2014年7月26日土曜日

預言者的政治言論と社会批判、真理陳述について

 日本を含め、国際政治と社会は混沌として、いつ何が起きてもおかしくない、一触即発の危機的状況にある。にもかかわらず、なぜ今さら『古代ユダヤ教』を原書に参照するのか、疑問に思われる諸君に塚越氏の論旨を紹介することで、「集団的自衛権」解釈に潜む危うい問題点を洗い出すためにも、必要最低限の基礎研究の視点を再確認しておきたい。
塚越健司は、『フーコーにおけるパレーシアと預言者の真理陳述』[1]で、注目すべき論点を抽出している。パレーシア(παρρησiα parrêsia)は、「真理陳述=真実語りvéridiction」を意味する一つの批判的言論形式だとする、ミッシェル・フーコーのパレーシア研究に沿いながら、預言者の真理陳述に着目する。パレーシアとは、古典ギリシア語で「すべてを語る(tout-dire)」あるいは「真実を語る(dire-vrai)」といった意味で理解されている。
 但し、パレーシアはヘレニズム社会に共有された政治的概念である。「古代アテナイ社会においては民主主義の均衡を図るものであり、政治的な野心を持ち、しかし公共性を備えた徳ある者が、市民に語りかける真理の言説であった」ことを確認する。これに対して、社会的機能として類似した事例を、古代イスラエルに於ける預言者の言論活動に参照する。「古代イスラエルにおける預言者は、王や祭司といった特権階級の横暴を諌めるための、一神教的かつ官僚制が未熟な社会であり得た批判的真理陳述の一つの形だった。預言者はパレーシア的な真理陳述とは異なるものの、当時の社会にあって預言者が果たした社会批判の機能は、民主主義や古代イスラエル社会の均衡を保つこと、世間から一歩はみ出た「真理」を有する者達による、批判的言説としての真理陳述である」と述べた上で、フーコーでは、「パレーシアの真理陳述の形式は、すでにそのものとしては消え去り、他の3つの形式の接ぎ木として機能している」という(3つの形式については、ここでは割愛する)。更にその理由として、預言者の真理陳述の形式が「政治的言説、革命的言説の中に見い出せる」とフーコーが考えているからだと指摘する(Foucault, 2009:29-30 =2012:39-40)。最後に、ここが一番興味深い所だが、「革命的言説は、他人の名を語り、運命づけられた未来を語る。フーコーは直接言及していないが、他人とはマルクスであり、未来とはマルクス主義が語る、生産手段の社会的共有を求める、資本主義から共産主義への革命理論を指していると推察される」と補足している。
 我々が今例会で、ヴィーバーの『古代ユダヤ教』(Das antike Judentum)を紐解きながら、中でも「預言者」の分析をしている個所(第2章「ユダヤ的パーリア民族の成立」, 原書のII, S.281 ff.)に注目しつつ、共に思索を重ね討議する必要にして十分な理由がここにある。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo





[1] 塚越健司『フーコーにおけるパレーシアと預言者の真理陳述――古代社会における批判的言説の類型とその意義――』。専修人間科学論集社会学篇、専修大学 2014年, Vol., No., pp.89-99 (TSUKAGOSHI, Kenji: Véridiction of Parrhesia and Prophets in Foucault : Types of Critical Discourses and Their Significances in Ancient Society
Vg.: M.Foucault,1994, “La vérité et les formes juridiques”, in Dits et écrits tome II 1970-1975, Gallimard, (参照:西谷修訳 「真理と裁判形態」小林康夫他編、『ミシェル・フーコー思考集成第V』筑摩書房、2000年)