全体で1.3倍でも、東証二部では0.85倍と低水準ならどうか。判断の目安となるのは、ここでも比の一の値を探る二番目の定式、「株価÷1株当たりの純資産額」によることになる。
いずれにせよ、PERPBRRは〈ratio〉のこと。Rは商いする際の合理的算定率、経済行為をする人が求める効率は経験値、従うべき格率(Maxime)は目標値である。これは、利害に絡む社会言論活動の指標ともなる。但し、経済人(homo ecconomics)の格率論を凌ぐ高度の計算機器の登場によって、混乱のリスクも増大し先行き不透明感に足元を掬われよう。経済と社会を天秤に載せても、目盛るモノとヒトが噛みあわないのだ。
はたして人間は、機械(的に働くモノ)との闘争に勝てるのか。まさしく、生き残りの尊厳と人権がかかった問題となる。しかるに、機械は人権(人格存在)を理解できない。景況判断をメカニックに割り出せるとしても、木目と金目と人目では、計る目盛が違う。だからこそ、「理解社会学」(ヴェーバー)が必要となる。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights ⓒ all reserved, by the Institute for Rikaishakaigaku

注: このブログ記事は、日経BizCollegeの記事:小宮一慶の「スイスイわかる経済!数字力トレーニング」(「株価は再浮上するのか? 急落の原因と見極めポイントを探る」、201367日掲載)を参考にして作成しています。学習中なので、間違いがあったら、ご指摘ください。

2013年6月3日月曜日

転ばぬ先の杖、「歴史」理解の貧困と偏見について

【8月30日(金)更新】
 従軍慰安婦に関する橋下大阪市長の「必要だった」発言は、国内外に大きな波紋を投げかけました。真意がセクハラでないとしても、言葉だけが独り歩きしている感じですね。紛糾の原因は氏の扇動的言論(Demagogie)、主語が曖昧な侭では差し違える、諒解なき言語文化の悲劇です。歴史理解の貧困と偏見についていざ語ろうとすれば、「歴史」とは何かという問いを避けては通れません。欧米でも、歴史理解はのど元に突き付けられた刃です。韓国でも然り、「原爆投下は神の懲罰」では、歴史再考の問いが自分の仇となります。
 法則科学的に再現可能な自然史とは異なり、歴史はどこまでも人文科学的な部門としての人間史(クレイク)です。人間の歴史と言っても、二つあります。人間の営為が史実として書き記され纏められたもの(Historie)と、個人や民族のそれを含む、繰り返しのきかない(後戻しが許されない)、物語り可能な歴史(Geschichte)、つまり一度限りの実存史です。ハイデガーは、この区別をマールブルク時代の友人・神学者のブルトマンに学んでいます。
 他方で、経済史がどちらに属するかは微妙です。それでも、背後で誰かが歴史を操って(戦争を仕掛け世界制覇の)陰謀を企んでいるといった類の論調は、社会事実の裏付けがあるのでなく全くの憶測に基づくもので、民族差別を目論んだ社会偏見以外の何物でもありません。たとえば、フリーメイソン(Freimaurerei)の関連でよく聞かれる「ユダヤ人陰謀説」(Juden-Intrige Theorie)。まことしやかに語られていても、社会科学的に言っても論拠不十分な排外的イデオロギー(アーリア系に根深い観念形態論)の産物です。ユダヤ人や共産主義者の排除を大義名分として、ナチス(NSDAP)が党を挙げて積極的に演出した巧妙なプロパガンダ(Propaganda)です。実は「救い主殺しの犯人捜し」という社会風潮が長いカトリック教会史にはあって、ナチス協力に走るドイツキリスト者(Deutsche Christen)の引き金となった経緯はありますが、彷徨うユダヤ人たちが金融業に携わってバチカンと協力し、陰で戦争を仕掛けているのだというのは根も葉もない噂話(Gerede)で、ユダヤ人憎し(Judenhaß, Ressentiment)から民族浄化に乗り出すための口実に過ぎません。
 宗教史的・教会史的には、「イエスはユダヤ人であった」(カール・バルト)ですでに論駁済み。経済史については、パレートを読み直すことから議論の座標を再設定する必要があるでしょう。
 さて、リーマンショックを引き起こした数年前の世界金融危機の際に、私自身も法政大学紀要の『多摩論集』で、ユダヤ系ヘッジフォンドの責任を厳しく追及した記憶がありますが、ユダヤ的知性の特徴として「神もしくは貨幣」を論じるにしても、そのような極論の怪しげな陰謀説に組することは断じてしません。思い出してください。あのヴェーバーでさえ、彼の家にはジンメルを初め、多くのユダヤ人たちが出入りしていたことからもわかるように、テニエスに代表される民族主義的な誤解を引き起こしかねない「共同体」(Gemeinschaft) 概念の使用および解釈を断固拒否しています。ヴェーバーの理解した概念を私たちが敢えてカタカナで「ゲマインシャフト」と表記する理由も、そこにあります。
 日本では歴史学科は文学部所属ですが、欧米では哲学部や社会学部の所属です。つまり、思索の実践的課題・行為の分析総合判断の問題としてあるので、空気を読み合うだけの日本(文学)的心情理解では、的を外してしまいます。特に宗教関係者は、歴史の事実認識に疎いので、要注意です。たとえば、禅で悟りを得ることと、そのような戦争イデオロギーに囚われることとは、まったく無縁です。せっかく一切の迷いや縛りから自由となったのに、正反対の縛りや囚われに陥るようでは、元の木阿弥か本末転倒でしょう。歴史理解の貧困ゆえに陥りやすい偏見(Vorurteile)や極論(Übertriebene Argumentationen)には、くれぐれもご注意ください。

注: 噂の発信源は、当時ナチスのイデオローグであったリューディガーのプロパガンダ文書(Karlheinz Rüdiger, Der Krieg der Freimaurer gegen Detschland)で、反ユダヤ主義(アンティセミティズム)のリソースは、1934年にロシアの秘密警察の手で書かれた『シオン議定書』(Protokolle der Weisen von Sion)。このパンフレットが偽造文書であることはすでに各方面で論証されており、読むに値しない。ナチス協力の嫌疑をかけられたハイデガー自身の問題については、長くなるので学会で論じることにする。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights ⓒ all reserved 2013, by the Institute for Rikaishakaigaku