2011年11月22日火曜日

時に重さがあるか、エスの天秤にかけると…

Ob und wie die Zeit zu wiegen ist, die Rede vom "Es", was an und in uns wirkt. 
【12月07日(水)更新、改題・改訂、一部カット】
 周知のように、気象を含む自然現象の主語は、神話の主(神々)でなくエス(es, it)である。物理現象の因果関係に、起成因以外の説明は不要なので、非人称で中性名詞のエスが使用される。津波を伴い原発事故にまで及んだ今回の大地震は、通常海底プレートが移動する際の摩擦や歪みで生じたものと理解されている。最近では、地殻のマグマが対流を起こす結果だという新説が俄に注目されている。
 異常気象について最近の身近な例を挙げると、一方では北アルプスの立山連峰に氷河発見の報道(11月16日)があり、温暖化のせいで世界が氷河消滅の報道で沸き立つ中、今なぜ日本に氷河かと話題になっている。他方では、房総半島南部の館山の近海で珊瑚礁が発見され、年に14キロも北上したという報道(1月23日)が過去の記録を塗り替えている。そのいずれも、寒暖の差が産み出している「玉突き現象」である。
 自然には季節があり時間も繰り返すのみと理解されているが、自然の時間経過が必ずしも決まり切った循環(永劫回帰)を再現していないようにも見える点に、我々の関心が集まる。それでも、マクロ的にはそれぞれの起成因があり、すべてが熱エネルギー交換による必然の成り行きということになのだろうか。原子力発電の構想も核エネルギーの利用である限り、必然に端を発する多様な働き(過酷事件)に対応し得るかどうか、道具を使う人間の技量は、想定を超えて働くモノ(エス)の本質理解に於いて試される。技術開発による自然支配と征服という欲望にとりつかれた近代人(目的合理主義者)は、今一度、スピノザの世界(「神もしくは自然」)に学ぶよい機会かも知れない。
 さて、自然の時間経過と異なり、人間は固有のタイマー(時のセンサー)を持ち合わせており、自分を意識して対他的に語り振る舞う際の、言葉と行為の秤縄としている。たとえば、「光陰矢の如し」と言うは時の喩え、矢のように過ぎる時(光陰=日と月)は誰彼となく、ヒトに於いて働くモノ(エス)を内外に意識させる、光のメタファーである。存在の陰(影)を作るのは光だから、基本はバイナリーである。陰で量る日時計や慣用句の「お陰様」にして然り、バイナリー仕様のデジタルタイマーもまた、エスの働きを代行する妥当な時間算定システムとして、「手許存在」(Zuhandensein)を把握するに有用な道具と言えるだろう。
 過ぎ行く時の流れが早すぎて、「それ」(エス)は各自の悟性(理性や感性のフィルター)に言葉になる暇(いとま)を与えない。「秋もたけなわ」と感慨に耽り嘆息する間も与えず、唇寒し冬将軍の到来に慌てふためき、「何するモノぞ」と色めき恨み節を語る口実ともなる。猛暑の夏の後に極寒の冬到来で、春の息吹と秋の実りの時があまりに短く、気がついてみたら過ぎ去って其処にはない。四季が失せつつある変状を嘆くのは人間のみの語り草。「たけなわ」とは、比較的短い期間しか続かない状態を指して言われる、「酣」(酒に酔った気分で盛り上がる、酒宴のピーク、真っ盛り)或いは「闌」(尽き果てようとする、終わりに向かう、年の暮れ)と、二通りの漢字表記がある。酣や闌は音読みで同じカン、酣は今が「旬」、闌は今が盛りの「ピーク」を指す言葉、「今」は闌(訓読みで「たけなわ」)、ヒト(ペルソーナ)に於いて働くモノ(「それ」、非人称のエス)の秘密である。
哲学史上、時間はカテゴリーであり「直観の形式」であると、最初に定義したのはカントである。フッサールもこの点では変わらない。これに異議を申し立てたのが、プラグマティストで記号学者のチャールズ・サンダース・パースである。パースは「形式としての直観」を疑い、「直観ではない理解の様態」として「推論」を持ち出す。カント派の直観理解を否定し、「超越論的主体」に代えて個別の「経験的主体」を主張する点で他に例が無く、その是非はともかく(別途に論じることにして)、ソシュール以来の衝撃的なインパクトを私に与えた。議論の詳細は、サントリー学芸賞の対象となった菅野盾樹氏の『我、ものに遭う-世に住むことの解釈学』(新曜社、1983年)で確かめてもらいたい。重厚なドイツ系理想主義(観念論)哲学と異なる、フランス系哲学の軽快で自由闊達な思索を特徴としている。
いずれにしても、時間を刻む「もの」は、シンタックス上は非人称の主語エスに他ならない。カントやヘーゲル、マルクスやヴェーバー、フッサールやハイデガーの誰であれ、避けて通れない関門としてある。ブーバーが「根源語」としての『我と汝』(1923年)との関係でエスをネガティブに評価し、他方フロイトが神経医学的にポジティブに評価したエスは、万人に突きつけられた喉元の刃、患者が無意識に封印したモノが科学的に解明される(『夢判断』1900年)。今このブログを読んでいる君たちも、このエスの問題を避けては通れない。パースがこのフロイトを批判して、「夢見る」ことと「想像する」また「知覚する」ことの作用には、決定的な違いがあると主張する。実はこのエスは、対話の文法で露わとなるユダヤ的知性の秘密であり、これが意外にも現象学や社会学を含む諸科学が抱えるジレンマ解決へのヒントとなる。「神もしくは自然」・「神もしくは貨幣」という古典的モデルを解釈(非神話化・脱呪術化・脱構築)する際に、人格性(重さ)に対して非人格化(軽さ)の理解が常にネックとなっていた。働くモノとしての「それ」は、夢判断という深層心理学的な要件だけでは片付かない。私の関心としては、むしろ不在の仕方で働くモノ、つまり資本主義的精神の現象学、ひいては持論とするケノーシス論の要となる。
働くモノとヒトの理解は第三の解釈項にかかっており、根源関係を把握するには「解釈学的循環」を自ら敢行する真理論、個別には「存在の仕様・現存在の技法」(die Kunst des Daseins)が必要となる。したがって、あれかこれかの二者択一ではない。スピノザに於いては、「所産的自然」と「能産的自然」は同一なる実体(「神即自然」の存在≒働く物自体)の延長せる二つの属性であった。ギリシャ語からラテン語への翻訳がネックとなっていると、ハイデガーは『芸術作品の根源』(1935年)で指摘しているが、当然スピノザの古典的存在論もその視野にあろう。
カントは「物自体」を認識不可能としたが、ヒトに於いて働くモノの存在まで否定はしていない。それは働くモノの現象態であるから、フッサールにとっては現象学的認識の課題となる。パースの発問との調整は難題ではあるが、おそらく長山恵一氏が説かれる「理解社会学と精神科学(精神療法学)」の立場であれば、了解可能な接点を見出し得よう。
ところで、流れる時の速さに重さが関係していようか。通常、軽ければ流されやすく、身の軽さが見くびられたり軽くいなされたりする原因となるが、反対に重ければ流れが悪く、吹き溜まりとなるかいずれ渋滞する。時の流れの速さ遅さは、軽さ重さと無関係ではない。充実した時間であれば短く軽快に感じられ、退屈で空疎な時間帯は遅く鈍重に感じられる。では、時間は質量の問題でなく、感性が受容する意味論的仕様であると言えるだろうか。エスの天秤(Wiege vom Es)にかけると、確かに人の時には重さ・軽さの意味合いがある。因みに、天秤は「揺りかご」でもある。時の比重は人それぞれ、「臍の緒」の切り方で判明する。
別の例を挙げよう。君たちは口癖のように、「時間がない」と言う。しかし、公共の時間は万人平等に共通して与えられている。「時間がない」と感じるのは、自前(自由且つ気儘に)に使えるプライベートの時間がないという点で、主観的意味合いの時間、つまり余剰として楽しめる軽い時である。「時間は貨幣である」というフランクリンで言えば、貨幣がないか十分でないことが、自前(自由且つ気儘に)に使える時間がないという結論になるだろうか。逆に言えば、自前(自由且つ気儘に)に使える時間がないのは、貨幣がないか十分でないことに起因しようか。そのいずれも全くの間違いである。「時間は貨幣である」という考えは、時を惜しんで働くことには、それ相応の貨幣価値(重さ)があるからであり、時間を割いて働いて得た富を貯蓄しその富を選ぶ神に返すのだという、節約して旅装束の身を軽くする禁欲主義的生活態度に基づいている。
「イギリスのヘブライズム」として知られるこの考えが普及し定着するのは、アメリカ新大陸でのことだ。アダム・スミス流の功利主義的考え(道徳感情論)を脱し、「時間は貨幣で有る」と内外に宣言する。厳密には存在論的と言えないとしても、間接的な比喩的表現(重厚な寓喩や直喩)を好む牧師のバックスターと異なり、科学者・政治家のフランクリンは軽快なメタファー(隠喩)で語る。その語りは功利主義的ではない。「時間は貨幣で有る」とメタファーで語るその真意は、パース流の記号学的な再帰的自己の表現(理解の様態)と取るか、或いは理解社会学的に読んで初めて正しく解明できよう。確かに、「時」には体験や経験の重さが有る。時を遂行するエスは、上限・下限(言葉と無)に迫る際の大切な解釈の鍵を握る。詳細は分析済み、いずれ一般社会学言論講義で取り上げる。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年11月4日金曜日

君も輝きたいの?どうやって?-存在の明暗技法

Strahlen willst du. Wie aber ? - Über die Daseins-Kunst mit Licht und Schatten
【11月10日(木)更新、一部コンテンツの差し替え、「考えるヒント」補強】
おや、沈んでるね、就職活動がうまくいってないから?それでも君は輝きたい、んでしょう?何を輝かせるの?どうやって?誰であれ、いつまでも落ち込んだまま暗い顔している(niedergeschlagen sein)のは嫌だからね。通常ドイツ語ではシュトラーレン(strahlen、光るものを「放射する」)を使って、「彼は輝いている、目を輝かせている」(Er strahlt mit den Augen.)、またはアオフクレーレンを再帰的に用いて、「彼女の顔は、喜びのあまり輝いている」(Ihr Gesicht klärt sich vor Freude auf.)と表現されます。
後者の実例は、自分を啓蒙・啓発する、それまでの無知・蒙昧を自ら「啓き諭す・解き明かす」(sich aufklären)意味で、啓蒙主義運動のパロールにまで遡ります。アオフクレーレン(啓蒙する)とは、自己啓示する超自然的な神の光を否定し、自分の内にある「自然の光」(lumen naturae)を輝かせることです。曇り濁った悟性を「澄ます」という意味もあります。カントが「自分の悟性を使え」と言った背景には、自然の光に照らし合わせて自らの悟性(理解力)に目覚めた近代人が、その後正しい悟性使用を怠って陥っている、法的にも社会的にも未熟な無責任状態の事実関係が念頭にありました。
カントが言う「未成年状態」(Mündigkeit)を、私は常々社会言論上の「未熟さ」と関連付けて言い換えるようにしています。学生諸君も、耳にタコができるくらい聞いてうんざりしていることでしょうね(笑)。啓蒙主義の精神を口にする・唱えるだけで実は何もしない、革命後の社会的無策を弁解し、言論の自由を「無為」の口実にしていた人々が多くいたからです。折角の高価なメガネも、レンズが汚れ曇った状態では使い物になりませんね。かえって、見えるものまで曇らせるから。だから、レンズ磨きをスピノザが天職(Beruf)にしたのかどうかは不明ですが。
  カントの場合は、親離れの「成人宣言」(Mündigkeits-aufklärung)したのに自立できず、相変わらず「後見人」(聖職者、親や教師)に依存したままの(言葉を鵜呑みにしたままで、自分で味わい咀嚼していない、判断も他人任せで「自分の悟性を使用しない」)自称啓蒙主義者たちの言行不一致を手厳しく批判していますので、やはり広義の意味で「社会言論」(Sozial-Rede)が問題となっています。理性批判に於いても然り、カントの「理性」概念は、プラグマーティッシュな「言語活動」の含みを持っていることを忘れずに。
さて、学生諸君が自分も輝きたいと思うとき、何を輝かせるのか、どうやってそれが可能なのかをしっかりと考えてみる必要があります。輝かせようにも、光るモノが自分の内にないとあれば、如何ともし難い。面の上辺だけ化粧したり、自分のマスクをいくら上塗りしたりしても、骨折り損のくたびれもうけです(面接官はすでにお見通し、目が澄んでいるか濁っているかですぐわかる。「目は体の明かり・灯火」と言うとおり、マタイ5:15)。
「自然法」と共に「内なる自然」(「自然の精神」、シェリング)を発見したのは、誇り高き近代人(欧州人)の功績でしたが、自然にない(放射線状に光る)モノ造りで、今や抜き差しならない危機的状況に陥っていますね。自然と社会に於いて働くモノとヒトが、如何なる第三の「解釈項」(パース)を必要としているか、よく考えてみて下さい。
ハイデガーが『芸術作品の根源』で芸術家・作品・芸術という三つ巴の関係(「解釈学的循環」)で何を言いたかったのか、スピノザの衝撃的な命題「神もしくは自然」、かのドゥルーズを虜にしたその幾何学的神存在の証明とは、思索のスタイルを異にする言い方ですが、ハイデガーがなぜ自然に代えて「大地」を語るのか、なぜ「存在」の真理性に関する逆説的命題(真理は「覆われの無さ」、「不覆蔵性」に有る)に敢えて拘ったのか、自分の悟性を使ってよく考えてみること、これは学生諸君への宿題です。「存在の忘却」を大義名分とした言い訳は無用、杓子定規の回答は無効ですよ。例えば、「あれはバロックの哲学だから」とか、「ハイデガーはスピノザを避けている」(デリダ)とか言うようでは、何も言ったことにならない。その実、何も始まらないからです。

考えるヒント①:「我思う」存在者が人格属性を持つのは内部であるか外部であるか、働くモノの表象は一見して非人格的です。これを理解するには、存在の「明暗技法」(Zeichnende Kunst mit Licht und Schatten)が必要です。

考えるヒント②:「目はからだの明かり」です(上記)。5~6年前でしたか、大島淑子先生に獨協大学に来ていただいてお話をしていただいたことがあります。そのときに、普段は表情一つ変えない物静かな受講生の一人(M子さん)が、一際目を丸くし驚嘆した眼差し(staunender Blick)で、瞬きもせずに凝視(anstarren)していた様子を、未だに忘れることが出来ません。あれです、あの目の輝きがヒントです。何を観たからでしょうか?何が彼女(の目)をこうも輝かせたのでしょうね?それを知るには、存在の「遠近画法」(Perspektivische Darstellung mit Nähe und Fern)が必要です。

考えるヒント③:神の栄光(シェキナー)を見た「モーセの顔は輝いていた」(出エジプト記34章29節以下)。眩しいので、人々はモーセの顔に「覆い」をかけたと言います。ヘブライ語で「輝く」はカーラン、再帰的に表現するとマケリン、ずばり「角(ケレン)を持つ」ことです。祭壇の四隅には、神の栄光を表す角が彫られていることで分かります。「角を持つ」と言えば、日本の花嫁は文金高島田の綿帽子を頭に被り、「角隠し」していますね。俗説では、怒りを象徴する角を隠すことで柔順でしとやかな妻となることへの決意を表しているとか、嫉妬に狂うと鬼になると言う女性の器質を言い表したものだとか。江戸後期から明治の初期に始まるこの風習の背後に何が、女性自身を「輝かせるモノ」が何であったか、興味の尽きないところです。自分を輝かせるモノに覆いが必要という話ですね、自分らしさ・愛らしさの度が過ぎて、神々しい「角」が生えていないかどうか、私たちも鏡を見て確かめる必要がありそうです。

 (残りのヒントは、手渡し済みの「講義の栞」でご参照ください。ドイツ語の知識有る無しに拘わらず、聴講生大歓迎。文中で「未成年状態」について説明した語源ルート解明の部分を、「独逸語研究」のページに移しました)

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku