2010年10月21日木曜日

働きバチと職場のハナ、格差是正の地平に臨む

Arbeiterbiene und Blumenwesen am Platz
【2013年2月17日更新】
 戦後生まれの団塊世代は働きバチ(Arbeiterbiene)である。小林多喜二の『蟹工船』(1929年)を引き合いに出すまでもなく、戦後世代を担い復興期の立役者となった男たち(M)の働きが大きい。彼らを抜きて日本の再建は語れない。高度経済成長の担い手として国際的に評価が高いとしても、下支えした無名群像の存在と共働きの過去を忘れてはなるまい。働く女性(F)が、職場の花(Dekorative Rolle der strahlenden Blumen am Arbeitsplatz)に甘んじる立場を拒否し、医者や教師また物書きとなり、国際標準からするとまだかなり低いが、最近では中間管理職に付く人も多くなった。それでも、MFの格差と不均等は是正されていない。変化の発端は、1972年に男女雇用機会均等法が制定され、女性に対する労働上の差別をなくすために為された一連の法改正である。ブッティックや自営業の主となって、本格的に社会のフロントで活躍するようになるのは、1980年より以降である。意識改革の萌芽はすでに大正デモクラシー前後に見受けられる(例えば、平塚らいてう)。それ以来戦後60年の今日に至るまで、自己意識の向上は目覚ましい。
 私が大学三年生の当時(1973年)、習いたてのドイツ語で「君は薔薇だ」と言うと、(お世辞ではなく、褒めたつもりだったのだが、運悪くドイツ語が分かったらしく)、「私は花ではない、人間です!」としっぺ返しを食らったことがある(赤面)。お灸を据えるきつい言葉にも、笑みを湛えて答えてくれたのが、せめてもの救いだった。確かに、働く自分は人間であって、蜂でないし花でもない。人(ペルソーナ)の働きをメタファーで語るに、ジェンダーの区別・色分けは不要だろうか。垣根を越え世代を越えて、ジェンダー・メタファー(gender metaphor)は働くモノの人格性・尊厳性を、言葉の栞にして密かに語り始める。
 「ユダヤ人問題」がそうであったように、決して余剰(おまけ)として「女性問題」があるのではない。啓蒙主義の受容期に於いて、国家事業の本予算に対して文化や厚生事業の特別会計を設ける余裕など全く無かったとみえる。福沢諭吉や中江兆民等の「天賦人権思想」に於いても然り、あってもせいぜい、伊藤博文第一次内閣の初代文部大臣を務めた森有正の「良妻賢母教育」レベルである。経済不況から戦争特需へと突っ走るその後の世代に、とりわけジェンダーとの関連で、「啓蒙とは何か」を根詰めて考えた日本人は皆無である。ルソーの『社会契約論』(中江訳)は一部で読まれても、 自立を勧めたカントの『啓蒙とは何か』、働く女性の人権に係わる『道徳形而上学的原論』が読まれた形跡はどこにもない。日本にカントを最初に紹介した天野貞祐(獨協大学の初代学長)でさえ、三大批判書を一部翻訳はしたが、この二書については白紙である。天野と親交のあった羽仁もと子はクリスチャン、自由学園の創設者となり、日本初の女性ジャーナリストとして、あるいは読んでいたかも知れない(つまり、予想の範囲を超えない)。
 近代に於いてさえこの始末、それでもカントと取り組んだ女性がいなかったわけではあるまい。しかしはっきりとしない。言論界の状況は昔も今も相変わらず、カントが手厳しく言うところの、自分の言葉で話せない(unmündig)・自分の悟性を使わない、参考書や翻訳書を鵜呑みにした引用三昧で疑うことがない、男女を問わず相変わらず「後見人」に依存し自分を丸投げした「未成年状態」(Unmündigkeit)ではないのか。古代史については尚更のこと、ないない尽くしの「女性問題」のルートを探すに、ジェンダー・メタファーが唯一のヒントまた貴重な手掛かりとなろう。歴史から抹殺されたか、忘れられて「すでに無い」ものが、「まだ無い」仕方で自らを語り聞かせる、資本主義社会に於いて「諒解」可能な社会的人格(Sozial-Person)は、次世代を担う君たちのシャンス(可能性)となる。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2010年10月18日月曜日

対話の文法、社会学のジレンマ

Grammatik des Dialogs, Dilenmma der Soziologie
 ハーバード大学のサンデル教授の講義(「これからの正義」)が話題になっている。その真骨頂は「対話型」である。「解釈学とは、対話の技法である」としたシュライエルマッハーがこれに先行する。違いは、後者がプラトン哲学をモデルとしているのに対して、サンデルがアリストテレスの哲学倫理をモデルとしていること。程度の差はあれ、政治と道徳のジレンマを解き明かす手法、ソクラテス的対話術を導入する点では共通する。映像メディアで公開された東大安田講堂での講義及びインタビューを聴いて、なるほどと頷かれた人も多いだろう。発言者の名前を逐一確認しながら、対話的に論点を積み重ね、ジレンマ解明への道筋を開示する仕方は、教師の理想である。私には、中でも彼が日本人の聴衆を意識して、さり気なく助言した次の言葉が、印象に残った。「二人称では相手(個人)を傷つけるから、一般的な話(間接批判の形)にしてはどうか。あなたの意見を第三者の議論にしてごらんなさい」。第三者の議論とは第三人称で語る・語らせること、第二人称では角が立つから、敢えて第三人称で語る仕方で相手の意見を評価することである。反対に、第三者であるかのように、第三者のそれとして聞く・聞かせると言い換えてもいい。それが印欧語文化圏の敬語法である。
 例えば古来印欧語には、親称のdu(君)に代えて敬称のSie(貴方)を使う習慣があるが、元は第三人称複数形の sie(彼ら)を転用し大文字にしただけのこと(英語のThou, Thy, Theeも同じルート)。身分社会の言語仕様と言うより、第三者の議論はマスメディアが垂れ流す過剰な情報を鵜呑みにすれば、「カオスの海」に浮沈する他ない今日だからこそ必要とされる、一般社会言論の標準的な評価仕様である点に注目しておきたい。諄いようだが、第三人称で語る・語らせることが、話し相手を敬い客観的に評価するシャンス(可能性)を分け合うことになるのである。人権思想に於いて然り、言論の自由を言う前にしかと考えておくべきだろう。先のブログ(「働くモノと自分のこと」)で、自己や自分が第三者の扱いであり、社会経済を仕切る「諒解」関係が第三人称複数形の世界に於いて成り立つことを強く示唆しておいたのも、その理由からである。歴史に於いて働くモノは、第一人称や第二人称世界(我と汝)の主観的意味を第三人称で語らせることで因果関係的に解明され、更に行為者(発話者)の目的合理性が客観的・経験的に妥当な諒解関係の形になっているかどうかで、行為の明証性・整合性を互いに問わせる。
 批判する言葉が刺々しく感情的になり、誹謗・罵倒の言葉を浴びせかけて、論争相手の人格を否定する結果にまで及ぶのは、感情豊かな日本語の世界に第三者の議論(社会言論は基本的に第三人称)の視野が欠けているか、理解が不十分なせいであろう。批判する行為は理性の要件、相手の言い分を分別し真偽や善し悪しを判断するに、悟性が使用される。人間の悟性や理性は、啓蒙主義を唱える者たちが神という親を離れて独り立ちし、聖職者や教会という後見人無しに自らを成人と見なし自立を宣言するに至ったときの、考える自分の秤縄であった。しかし、カントは『啓蒙とは何か』で当の啓蒙主義者たちが「未成年状態」を自ら招いたと厳しく批判する。これについては次回のブログで詳しく語ることにする。今はなぜ日本社会の言論人乃至言論界(ジャーナリズム)が、明治維新期の先達たちの啓蒙主義(ほとんど教養主義に近い)に習いつつも話し言葉で躓き、いまだに言論に対して未熟な「未成年状態」を脱し得ないのか、各々自分の胸に手を当てて考えてみるべき時だ。啓蒙主義に相対する立場は反啓蒙主義であるが、著作家に共感する文化人や文芸批評家たちはすべて後者に属する。「冷たい理性」に対して「感情文化」を対置させ競わせた歴史的経緯が、イデオロギー的に先鋭化した対立の深刻さを物語る。学生読者には、ヴォルフ・レペニースの『三つの文化』をお勧めする。邦訳者が付けた副題は意訳としても、「仏・英・独の比較文学」では誤解も甚だしい。問われているのは比較文学の類ではない、むしろ厳密な意味で「文学と科学の狭間にある社会学」のジレンマ!である。自然科学と精神科学という「二つの文化」論(スノー)に対して、レペニースはためらわずドイツの社会学思想を「三つ目の文化」と呼ぶ。実は、ヴェーバー(「理解社会学のカテゴリー」、「職業としての政治」)が氏の念頭にある。国会議員の諸君も、ぜひこれらを買い求めて精読して欲しい。政治的な善悪判断に予約された諒解関係を批判的に解明することで、社会正義のジレンマを討議的に紐解く仕方、第三者の目線でする冷静且つ妥当な議論の交わし方を学習してもらいたい。ニーチェが『善悪の彼岸』で言いたかったことも、そこから自ずと理解されよう。
  Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2010年10月6日水曜日

語るモノを失くしたヒトの群像、働き蜂の失踪事件

Was "es" an uns wirkt, und das verstummte Selbst ist

【2013年2月17日更新】
  働き蜂の失踪事件は、人間社会への警鐘だろう。高齢者の失踪(所在不明発覚)事件は、君たち若い世代の明日を予告する。一方に、就職未定で悩む自分がいる。他方、長い就職活動で苦労した末にやっと得た職場なのに、うまくいかない・おもしろくない・こんなのやっておれるかとキレる自分がいる。ミスマッチで悩んだり仕事を放り出したりする前に、友よ、今一度自分とは何かを考えてみて欲しい。日本語では話し手自身のことを「自分は」と表現する習慣がある。「俺は、私は」と我(ego)を主張することが憚れるせいだろうか、人称関係は不透明且つ曖昧である。聞き手を強く意識した「二項関係」(森有正)のせいだろうか、第三者の介入が嫌われる。
 印欧語で自分(Self, Selbst)は指示代名詞の同一なるモノ(das-selbe)に由来し、第三者の扱いである。人称代名詞に併記してその人自身の同一性が、主語と連動して再帰代名詞(sich)が使用されるとき、働くモノとの自己同一性が問われる。派遣されて働くヒトが苦しむのは、わたしは人(Person)であって物(Ding)ではないぞという、譲れない熱い思いからであろう。会社や団体組織で働くことに抵抗を感じフリーターである道を選ぶ人も、就職未定者を含めすでに内定を得た人も、よく考えないと、自己の余剰を捨てきれず持て余すことになる。自己とは元々関係概念なので、社会的人格と内奥的人格の間の「狭い尾根」に、君自身の現存在(居場所)を見つけなければいけない。たとえ運良く内定を得ても安心してはいけない。社会人であろうとすると、社会が機械的な歯車のようにではない、幾重もの見えざる「諒解」関係で束ねられていることに気づかされよう。
 マックス・ヴェーバーが言っているように、社会には「他の人々が予想を立ててすることに準拠して(私たちが)行為すれば、その予想の通りになるシャンス(可能性)が経験的に妥当しているということがある。それは、他の人々がその様な予想を、協定が無いにもかかわらず、自分にとって(主観的)意味の上で妥当なものとして実際に扱うであろうという蓋然性が、客観的に存在しているという理由からである」(私訳)。ここで、第三人称世界の「諒解」関係が議論になっている。もちろん、働くモノは「暗黙の了解」として鵜呑みにされる物ではなく、「諒解の妥当」を求めて取り組むべき働くヒト自身の主観的原理、いわゆる「格率」(Maxime)の問題となる。先行き不透明な21世紀の資本主義社会で働こうとすれば、働くモノに成りきるかマスクして成り済ますか、いずれにせよ人格性と非人格化の要件は避けて通れない。マルクスをフォイエルバッハとの関連で読み直すこと、カント(『道徳形而上学原論』)とヴェーバー(『理解社会学のカテゴリー』)の読み直しは尚更に必須、形見放さず君の座右の書にして、働く自分の考えるヒントにして欲しい。(プロテスタンティズムの禁欲主義的倫理に始まる)資本主義の精神は、不在の仕方でこそ生きて働くモノだから。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku