2011年6月21日火曜日

『水瓶いっぱいの祝い酒』 (聖書講話)

Der bis jetzt aufgesparte gute Wein  in den Wasserkrügen

テクスト:イザヤ書55章1-2節、ヨハネによる福音書2章1-12節

0.前置き:
 東日本大震災以降の三ヶ月間、政治についてのブログばかりで、読者もうんざりであろう。そこで今回は、被災者の受けた傷を癒す意味もあり、「薬用の茶」(岡倉天心)の元となる薬用の葡萄酒の話をする。例外的に、ホームページ掲載予定の最近の説教から一部をここに公開する。ブログのために多少手直して講演調に書き直し加筆しておいたので、鬱積した気持ちの切り替えに一読され、少しでも復興のお役に立てれば光栄である。(9月26日更新、タイトル一部修正)
1.導入:
 今朝の話は、クリスチャンだから禁酒禁煙のはずだというピューリタン的発想や聖人伝説の固定的イメージを覆す、不思議な象徴的事件である。
2.聖書釈義:
(1)事の発端は「三日目に」婚礼へ招待されたこと。イエスの母マリアが同席、(用意した=蓄えの)「ぶどう酒がなくなってしまったので、母はイエスに言った、『ぶどう酒がありません』」。直訳すると、「彼らはぶどう酒を持っていません」、つまり婚礼の主催者であるこの家の「人たちにぶどう酒の在庫がありません」。これはぶどう酒の在庫不足から来るもてなす側の緊急事態を報告しているが、超能力の「あなたの力で何とかしてください」と要請している訳ではない。それにしても、母に対するイエスの答えは奇怪千万、「婦人よ(口語訳では「女よ」)、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。「婦人よ、女よ」などと言うものだから、「わたしとあなたはどんな関わりがあるのですか」と冷たく聞こえる。実はそうではない。ぶどう酒が無くて困っている生活世界の事態は、「わたし[は有る]と何の関わりがあるのです」と言っておられるだけだ。但しそれだけなら、「わたしの時はまだ来ていません」と言われるのも何かおかしい、ミスマッチである。実はイエスにとって、ぶどう酒は大切な象徴的意味を持つ。母は自分が冷たくあしらわれたのではないことなど分かっているから、深い繋がりは分からないままに、召使いたちに「この人が何か言いつけたら、その通りにしてちょうだい」と言っている。その家には、「ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのもの」だったという。1メトレテスは39リットルなので、最大で三倍の117リットル、しかもそれが六つだから、合計で702リットルもあることになる(清酒一本で1.8リットルだから334本分に相当。1樽で何リットル?、ビール小樽で15リットルだから、およそ50樽分に相当)。いくら貧しくても、ユダヤ人は婚礼の飲み食いにだけは物惜しみしない・祝い酒をケチらない。だから、祝い酒の不足は、主催者にとって不名誉な失態に繋がる。
(2)イエスが言われたのは単純なこと、「水瓶に水をいっぱい入れなさい」。そこで、召使いたちは目一杯水を入れた。更に、「さぁ、それを汲んで宴会の世話役のところに持って行きなさい」と命じられる。するとどうだろう、「世話役は水から変わったそのぶどう酒を味見した」。書いてはないが、相当美味しかったとみえて、客は褒め言葉を惜しまない。「人は誰であれ、初めによいぶどう酒(カロン・オイノン=一級酒)を出し、酔いがまわった頃を見計らって劣ったもの(エラッソー=安酒)を出すものですが、あなたはよいぶどう酒を今まで(=最後まで)取って置かれました」。客からは、イエスは主催者の家の一人と見なされている(身内の祝儀?)。
 それにしても、何故ぶどう酒の奇跡か? 先ほど、実はイエスにとってぶどう酒は薬用としての、大切な象徴的意味を持つと言った。ヨハネはその理由を深追いせずに、一言だけコメントする。「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。そこで、弟子たちはイエスを信じた」、初めて信じるようになったのである。「しるし」とはギリシャ語でセーマイオン、それは今日で言うところの「記号」であるが、社会学的に「しるしを行う」ことは時間的意味連関に貫かれており、主観性の行為論的な発話動機を異なる仕方で構成している点に、注目しておきたい。
(3)それにしても、最初の10日間の締めくくりに婚礼の奇跡物語が重要だったのか。古いエジプトの言葉(コプト語)で書かれた外典福音書断片に、この話が出てくる。そこでは、マリアはこの時結婚した花婿の親の姉妹だという。紀元後2~3世紀頃の言い伝えでは、もっとはっきりしている。花婿はゼベタイの子ヨハネ、つまり第四福音書を書いたと言われるヨハネその人である。このヨハネの母親(=ゼベタイの妻)がサロメといって、イエスの母マリアと姉妹関係に当たる。すると、イエスとヨハネまたヤコブの兄弟とは、従兄弟同士に当たるという伝説が広く語り伝えられている。血縁関係の真相はともかく、カナでの奇跡が持つ本当の意味は別のところにある。
(4)それにしても、「わたしの時はまだ来ていない」とは、それ自体何を物語るか。父なる神の栄光を現す時の秘密と言われる。十字架と復活は、人の子にも「死ぬに時あり、生きるに時あり」、ヨハネ黙示録で預言される「小羊の婚礼」を目指す出発点(status quo)に過ぎない。「わたしの時はまだ来ていない」、それはマリアを初め弟子たちにとって何を意味するか。ヨハネ福音書が記録している最後の説教を読めば一目瞭然。「最後の晩餐」の後でなされた最後の説教は、実に13章から17章まで延々と続いている。そのメッセージは只一つ、「わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫である。豊かに実を結ぶよう父は手入れをなさる。わたしはブドウの木、あなた方はその(実をつける)枝である。あなた方が豊かな実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(15:1-8)。聖書の世界は、比喩的言語(メタファー)で一杯である。ブドウの実は食べ物と言うより飲み物、ぶどう酒にして飲むものである。その直後にペトロに対してイエスが言われた言葉を思い起こすことで十分。戦いの「剣をさやに収めなさい。父がお与えになった(ぶどう酒の)杯は飲み乾すべきではないか」(18:11)。小羊の婚礼を喜び祝う、自らの「終わり」を先取りした祝い酒のしるし行為と言えよう。
3.主題講解:
(1)弟子が師に出会い学び合う学舎に、ぶどうの喩え・ぶどう酒は欠かせない。男と女が出会って契りを結び祝福し合う、婚礼(新たな小羊のカップル誕生の風景)をイエスは単純に喜ばれる。そこでもぶどうの喩え・ぶどう酒は欠かせない。清めの薬水を飲んで心身の汚れが取れなくても、霊の洗礼を受けてみ言葉(裂かれた体を象徴するパン)を食し自分の十字架を背負って生きるも、ぶどう酒を飲み干す覚悟がなければ長く続かない。あれ荒んだ心に水と油を注ぎ燃やすものが聖霊の働きである。「人の子の体(=み言葉)を食し、その血(=霊の命)を飲まなければ、命はない」(ヨハネ6:53)。これはメタファーであって、アレゴリーではない。薬用の象徴として契約の血(=贖いのぶどう酒、霊の命)を飲むこと、これがヨハネ神学の一貫した中心メッセージだ。贖罪(しょくざい)思想は血なまぐさい話だが、歴史的に薬用茶や薬師伝承の背景となっている。象徴はあくまで、時間意味の保存形式である。
(2)キリスト者の交わりは独身の集まりでもなければ、孤高の人・恍惚の人・聖人たちの交わりでもない。伝説とはおもしろくもあり恐いものでもある。すでに二世紀には異端的な伝説が生まれる。花婿のゼベダイの子ヨハネに向かって、結婚しないようイエスが忠告したという(グノーシス主義的『ヨハネ言行録』)。中世の禁欲主義的カトリック世界では話がもっと極端にエスカレートし、花婿のヨハネは結婚式は挙げたけれども、新妻を残して自分はイエスに従い、その生涯を独身で通したという。かつてイエスは次のように言われたことがある。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒を飲まずにいると、あなた方は『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(=わたし)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7:34)。いわゆる風評である。イエスは私たちの祝い事(婚礼)を共に喜び、疎外された人々の悲しみや苦しみを共にし、一緒に飲み食いされ一緒に寝泊まりされたではないか。それら一切は父から授かるぶどう酒を、最後の一滴までも飲み干すためであった。
 私たちの場合はどうか。平和を願い戦争行為に反対するも、東日本大震災で被災した地の人々を助けたり原発反対を唱えるにも、苦いぶどう酒を最後の一滴まで飲み干す覚悟が必要だ。人生が抵抗精神で燃え尽きれば、思い残すことなどない。それに対して、燃え滓の人生ではしょうがない。それ以上に辛いことは、生煮えか燃えること(心を滾らせるモノ)自体がない・燃えることを忘れた未消化の人生ほど、退屈極まるか苛々するほどに、忌まわしいものはない。「わたしの時はまだ来ていない」とは、自分に安全を確保する老後保険か退路を断つ仕方での乾杯の決意表明であるよりも、ぶどう酒を祝い酒として飲むに時あり、別れ酒として飲むに時あり。自分の終わり(可能なる死)への後追いでなく、死への先駆的な覚悟性が問われている。この点で、初期ハイデガーの哲学と我が師ユンゲルの「十字架の神学」には、相通じる思いがある。
人生の三つの節目或いは生活世界(Lebenswelt)のクライマックスを象る三つの出来事、誕生と婚礼と葬儀(という「縁」)を通じて自分たちの心身を、熱く或いは静かに燃やすものが何か、その都度人は自分の足下(自分が佇む現に其処、超越論的主観性の「淵源」)を試される。西方の教会では聖霊は「熱風」であるが、西方を追われ東方に逃れて生きたネストリウス派の教会(景教)は、いみじくも聖霊を「涼風」と別様に喩えている。「冷たい理性と感情文化」とは西洋人の感覚だが、理性統治の難しい東洋人(日本人!)にとって、崇高な感情や霊の働きは熱いとは限らない。むしろ大悟を迫るのは、熱い思いを冷ます涼風の働きであろう。東洋では西洋と異なり、霊性は冷静(vernünftig)である。混迷を極める政治と宗教を尻目に、理性と感性の仕切り直し・再定義が必要とされる所以である。いずれであれ、自分が一番大切にしているものが何か、上限(言葉)と下限(無)に対する二重の備え、身の安全と平和戦略(相互保証のある体造り)の如何にを容赦なく考えさせられよう。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Riakishakaigaku

2011年6月4日土曜日

「諒解」なき政治の混迷、曖昧な言語経験のつけ

Die Armut der Politik ist in der Vergessenheit des öffentlihchen Seins.
【6月7日火曜日更新】 
死を恐れず、我が身を危険に晒してまで、原子炉の冷却を実行したのは誰なのか。饒舌な政治家のあなた達ではない。名もない末端の下級官僚たち、市町村の消防隊員や自衛官たち、加えて一私企業の東電社員たちではないか。如何なる風評にも狼狽えない、断固として信念を貫く政治家はいないのか。未曾有の国難を誰が予想していたか、言ってもらいたい。いったい誰が、自分なら場当たり的でない政策実行を断固としてなし得たはずだと、胸を張って言えるのか。誰もいない、一人もいない。谷垣さん・山口さん、聴いておいでか?
一度は、冷却用の海水注入の「中断」を言った・言わないの喧噪の挙げ句の果てに、原発所長独自の判断で、実際は「中断がなかった」ことが5月26日に判明するや否や、「いったい私は何だったのでしょう」(斑目原子力安全委員会責任者)で話は宙に浮いた。この度は、6月2日の代議士会前夜に、菅首相と鳩山前首相との間で交わされた合意文書の曖昧な「確認事項」で、退陣の時期について言った・言わないと大騒ぎ、文面にない退陣時期についての「期待感」を込め言い含ませて、「約束が違う、裏切った、ペテン師だ」と、被災者を度外視した果てしない泥仕合が続く。言葉にない(文面に明記されていない)ことで言い争うのは、愚の骨頂である。双方に、政治的存在(politisches Wesen)の義が余りにも曖昧で、不透明のままにやり取りされている。それは、社会言論の要が分かっていない、厳密な意味で「諒解」されていない証拠である。管首相の不手際・不器用さを責める前に、鳩山さん自身の早期隠退こそ望ましいという声さえ聞こえてくる。不幸なことに、鳩山さんは沖縄の普天間基地問題でも同じ過ちを犯している。不用意な言葉を漏らし、それが言質に取られて、沖縄を巡る政治状況が一変した問題をもうお忘れだろうか。せっかくの仲介がお節介に転じ、「いったい私はなんだったのでしょう」(ご自分の言葉)では、余りにも悲しい。鳩山さん、聴いておいでか?
新聞紙上に公表された合意文書の「確認事項」を読む限り、退陣の条件はそれなりに理解できるとしても、肝心の退陣の時期については一切触れられてはいないのだから、「約束が違う、裏切った」という発言はまるっきり見当違いである。自分の期待感(主観性)だけで相手を決めつけてはいけない。ただ、鳩山さんのお気持ちとしては、なるほど文面にはないが、何度もあなたに口頭でお伝えしたとおり、早期退陣の「期待」を理解し速やかに実行してもらいたい。つまり、行間の心情をくみ取り、発言の真意を理解してもらいたいということだろう。
しかし、「諒解」は「暗黙の了解」ではない。(相互)主観的に当てにされるだけの、曰く付きの「合意・協定」とも異なる。マックス・ヴェーバーに拠れば、「諒解行為は、合意した協定文書が無くても、有るかのように振る舞うこと。つまり、「他人がすることに予想を立て、それに準拠して行為すれば、経験的に妥当する蓋然性が客観的に存在する」という確信に基づいてなされる、妥当な「見積もり可能性」のことである(『理解社会学のカテゴリー』第6章、私訳)。菅さん、聴いておいでか?完読をお薦めする。
御尊父の鳩山一郎氏から受け継がれた「友愛」の精神にも拘わらず、心情倫理一徹だけでは政治結社を意の侭にすることは出来ない。ましてや、言葉にないことで政治家の責任倫理は果たせない。ここは、元代表の小沢氏自身が言うように、「今までになかった(退陣の)文言を取り付けた」のだから、それでよしとし十分とすべきではないか。
政治家にとっては、国民の「期待」を予想し、それを叶えることが第一要件である。政治家自身が舞台の主役であってはいけない。この点では、国民に奉仕する立場の官僚に見習えである。「官僚依存からの脱却」を詠うのであれば、聡明なエリート官僚以上の技巧や知恵を結集しないといけない。原発の利権(既得権益)に絡む組織(省庁の官僚・政治家・電力会社、三つ巴のの癒着関係)は、鉄壁である。これについては、次回論じる。
民主党が「官僚からの脱却」を願うなら、内部亀裂を恐れずに、先ず国民を味方に付けよ。その為に、一時も「主権在民・国民主権」の原則を忘れてはいけない。政治に於いては、一にも二にも市民・国民が主役なのだから。政治家諸君には、自らの言葉の未熟さを恥じて「謙る」ことを学んでいただきたい。不信を払拭できず国民に期待されない政治家は、肝に銘じてもらいたい。小沢さん、聴いておいでか?たとえあなたの目からするとぼんくら首相でも、手を惜しまず支えるべきであって、いつまでも背後でごねている印象を国民に与えるのは賢明ではない。何よりも、謙りの「証」として期待される、被災地復興と被災者支援の断固たる政策実行を、関係者各位にお願いしたい。
日本政治の脆さ・暗さは、言語経験の未熟さ故である。日本の社会言論は、啓蒙主義以前の未成年状態の段階にあり、未だに脱却の見通しが立たない。せめても態(わざ)とらしくない、自然な仕方で「諒解」し合う言語ゲマインシャフトの形成が強く望まれる。冷たい理性と感情文化、「上限の言葉と下限の無」(大島淑子『禅は別様に考える』)について考え抜く際に必要となる、天地開闢以来の「二重の扉に閂」(かんぬき)を付ける実践理性の政治美学的課題を見据えること、曖昧な希望的観測(主観性)の押しつけや恣意的に見積もられた「想定」枠(思惑通りの客観性)を捨て、怪しげな主観性の最終産物を括弧に入れて、「禅譲」を迫るにしても後追いでなく先駆的に身を挺して模索されることを期待したい、政治的情熱は捨てることなく冷静に討議され、真剣に己を捨てる・「已(すで)にとする」道(ケノーシスの実践)を平常底とするよう要請したい。あとは、仲介の労が無駄ではなかったと誰もが告白できるような、日本に於ける政党政治の新たな始まり・諒解ゲマインシャフト関係への「自己刷新」(Erneuerung des Selbst)を心より願うのみである。
政治の貧困は、主権が帰属する「公共的存在」の忘却にある (Die Armut der Politik ist in der Vergessenheit des öffentlihchen Seins.)。公共的存在とは、他ならぬ国民の存在である。その国民の目線では、否が応でも、不安の余り「公共性のマスクしたヒトの現存在」(ハイデガー)を顧みるに時を惜しまず、被災者のゾルゲ(憂慮)の理解と解決に万全を期すことに於いて、あなた達政治家の手腕・(政局に溺れない)政治の正義を裏付ける美徳(politische Tugend)が問われることになる。「黒子」(Souffleur, Kastengeist)に徹することがお嫌いな面々には、即刻バッチを外し(国会議員を辞職し)ていただくほかにない。復興が待たれる状況下での党利党略まがいの喧噪には、国民は「うんざりしている」(angeekelt sein)のだから。官僚依存からの脱却を夢・幻に終わらせないためには、どうしたらよいのか。官僚を黙らせ共感に追い込むほどの、インパクトのある政治劇が考えられよう。
見応えのある政治劇は、「社会言論の美学的課題」 (Ästhetische Aufgabe der Sozial-Rede)である。国会議員の諸君、せっかくなら、国民が納得し魅せられる「政治劇」をしなさい!志位さん・福島さん、聴いておいでなら、ぜひ仕掛けてもらいたい。国政刷新の仕掛け人には、渡邊さん・田中さんが一番適任だが… 国政を預かっている諸君が日本国民の叡智を結集して、天災・人災に負けない・挫けない国土復興のモデルを提示することで、グロ-バル世界を感銘と共感へと呼び込む得心の劇、不朽の歴史的価値を人類史の記憶に刻む、忘れがたい政治劇を演じてもらいたいと切に願う。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Riakishakaigaku

脚注: 文中「~さん」で言及した政党関係者(党首)の人名は以下の通り、
自由民主党(総裁) 谷垣禎一、民主党 菅直人(前代表:鳩山由紀夫、元代表:小沢一郎)、公明党 山口那津男、日本共産党 志位和夫、社会民主党 福島瑞穂、みんなの党 渡邊喜美、新党日本 田中康夫