2019年12月15日日曜日

神様は赤ん坊か究極の数式か、知性改善論にスイッチを入れる

 いよいよ、今年もクリスマス商戦が始まる。ITのネットワーク世界に蔓延するやらせレビューの数々、大量の商品レビューを送り届ける仲介業者のたくらみ、AIで巧みに換装されたビッグデータの実態に迫るも、商品に紐づけられた宗教的動機の価値評価システムの暗渠は見通せない。テクノロジーの悪用とやらせレビューに騙されないためには、聖俗のマチュアリティー(成熟性)にまつわる感性と理性の仕切り直しが必要となる。ポピュリズムの偏りを正し、エリーティズムの「知性改善論」に迫るに、神は究極の数式か赤ん坊か、二択のマニフェストで今は十分。
 かつて吉川団地保育園のチャップレンだったころ、大人たちが強いる理想(聖俗の常識)に反して、ふと園児の一人が口にした言葉:「神様は赤ん坊よ」が父兄に笑みを齎し衝撃的な波紋を投げかけた。後がない(跡継ぎがいない)、少子高齢化社会に心して考えるべきこと..
 数式では歴史問題は解けない、ヘロデ王の幼児虐殺令を受けてエジプトに避難するヨセフとマリアのクリスマス前夜の歴史=物語の謎は解けない。でも、あることができる。それはなにかお答えください。さあ、どうぞ。12月17日(火)更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, 理解社会学研究所所長、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員
                                                                                                     

2019年12月8日日曜日

ポピュリズムの喧騒から一歩退いて考える

朝日新聞11月19日付けの朝刊の「天声人語」に、米国の政治学者ヤシャ・モンク氏の話が出て話題となっている。ポピュリズム(大衆迎合主義、衆愚政治)の危険性を訴え続けているモンク氏は、来日時のシンポジウムで問題発言、「多くの国を訪れましたが、ポピュリズムの台頭が見られない国に来たのは初めてです」と述べたという。
事の真相はともかく、欧米型の自由民主主義世界の凋落に伴い、中国型の非民主主義国家の台頭による資本主義経済基盤の奪取が係わること、グローバル化に伴う経済覇権をめぐり議論は幾重にも捻じれて複雑怪奇な論争になっている。自称ポピュリスト、れいわの山本太郎氏の話はさておき、日本では政党レベルのポピュリズムになっていないとの指摘がおそらく正しい。今はとりあえず、その定義から始めよう。
ポピュリズムは政治用語で平民主義、ラテン語のポピュラス(原意:奴隷制の時代に「ローマ市民権を有する者」)が元になっている(ひと昔、同名のゲームもあったね)。通常アンチ・エリーティズム(反エリート主義)の名で知られる。政策論を棚上げにして民衆にすり寄り、選挙目当てに大衆の好みに迎合すると衆愚政治だと揶揄されることに。
二十世紀初頭のイタリヤのファシズムやドイツのナチズムも然り、高い失業率に悩む大衆の不満を吸い上げ、雄弁なプロパガンダで政権奪取したケース。アメリカ合衆国では、マッカーシズムやティーパーティー運動、アメリカ・ファーストのトランプ政権を例に挙げる人も多い。日本では、大衆の人気を煽るポピュリズムより、寡頭制のオリガールキが疑われるので、議論の詳細は別途に譲る。
モンク氏の発言は、一見したところ、欧米に典型的なポピュリズムの傾向が日本にはないと、直感したことを述べたに過ぎない。影では、日本の自由民権運動の未熟さ、自由を看板とする民主主義理念のいい加減さ、変化を好まない若い世代の政治的無関心が、ポピュリズムの土壌を育まなかった・今もニーズを生まず論議を不毛にしていると指摘する声もある。寡頭制が疑われる理由もそこにある。以下は次号にて、エリーティズムについて、ポピュリズムとの対比で考える。
12月11日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), 理解社会学研究所所長、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、copyright © all reserved 2019.

2019年11月30日土曜日

報いを望まず人に与えよとは

 香港で区議会選挙の圧倒的勝利に酔っている暇はない。日本国内は矛盾の渦なのに、どこも煮え切らず苦痛で顔がゆがみそう。東大名誉教授上野千鶴子先生の、来賓として述べられた新入生歓迎の式辞に驚かされ、思わず心が揺さぶられる。
「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成 果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。」
上野先生は、フェミニズムという女性学乃至女性運動の権威として知られる。性差別が当たり前の、頑張りが報われない男性優位の壁社会で、苦々しい思いをかみしめる女子学生諸君の気持ちが吹っ切れる、名言である。壁に映じる影の存在を哲学するだけのハイデガー(男性)に、あなたの言う「実存と何か」と楯突いた、ハンナ・アーレント(女性)の「活動的生」を引き合いに出すまでもない。アーレントは政治不安に有為を訴えたが、壁観して安心無為に逆接する強い心意気あり、注目すべき存在は指標となる。讃美歌21の566番には、自分に「報いを望まず人に与えよ」とある。作詞家はアン・ハナフォード、十九世紀にニューイングランドのユニヴァーサル教会で初めて女性牧師となった人。女性解放運動の先駆者である。『コヘレトの言葉』11章1節が参照されているので、読んで真意を味わってほしい。12月3日更新
追記:上野千鶴子先生は東大総長でなく名誉教授、式辞は総長が語るものと考えていたせいですね。うっかりミスに近い。Yさんのご指摘に感謝。
Shigfried Mayer(宮村重徳)

2019年11月10日日曜日

除籍されたハイデガーとマン、影絵と対座し目が点に

四十三年ぶりに、駒場キャンバス(東大教養学部)を訪問した。一九七三年当時は時計台のある正門校舎の背景は青空のみ、今のように不釣り合いな高層建築の校舎はなかった。ドイツ語研究所部門はその十一階にあり、いざ訪ねてみると、重複図書の都合により「除籍された」ハイデガーとマンの古書(ドイツ語研究文献)などが机の上に山積み状態、中でも、アルフレッド・イェーガーの『神、もう一度マルティン・ハイデガー』と、アンナ・ヘーラースベルク・ヴェンドリナーの『神不在の神秘思想‐トーマス・マンの解釈』(私訳)が目に留まり、とっさに鷲摑み。いかにも、影の国でハイデガーとマンに対座し、駒場で出迎えられているも同然の感触を得て、思わず目が点になる。存在と時間は、その都度のわたしで有ることのタイミング次第、まるで古書の研究課題を委託され、「頼むぞ」と言われているかのようで、全身に衝撃が走る。
本郷キャンバスでは九月から、宮田眞治先生のドイツ語原典講読演習(トーマス・マンの『ヴェニスに死す』)に客人として参加している。偶然にしては繋がりが揃いすぎて、驚き怪しんでいる。理性と歴史の真理探究は堂々巡りして存在の忘却に陥るから、既存の存在論を解体するにしても、事実性の解釈課題として内存在に燻り続ける火種は消し難い、神を抜きにしては、ハイデガーのダス・マン(非本来的実存)もトーマス・マンの壁に映じる影絵作品(無の世界)も語れない。
追記:昨日の11月9日は、一九八九年にベルリンの壁が崩壊して三十年目の節目となる、「壁観」再考の機運となってほしい。詳細は別途に譲る。
注:タイトルのキーワードGottesferneは「神への遠さ」、 Gottesnäheの「神への近さ」への反語。神話的表象を避けて、あえて「神不在」と訳出しておいた。『近さと遠さ―禅への途上』(大島淑子)が参考になる。11月18日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), 理解社会学研究所所長、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、

2019年10月27日日曜日

二〇一九年度研究活動中間報告

 研究所の皆様、ブログの愛読者にはまことに申し訳ない。九月以降はアマゾンジャパンでフルタイムの勤務となり、令和元年後半の研究会及び読書会はすべて休止を余儀なくされた。偶然にこの職場で出会った東大の卒業生Y君との面識を得たことが機縁となり、仕事の合間に東京大学大学院で目下研鑽を積んでいる。ドイツ留学前に駒場キャンパスで西洋古典の演習に参加したことはあるが、本郷キャンパスでは初めて。さすがに討議レベルは奥深く、心底感銘している。まだ海岸で貝殻拾いをしている少年の心境だが、表象文化論を超える東大発二十一世紀枠の宗教改革と文芸復興をマジに夢見て、文系部門の統廃合の流れに抗し、溌溂とした心と躍動する精神で課題と取り組んでいる。
 その昔、東京帝国大学文学部生だった叔父宮村光徳を三四郎池に偲び、思索にふける絶好の機会となっている。蚊帳の中で「大入道の小入道の真っ暗入道そら入道」と声高に詠い、風神雷神におびえるわたし(当時小6)を壁に手指で影法師を描いて励まし勇気づけてくれた叔父の突然の死が、父をしてわたしの人生を逆方向に転回させる梃子となった。思えば不思議な縁続きである。今は一介の聴講生で研究生志願の身、いずれ博士課程に進む予定で準備している。次世代育成のために自ら捨て石となり、三十年有余にわたるこれまでの研究の諸成果を生かすことにしたい。
蛇足:生活費と学会費・東大大学院での研鑽に必要な学費調達のために、目下アマゾンジャパン合同会社で終日働いている。読者の中に諸般の事情を理解し賛同される方、研究費及び出版費用をご提供してくださる方がいれば、心より歓迎し感謝の意を表したい。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2019年10月21日月曜日

緊急提言:日本ラクビー界に力士たちを送り込め

 惜しいことに、南アフリカとの準決勝の試合では、スクラムの力不足が目立った。体力不足を嘆く必要はない。外国人のハーフ力を頼りにするにも限界がある。考えてみよ。日本には大相撲の力士たちがいるではないか。横綱大鵬はウクライナ人男性と日本人女性のハーフでしたね。一人か二人で十分、余力を持つ彼らを重戦車として鍛え上げスクラムを組みなおせば、世界一の座も決して夢ではない。感動的なラクビーの精神、ノーサイドを全うしプレイをパーフェクトにするには、力士たちの助力が必要となろう。サッカーではなしえなかったこと、ラクビーが第二の国技になる日はそう遠くない。11月4日更新
Shiogfried Mayer(宮村重徳)

2019年10月7日月曜日

風雅でピリ辛の里神楽、覆面自体に罪はない

突拍子ない覆面のお楽しみ、字余りで五七五の俳句にもならぬ拙作三つ。べた書きにしたので句読点はない、ゲーム感覚で節目を読み解いてね。

なつまつりおかめおたふくさとかぐら
ふゆじたくひょっとこひおとこかぐらぶし
はるしのぶほんこんれんこんかぐらほり

神楽(かぐら)は神前での能楽、日本中世に於ける女性の道化面がおかめ、男性の道化面がひょっとこ、滑稽さを表象する。いずれも里神楽(さとかぐら)の用語で、覆面自体に罪はない。古くはペルシャ帝国由来(正倉院所蔵)の、最近は香港でも知られる、吾郷の熊本では辛子入りの蓮根で、覆面して揶揄するかぴりっと皮肉る新劇風の政治ショー、ドイツのカバレットに近いイメージあり。ちなみに、カバレットはキャバレーではない。英語圏の人はご注意を!

注:ピリ辛=ピリッと辛い、おたふく=お多福、ひおとこ=火男、れんこん=辛子蓮根、かぐらぶし=神楽節、はるしのぶ=春を待ち焦がれる、かぐらほり=香港に連帯する意味で、地中深くに掘られた重力波観察装置の愛称Kagraを指す。10月27日更新

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo, 法政大学社会問題研究所嘱託研究員

2019年9月15日日曜日

無臭はアブノーマルか、人間臭いがノーマルでは

日韓の問題に寄せて、民族の根源に見逃せない存在性格、わたしであることの臭い・香しさについて少しばかり論じておきたい。
学生時代にドイツのハイデルベルクで体験したことが親しく思い出される。アパートの女将さんがふと漏らした言葉、外国人学生に部屋を貸すに、アメリカ人は臭くて嫌、日本人は無臭で気持ち悪いと。汗流したらお風呂に入って自分の臭いを消す、極端に清潔好みの習慣が奇異に感じられるらしい。湿気の多い環境だから清潔にするのは当然だとしても、無臭となると話が違うかも。
クリスチャンならキリストの香りと言い、純粋経験となると宗教哲学的動機の絡むことでもあるので一筋縄にはいかないでしょうが、自分らしさの臭い・民族固有の臭いまで消す必要かあるのかどうか。無臭はアブノーマル(普通じゃない)、人間臭さがノーマル(正常)ではとの話も巷で聞かれます。考えるヒント:ノーマルは接線に垂直です。
タレントの壇蜜さん、無臭という強迫観念は無用ではないでしょうか。繊細な女性の感受性を考慮するにしても、無菌無臭の社会偏見に呪縛されない。むしろ、人間らしさの証として自分の臭いを受け入れ、あるがままを生きたらいい。そうすることで、臭いは香りになるはずです。臭覚は動物的本能だと吐き捨てる前に、しばしとどまり考えてほしい。疎遠が身近となることで、人間臭い存在者同士の新たな出会いが現に其処から始まるのではないでしょうか。今後日本でも増えるであろう外国人労働者の理解に最低限必要なことですね。(朝日新聞98日朝刊の記事に寄せて)、9月23日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019 by the Institute for Interpretative Sociology Tokyo, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2019年9月1日日曜日

複雑な言語活動と民族感情、詠ってジレンマを払拭せよ

自然は寒暖の差から土砂降りが発生し甚大な被害をもたらすが、その下で住まう人の世界は利絡みの環境次第で事情が捻じれ複雑化する。国民性の違い(存在性格でない)が障壁となって、自己内外にジレンマをもたらしている。米中に日韓を加えた貿易摩擦と経済戦争で、その違いが特異点を露呈している。
例えば、声高に自己主張して憚らず直談判に訴えるか、物腰低く憚った物言いでそおっと真意を伝えるか、語りふるまう姿勢で韓国人か日本人の留学生かすぐわかる。これはわたしがドイツ留学した際に自ら体験したこと、奨学金を求める候補者についてハイデルベルクの当局者が判断の目安としたこと。いみじくも、この度の日韓問題に同じパターンの繰り返しを見せられて考えさせられた。自己存在のルートには、三代を貫くDNAの違いが否定できない。自分の過ちを決して表明しないか、何かとすぐに誤りたがるか、自己同一性の違いが日常的な語り振る舞いに反映されている。半島系の人たちは非を認めず懺悔しない、むしろ過激な言行で局面転回を好む。もちろん、日本にも大陸系の人あり島国系の人あり、弥生人系か縄文人系かの違いはあるが、平均的に穏やかさを好む。ただ平均的イメージだけでは、存在性格まではわからない。
存在論的差異の把握の違いにして然り、南北統一を悲願とする隣国では、通り一遍の言説は頓挫する。まして具体的な政治倫理の行動について国民感情を無視した予断は許されない。反日運動は扇動的なプロパガンダ、自らの失政と側近のスキャンダルに目くらましする試みに過ぎないとの評価が正しい。アンチヘレニズムやアンチセミティズムとは次元を異にする。分断国家の宿命か、民族の根源ルートを探ることは容易でない、複雑系世界に固有な内存在の解釈課題、自己内対話(丸山眞男)に突破の技法が必要となる。それは、マルティン・ハイデガーの抱いていた密かな関心事(『存在と時間』、『形而上学とは何か』、『黒ノート』)でもあり、ハンナ・アーレントの問い返し(『実存とは何か』、『活動的生』、『全体主義の根源』)に反映されていよう。
喫緊の米中及び日韓問題に寄せて、それぞれの言語活動と民族感情を対他的に反省し、一旦留保するか一歩後退して学びなおす機会としたい。翻訳は暴力(ベンヤミン)、SNSやツイッター上の発言は癖球、文春レベルの噂話を鵜呑みにしてはいけない。真に受けると打ち損じる。発話には動機あり、何が目当てか自らに与えられた悟性をフルに活用してよく考えないと適格な判断はできず、期待される諒解可能な国際関係は達成できない。動機の布置連関に判断の目安あり、語り振る舞いに於いて「目的合理性は最も明証的である」(マックス・ヴェーバー『理解社会学のカテゴリー』)。
輸出規制強化の狙いは専ら北朝鮮の非核化に係わること、共有すべき国際法上の課題であるから、目的合理性の観点からして、南北統一の悲願とは別レベルの問題であろう。国民感情は一旦括弧に入れないと、国際政治は成り立たない。内政の柵を他国にごり押しできない所以である。
はっきりと物申す韓国人には学ぶ処が多い。曖昧さに終始する日本人が学ぶべき処だが、政界トップの挑発的・扇動的発言に乗せられない、側近の垂れ流すフェイク情報に踊らされないよう心がけること、非現実的な赤化統一という政策の偏りを正すかトップを罷免することも、主権者たる国民自身の果たすべき大事な責任課題である。自治権が認められていない香港でさえ、若者たちが立ち上がって赤化統一(中国共産党による香港の漢化政策)に背水の陣を敷いてプロテストしている。日米中韓の友人たち、君たちに出来ぬことではない。貿易摩擦と経済戦争の煽りから、唯一の被爆国である日本が望む東アジアの非核化への願いを頓挫させてはいけない。次世代の子らのためにそうしてほしくない。
存在者の存在を真理探求するのは必ずしも難しいことではない。文在寅(ムンジェイン)氏は聡明な人だからわかるはず。側近とサポーターたちに尋ねたい。「探し物は何ですか、見つけにくいものですか、それより一緒に踊りませんか、うふっふー」(井上陽水「夢の中へ」YouTube)の歌い文句も誘われて、共々に手を携え平和の花紐で世界の街頭を埋め尽くしたいものだ。伝統的に儒教の強い国には、権力者が非を認め謝罪する責任論理が通用しないのか。禪をパスした半島民に与える考えるヒント、ダルマの『二入四行論』の他に、『ハイデガーと芭蕉‐禅への途上』(大島淑子、明治大学での講演)が参考になる。ブラックアウトになる前に、詠ってジレンマを払拭するに尽きる。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、花紐社代表

2019年8月19日月曜日

中国官僚と貨幣経済、鉄壁の官僚システム?

資本主義社会の未来にマックス・ヴェーバーが生前に予見した『鉄の檻』(アーサー・ミッツマン、創文社、東京2003年)を参照せよ。中国の隋・唐・宋の時代に科挙制度(国家公務員試験制度)が成立。科挙候補生は、教養を積んだ単なる読書人でない。その証拠に彼らは「士太夫」となり、中国禅の文化を育んだ経緯あり。士太夫は、文科として共産党支配下でも鉄壁の官僚システムで影の担い手となり、武科と共に国家資本主義の二本柱(屋台骨)となっていよう。武警は共産党の公安担当か、士太夫候補の香港のデモ隊を威嚇し抑圧するようでは、言論の自由と市場の競争原理を尊ぶ資本主義体制に似つかわしくない。
世代交代に伴う関係者の残虐な抹殺の歴史に於いて、中国と韓国に差はないように見えるが、習近平と文在寅、統領の資質(言語運用)を問い質せば、必ずしも同じではないことがわかる。中国では限りなく疑わしい。発話に慎重な習近平の中国に対して、文在寅の韓国に自由競争の条件は揃っているが、統領が左派系出自でも口が軽すぎるから、外交関係で信頼を失う。国を代表するプレジデント自身が饒舌なアジテーターでは困ったこと、内政固めが理由であるとは言え、意見がころころと変わるようでは外交は覚束ない。財閥優先の歪みを正せない、結果:国際政治の「諒解関係」は成り立たない。「士太夫」不在が天下の分かれ目、中国と韓国の決定的差分である。
中国禅は朝鮮半島を素通りし、鎌倉時代の日本に定着する。達磨の禅(「安心壁観」)は国際平和の良心、シングラリティーの懺悔式に結実する。ヴェーバーの『理解社会学』は、諒解し懺悔する良心の証である。もっとも、アメリカ合衆国のドナルド・トランプや日本の安倍晋三がその良心を代表するとはとても言えない。次世代の士太夫(しだゆう、ドイツ語でリテラーテン、文士)たる、大学生読者の君たち自身が問われ求められている!
19月30日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, the Institute for Interpretaitive Sociology Tokyo、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2019年8月1日木曜日

裂け目を繕えない、隣国のジレンマを理解する

戦後七十年過ぎても隣国は戦争状態、はったりでも言わないと負け組に、当局も勝ち組の闇市場に打つ手なし、裂け目を繕えず満身創痍のお国事情につける特効薬なし、せっかくの教会法も私事の慰め事に終始、期待される公共の精神も空回り、国際法順守も抜け穴ばかり、嘘でも自己主張しないと周りに潰される。島々の実効支配で虚勢を張るのみ。内戦状態の諸国に、拉致問題は優先的関心事でない、良心に訴える仕方は効き目がない。南北の戦争状態に南南の内戦状態を終わらせる、幾何学的精神はないものか。サムソンなど国営大企業の操作情報に耳を貸さず、疼く己の良心を問い直せ。神もしくは自然のコナトス倫理(スピノザ)が要請される。
就職難で苦しむ韓国の若年世代に提言したい。己のジレンマを因果関係から理解し、見事な神の定式とまで言わずとも、心身を無に晒して饒舌を絶ち、碧眼を以て自ら神即自然の絆となれや。ヒント:禅仏教でコナトスは胎蔵識。キリスト教で魂は自分の内なる子、誇りを捨て心を貧しくしないと、魂に神は宿らず子は誕生しない。結果:永劫に安心の家郷は見つからない。
蛇足:自民党の政策運営が由々しきことは周知の上、それ以上に韓国の反日政策の偏り(不信感の種を蒔いた自己責任は言及されず反省もなく、輸出管理の厳格化によりホワイト国の優遇措置を改め韓国が除外されるまで話が拗れるも後の祭り、不利益の結果に大慌てし責任を他国のせいにするのでは、言行の辻褄が合わない)、ポピュリズムの齎した自己矛盾は目を覆うばかり。日中間の貿易摩擦に加え、日韓の争点を新たな軋轢と戦争の口実としないために、日韓交流の文芸復興に達摩宗の宗教改革を梃子とする、若者世代のプロテスタント的意識改革と奮起を期待したい。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyright © all reserved 2019, the Insttitute for Interpretative Sociology Tokyo

2019年7月31日水曜日

巣の温もりに翼を得て、さまよう子らが家郷を見出せるように

「巣の温もりが翼をくれる。」とは、温もりがないと硬い殻を割れず、翼がないと巣立ちできないから。更に一歩踏み込んで、「あなたの内に宿る子供の家郷を探し求めよ。」とは、ドイツの女性心理学者シュテファニー・シュタールの書物に一貫する命題。発達障害に悩む子らに適格なアドバイスを与えている。巣立ちに翼を・自分の内にいる子に家郷をとの発想は、人格心理学や社会心理学の領野に限定されない。広く政治社会の分野にもアニメイト可能な願い事を、波形のイメージで追認し共有できる。
例えば、個の尊重と人権の保障がデモクラシーの風土を培い、言論の自由と信教の自由が資本主義の精神を温める。見えざる精神は翼を得て不在の仕方で働くもの、派生態とはそこが違う。唯物論的簒奪に終始する共産党独裁下の資本主義システム、トータリズムの国家主導型資本主義との決定的差異を見せつける。
昨今の香港に息づくプロテスタント的抵抗精神を風前の灯火とするな。イソップの童話にあるように、赤ずきんちゃんは、訪れた狼の足元を見て扉を叩く存在の正体を見破る。良心の証として何ものをも寄せ付けない、彼らこそ日中韓の若者たちが学ぶべき自己肯定のモデルではないか。自己肯定に自信がないから現状維持に票を投じるだけの若年世代に、存在への勇気を与える。籠る自分の殻を破り捨て、安心して社会の障壁を跳び越える、自立のチャンスとなろう。
シュテファニー・シュタールの原書はドイツ語、現在鋭意翻訳中。理解社会学研究所主催の読書会で取り上げる予定。テクストはコピーして手渡すが、ドイツ語が分からなくてもいい。参加して突破の手掛かりにしてほしい。受講無料。受付開始。場所と日時は選定中(東武線とうきょうスカイツリーラインの獨協大学前にあるカフェーOB松原店か、公団三郷の第一集会所)、シフト労働のために土曜日と日曜日が使えず、第一水曜日か第三木曜日夜19時半以降を予定。受講者の希望を聞き、個別の相談に応じる。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved 2019, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo

2019年7月4日木曜日

乱世に生きて己を全うする、してその心は

米中の貿易戦争に歯止めなく、鬩ぎ合う乱世に心すべきこと、雄弁に世界を語る言葉が軽すぎて、重圧を受け生息吐息の傷心に釣り合わぬ。軋む音色はノイズばかり、それより遊び心で謳いあげ、曇天の霞を吹っ飛ばせ。「一と言わば二を出さん、二と言わば一を出さん。」(江戸の『達磨出生記』より)。引っ越し先で、「達磨さん転んだ」と歌う母子あり、思わず頬が緩む。達磨歌に拳遊び、七転び八起きして、内心外心の偏りを正すのみ。遊び心が縁結び、歴代禪師の中で果敢に正偏(しょうへん)を問い質す、洞山五位説は偶然でない[1]、今日の脳神経科学で立証済み。
貧窮しても不惑の人、無心は見せ球でない、「反骨精神」(水上勉)を以て軸ぶれせず。兵法の他にトランプ氏が中国に学ぶべきこと、中国禅は安心壁観にルート持つ、対話問答のマイスター。上昇下降の動態に平常心失わず、自ら遜ってこそ芯は燃え光を放つ。『十牛図』と『無心』(鈴木大拙)はお勧めの必読本。共産党独裁の国家資本主義批判はその後でいい。資本主義の精神を欠落させたままで、改革派を装う赤装束の擬制はすでに綻びを見せ始めており、補助金をばらまき党員の利回りに腐心して体制維持に成功しても、下層農民たちは相変わらず蚊帳の外、いずれ自己破綻するか自壊するを免れない。ただ、中国政府は貧困対策として大規模な移住計画を実行中、プロパガンダとの噂あり焼け石に水という話も聞かれるが、その成果次第で評価も変わろう。トランプ氏が中国禅に学んで自ら変貌し、アメリカ合衆国の未来を変える可能性を排除しない。同じことが習近平氏についても言えるが、安倍晋三氏については残念ながら当たりそうな予感がしない(のは私だけだろうか?読者に聴きたい)。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)

 




[1] 洞山五位説、洞山和尚は曹洞宗の禅師。法界を偏(差別。現象。事)と正(平等。経験以前のもの。理)に分け、これを組み合わせた五つの形式(五位)で平等と差別のあり様を説明したもの、平等=無差別の世界を明らかにすることを最終目的とする。

2019年6月6日木曜日

近すぎて見えない、8050問題の地平

会社の上下関係や師弟関係と異なり、親子や夫婦の関係では、近すぎて見えないから悲劇を生む、他者性の視点欠落が顕著だ。何時迄も睦まじく尊敬しあう関係を維持するには、世代間で違う価値観を押し付けない、端的に「わたしは理解したい」(ハンナ・アーレント)、その一心で突破できる。お喋りでない、討議することでもない。「理解」を欲する処から、対話が始まる。他者として相手を敬う感覚が沈黙の帳を開き、自閉し内に籠る硬い殻を内から自然に破らせる。病んだ心を理解し諒解する経験は、相手の目線で対話するだけでも十分でない、対話は隔たりのあるコミュニケーション行為、さしあたり自己内対話(丸山眞男)で始める。自分を受け入れて強がらず弱音を吐かず、あえて心を障壁の如くするには及ばない。
壁観して安心無為、誰をも怨訴せず、怨を体して進むのみ(ダルマ『二入四行論』)、神即無に理解(心識)が達すると、神即自然の道が向こうから開ける、心即是仏の観心道に、父を忘れ逃走しないために心の覚書(神秀)、真影(仏影)が見つかるまで時を惜しまず。祖師ダルマ自身の言葉に注目、「我は昔より・・・」の懺悔告白が成実、何ものにも依存しない、何ものをも寄せ付けない、師に会えば師を殺し、親に会えば親を殺す(大東国師)、親なるは神、父は十字街路で出くわす親爺でもいい。それが誰のことかと名乗らせるまでもない。捨てられる前に自ら捨てると気取るまでもない、出自を捨て出立する覚悟が求められる。物騒な話だが、禅では立派な自立の証である。
八十歳代の親たちに五十歳代の子らが同居する、いわゆるパラサイトシングルの諸問題も同じ。違いがあるとすれば、年金暮らしの親世代への経済的依存が自立を妨げていることに気づくのが遅すぎること、過度の庇護が仕事探しに障害となっていよう。親鳥は、ある程度成長した小鳥を見放す、エサは自分で探せとばかりに巣から蹴落とすではないか。乳離れ・巣立ちが極端に遅いのが人類(ホモサピエンス)の特徴だと、居直っているわけにはいくまい。
仕事がないのではなく、誇り高き自分にふさわしい仕事が見当たらないだけのこと。国民の八割から九割近くが農民だった江戸時代と異なり、今日では農民は全国民の0.3%に過ぎない。大地の実りを享受する第一次産業の仕事(3K)を嫌がる人ばかりで、周りは皆と同じ第三次産業のホワイトカラー志望か、第四次産業で製造業がサービス業に変身、平均化されて久しい。再出発にジャンルを選ばず、スタートアップに業種を選ばない、偏りを正し脱自するチャンス、果敢にチャレンジしてほしいところだが、実際は、理想とは裏腹に、第四次産業革命後はIoTが売り物だが、スマホを片手に路頭に迷う人ばかり。地の利便性(コンビニエンシー)を享受して譲らず、自動化に伴う自己破綻のリスクが一挙に増え、不幸な殺傷事件が度重なる今日、考えることを面倒がるともう先行きがない。考えるだけで実践しないと奥行きがない。心(ラテン語でアニマ)がフラットでは、アニメーションのネタにもならない。老若男女を問わない、敬い愛すればこそ、屈折し動転する心を捉えるホモサピエンスの基本技法は、ずばり「わたしは理解したい」(アーレント)との告白で始まること、理解心理学(ヤスパース)や理解社会学(マックス・ヴェーバー)が諸君に水先案内をしてくれよう。
6月22日更新

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)

2019年5月5日日曜日

元号「令和」の真意とコード化をめぐる喧噪

元号「令和」の考案者とみられている国文学者の中西進氏は、54日(土)、富山市内で講演し、「元号は国の理想を掲げるもので、国民の倫理コードだ」と語った。典拠とされる万葉集が講演のテーマで、中西氏は元号の歴史や込められた意味なども解説。「令和」については、「『令』は秩序を持った美しさ、麗しいという意味」とし、「麗しく平和をグレードアップさせていく時代」と述べたそうだ。案の定である。やはりの勘があたった。「令月にして気淑く風和らぐ」とは、オブラートのようなものである。
倫理コードとは危なかしい。せいぜい国民生活を律する管理コードの類では。思い返せば、聖徳太子の「律令」(りつりょう)政治に「和」の心得、官僚へ自戒を促すもの。令和(れいわ)時代の心が何かを考えるに、最良のヒントになろう。『万葉集』から取られた令和は、花見の盃を交わす謡言葉。「れい」は「りょう」とも読む。読み替えは詠み人の自由だが、本来官僚に向けて語られた謡言葉だから、政治的「諒解」(りょうかい)の範囲内で、実はどちらでもでいい。明治維新の王政復古と尊王攘夷の調べに怪しく鳴り響く、キング或いはエンペラーの象徴化に宗教的権威(万世一系)の影が見え隠れする。信教の自由を脅かしかねない、公私混同の危うさを免れないから、国民には冷静な判断と良心の問い合わせが必要となる。
当初、語感からドイツの諺を思い出した経緯がある。その通りだった。わたしの書斎に、ドイツから持ち帰ったポスターが貼ってある。ポスターには、“Ordnungssinn bringt stets Gewinn“の大見出し。直訳すると、「秩序のセンスが常に利をもたらす」。手前には、「立ち入り禁止」や「敷地内でのボール遊びは禁止」との注意書きが、所狭しとばかりに吹き出し状でぶら下がっている。利は公私に跨る余剰の利、つまり福利である。福利はオーダーを守るマナーあってのご褒美、スマートな快適さは廻心の美。為政者の喜びそうな標語だが、利根と鈍根の仕分けは難しく、エピキュリアニズムとポピュリズムの敷居は限りなく不透明、人の柵(しがらみ)は断ちがたく根は深い。民衆の心根に係わることは、ずばり平方根を解くようにはいかない。主権者たる国民は、古層の「通奏低音」(丸山眞男)に注意すること、自らのアイデンティティーに係わることであればなおのこと、よく考えて取り組むたたき台としてもらいたい。5月9日更新

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)

2019年4月25日木曜日

アナログとデジタル、文化記号として捉え直すと(一)

いまさら聞けない、アナログとデジタルの違い。繊細なる幾何学的精神で問題を整理してみたい。新たなルーティングによる、断捨離の始まりを宣言する。アナログとデジタルは排他的関係にない、イメージ変換の仕方が違うのみ、一部が重なる点に注目。

1.      アナログは「類似の」、述語部で「類似した」イメージ、動詞形で「類推する」。言語学でアナロギーは「類同形」、記号学では「類似記号」、アナログイメージは集合性を見たままに処理可能な「計量型」、アナログ方式の相似モデルはリニアル(連続的)で表示、例えば時計の針のように、変化量を連続的に示す。和声や楽曲はウェーヴ、(波動イメージ)。自然言語の特徴は連続性:感性と理性は連続して一体をなし、連続しない離散したものは数値化(量子化)されない、自然界・生物界の生き物はすべてこれ、一つとして同じものはない。親子・兄弟姉妹のケースでは類似性あるのみ、芸術作品は同じだと贋作とみなされる。古来日本における神仏習合はワークシェアリング、コアにおいて働きがシェアされる。反面、アナログの欠点は差別化の温床ともなる。
2.      デジタルは「指の」、「指による」値の計数化、記号学では指標記号、デジタルイメージは「計数型」、デジタル方式の合同モデルはディスクレート(不連続)、機械言語の特徴:バイナリモードで数値化(量子化)される、プログラミングの二進法は方法論的に二分割する表象文化のツール。ハードウェアであれソフトウェアであれ、ハイテクノロジーモデルの製品は非人格的規格、不連続の対象物を排除する。理由:同一規格でないと量産化できない、再現可能でないと客観的に評価されない、交換可能でないと製品は売れない・市場に流通しない、相似モデルは贋作と見なされる。深層学習するも、AIの自動化モデルは所詮真似事に過ぎない。デジタルの欠点は不測の事態に対応できない。
3.アナログとデジタルの違いは、アナログ時計とデジタル時計の差で一目瞭然、前者は指に代えて針を使うが、シグナルは時計回りに滑らかな曲線で見た目にやさしく直感的、後者は凹凸で描画される点が違う。アナログ系シグナルには段差がなく、無限に正確な角度周りの時間経過情報をイメージ通りに提供する。他方、デジタル系シグナルでは、集積回路の配線具合が正確な数値でよくわかる。それぞれに利点と不便さあり、目的次第で使い勝手の利便性が異なる。ただ、思い出のアナログイメージが消失しても、デジタルは陰影からISOのディスクイメージとして保存し随時再現することができる。

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)

2019年4月5日金曜日

二〇一九年度掲示板第一号

 最近ブロガーの記述に変更が生じているようなので、読者に注意を促しておきたい。なぜか投稿者がすべて「Unknown」となっています。本来は、ブログの編集者であり執筆者が投稿したものなので、Shigfried Mayer(宮村重徳)となります。著作権の問題とかかわるので、とても重要です。引用される際には、今後ブログ執筆者のシグフリード・マイヤーを必ず明記するか、本命(宮村重徳)を併記してくださるようお願いいたします。

2019年4月1日月曜日

我々は対話である。引きこもり中高年六十一万の友へ


 平成最後の331日(日曜日)、NHKを初め新聞各紙に衝撃的なニュースが瞬く間に広がった。調査の結果は、中高年の引きこもりが全国で六十一万人に上り、大半は男性で占められ、若年層の数を上回ったという。引きこもり症候群を含めると、総数は百万人にも及ぶ。退職が第一原因で、パラサイトの子が同居するケースが絡むことらしい。対話の糸口が見当たらない、核家族化に歯止めを失い、一緒にいてもつながっていない、個が行き場なく落ち着き先を見失ったことは、就職氷河期を体験した団塊世代のジュニアに特異な現象であると、他人ごとに言ってすまされない。
 「我々は対話である」とは、ドイツの詩人ヘルダーリンの言葉。中高年の引きこもりに苦しむ六十一万人の我が友よ。子らとともに今一度言葉の意味をかみしめて、見失われた存在の原点に立ち戻り、対話的存在の地平を取り戻すことにしたい。友よ、忘れてはいない、沈黙もまた対話的存在の大事な構成要件である。令和元年5月12日更新

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)


                                        

2019年3月20日水曜日

嵐の中で拠点移動、電脳システムのリスクを乗り越える

まず、一月以来ブログの更新ができなかった事情を説明し、読者にお詫びしたい。引っ越し作業でダメージを受けたコンピューター・システム環境、中でもハード・ディスクのメンテナンスに一か月を要した。個人設定ファイルを確保し完全移行するために、システム7からシステム10へアップグレードを試みた。しかし嵐の中での拠点移動である。何が起きてもおかしくない。電波が届かず、文明の利器スマートフォンは使用不可の状況下で、作業に難儀を要した。揺れ止まぬ箱舟の最上階から荒む海上に振り落とされ、漂流してはや一か月が経過した。疾風怒濤の嵐の中、もはや手漕ぎではどうにもならぬ。すでに方向舵は折れ、考える我(近代理性)は深海の淵にさまよった後、深海の小魚になりきって、無に重心を取り海面に浮上して遊泳するが、心は木の葉のように揺れて波間に浮沈する。それでも、システム7の復元(現状回復)とハードディスク内外のトラブルを自力で処理できたのは不幸中の幸い。個人設定を含むデータを復元し、三十年をかけて作成してきた文書ファイルを自力で確保できたのはうれしい。しかし、ハードディスクのクローンを作ってもディスク・エラーが出る。安心のバックアップが欲しいところだが、いかんせん先行きは不透明。
電脳システムのリスク(危弱性)を乗り越えようとしても羅針盤は失われ、暗中模索を余儀なくされた。もはや小舟一艘(個人の力)ではいかんともしがたく、藁をも掴む思いで「ファイナル・パソコン引っ越し」の救助船(AOSデータ)に助けを求める。しかし、スリープ状態に陥り画面が戻らない。事前に電源廻りの設定変更をし忘れていたせいだと気づく。それでも、Ctr+Alt+Del, Ctr+Windows+Shift+B を繰り返すうちに、やっとサインインの画面が表示された。早速、スリープオフを実行。トラック積み込み作業に3時間を要したが、これでOKではなかった。積み込みは完了したが、システム10への荷降ろしがうまくいかない。マニュアル指定の「本ソフト」とは ”pcmover.exe” らしい。新しいパソコンへのデータの引っ越しに、ファイナルステージのプログラムを起動。トラックへの「積み込み」には成功したが、二度目の「荷降ろし」に失敗。「元にもどす」選択肢しかない。元にもどしても、ファイナルパソコン引っ越しプログラムをアンインストールし再導入しても、システム10のディスクトップに積荷情報の保存ファイルをコピーし荷降ろしを試みても、結果は変わらず困惑する。原因は、荷下ろしをする人が積み荷をした本人と同じでないからだとわかる。あと一ひねりの工夫で解決しそうだ。
心配事がなかったわけではない。ピュア・インストールしたシステム10では、わたしが長く頼みとしてきたノートンの再導入ができず安全保障が働かない(ように見えた)。アップグレードに迷うのは当然であろう。試しに、まずはログイン情報を調整し整合性を正した上で、稼働中の三台を無線(WiFi)で繋いでみた。すると、システム7の原状回復に成功しただけでない。システム710にアップグレードされており、ノートンの製品を含むすべての個人設定が受け継がれていることに気づく。メール環境の復元とシステム全体のバックアップにも成功。AOSの覿面効果を確認した。感謝したい。心配していたディスク・エラーも、何度も繰り返す内に出なくなった。医者に見放され余命数か月との宣告にもかかわらず、愛機のミューズは野鹿のように躍動している。システムも安定している。驚きの連続である。教訓:自己同一性と差異性に繊細なる精神を働かせよ。

作成者:Shigfried Mayer(宮村重徳)
日付:2019321日(木曜日)

2019年1月1日火曜日

年頭所感:宗教と哲学を埋没させない、改革精神を掘り起こす年に

いまさら聞けない、アナログとデジタルの違い。繊細なる幾何学的精神で問題を整理してみたい。新たなルーティングによる、断捨離の始まりを宣言する。アナログとデジタルは排他的関係にない、イメージ変換の仕方が違うのみ、一部が重なる点に注目。

1.      アナログは「類似の」、述語部で「類似した」イメージ、動詞形で「類推する」。言語学でアナロギーは「類同形」、記号学では「類似記号」、アナログイメージは集合性を見たままに処理可能な「計量型」、アナログ方式の相似モデルはリニアル(連続的)で表示、例えば時計の針のように、変化量を連続的に示す。和声や楽曲はウェーヴ、(波動イメージ)。自然言語の特徴は連続性:感性と理性は連続して一体をなし、連続しない離散したものは数値化(量子化)されない、自然界・生物界の生き物はすべてこれ、一つとして同じものはない。親子・兄弟姉妹のケースでは類似性あるのみ、芸術作品は同じだと贋作とみなされる。古来日本における神仏習合はワークシェアリング、コアにおいて働きがシェアされる。反面、アナログの欠点は差別化の温床ともなる。
2.      デジタルは「指の」、「指による」値の計数化、記号学では指標記号、デジタルイメージは「計数型」、デジタル方式の合同モデルはディスクレート(不連続)、機械言語の特徴:バイナリモードで数値化(量子化)される、プログラミングの二進法は方法論的に二分割する表象文化のツール。ハードウェアであれソフトウェアであれ、ハイテクノロジーモデルの製品は非人格的規格、不連続の対象物を排除する。理由:同一規格でないと量産化できない、再現可能でないと客観的に評価されない、交換可能でないと製品は売れない・市場に流通しない、相似モデルは贋作と見なされる。深層学習するも、AIの自動化モデルは所詮真似事に過ぎない。デジタルの欠点は不測の事態に対応できない。
3.アナログとデジタルの違いは、アナログ時計とデジタル時計の差で一目瞭然、前者は指に代えて針を使うが、シグナルは時計回りに滑らかな曲線で見た目にやさしく直感的、後者は凹凸で描画される点が違う。アナログ系シグナルには段差がなく、無限に正確な角度周りの時間経過情報をイメージ通りに提供する。他方、デジタル系シグナルでは、集積回路の配線具合が正確な数値でよくわかる。それぞれに利点と不便さあり、目的次第で使い勝手の利便性が異なる。ただ、思い出のアナログイメージが消失しても、デジタルは陰影からISOのディスクイメージとして保存し随時再現することができる。

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2019, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)