2013年12月25日水曜日

過熱された存在は「炸裂」する、ゼロは空位のプロスペクトについて

【12月27日、改訂版】
いま日本で話題となっている数学的(・統計的)意思決定理論は、ビジネスチャンスを広げるという点で関心を持たれている。その原型イメージは、前回述べたトーマス・バイザーにまで遡るが、最近ではドイツからアメリカに移住したヘルベルト・アレキサンダー・ジモン(英語名:ハーバード・A・サイモン)の「経済システムに於ける意思決定理論」に受け継がれている。合理性の限界や不確実性を指摘しつつ、主観格率を直感的な発見術(heuristics)として見直す必要が生じた。事実、揺らぎの感情を抜きにした意思決定論は考えられない。これを受けて、複雑系マネージメントに、感情要因を計算に入れた限定合理性の研究が盛んになっている。ファジーを基にした行動経済学がそうである。数学に特化した数理経済学では、なるほど主観格率は言及されるのだが、その反面、感情要因に基づく限定合理性の追及といった側面は影を潜め、口先介入かせいぜい引き合いに出されるだけではないか。数学的格率論に的を絞った小島寛之氏の意思決定理論の研究は、その点で物足りなさを感じる。不安を抱く「現存在」の群像についてのビッグデータは、それ自体複雑系の産物である。複雑系世界の住民に「共鳴」を惹き起こすには、それなりに経験妥当な、現存在に呼びかける言葉(語頭)の工夫が必要であり、貯蓄者や消費者の主観的動機や感情移入の応用研究が不可欠となろう。メタファーは必須の道具である。安心の壁がそそり立つ岩であることを止める時、譬え言葉は対価を失い死滅しよう。
予定し選ぶ神を見失った今日の世界では、あらゆる想定外のリスクを含め、人が予想し自己責任で意思決定する。超越者抜きで自分の進む道を選ぶほかない。しかし、選ぶのは何のためか。自分を最適化しアップグレードするにしても、他者の人格存在を手段化して自己実現の目的願望を満足させるためだけではないのか?神であれ貨幣であれ、君が期待効用論に何を賭けるとしても、所詮それはマスクした功利主義(Utilitarianism)ではないのか。(中国の失敗事例!を)忘れてはいけない。主観格率は目安にすぎない。としても、不安や疑念(主観的意味)を抱かない現存在はあり得ない。ましてや集団社会に於いて、主観格率を逞しくして自利に拘る、飽くことなき神的富への欲望が、良心的期待値としてある「諒解関係」(利他行為)をひそかに排除する限り、自らの「炸裂」を待つほかない。存在は炸裂である(レヴィナス)。誰もが我先に神(叡智者)になり替わろうとする箱モノの世界(ポストモダンも神々の複雑系)では、利便性の対価はアポトーシス(apoptosis)である。
結論: 数学的推論は、理解社会学を必要とする。理由: 数字の一人歩きは、新たなリスクの始まりである。「炸裂」はゼロ地点のプロスペクト、どこにも足場がない。実数で虚空は裁断できない。反論があったら、お聞きしたい。
補足: 数字のゼロは数量が空となること。段取り記数法で空位となるだけである。存在が過熱されて膨れ上がると、中が空となる(サンスクリット語で sunya)。0や1などの記号は恣意的なので、推論する際に、比喩以上の哲学的意味付けは不要、両者を混同すべきではない。

Shigfried Mayer (宮村重徳), copyrights © all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年12月16日月曜日

数学的裁断の技、主観の虚空に確かさ(尤もらしさ)を刳り出すか

「特定秘密法案」の成立で足元が揺らぐ、不透明な民主国家存亡の浮世に、自分の決断を間違えないようにするには、どうしたらよいのか。凍るような寒さに暖を取る意味で、久々に邦書の読書三昧を満喫してみた。小島寛之氏の『数学的決断の技術』(朝日新聞出版、朝日新書、創刊七周年、20131230日刊)。これは師走前に、つまり30日の刊行日を待たずにいち早く出版された話題の書。帯には、「論理的思考が苦手な文系向け」とあるから、入門用手引き書である。
仕事・ギャンブル・さまざまな迷いごとで途方に暮れる岐路の毎日、私たちが決断を迫られ迷った時の助け舟も、(私の譬えでいえば)生地がなければ裁断のしようがない類のデータ(主観の虚空)から、「確からしさ」を刳り出し、四種の服に仕立てて見せるから面白い。いわば数学的裁断の技を教えられる点で、醍醐味十分である。
著者の理論的支柱は、ランダム事象を推計統計学的に頻度数で確率を割り出す正統派と異なり、統計学的には長く異端の系譜とされてきた「ベイズ確率」(Bayesian Probability)と「ベイズ推定」(Bayesian Statistics)にある。ドイツ語でこれは、Bayesscher Wahrscheinlichkeitsbegriff という。イギリスの長老派教会の牧師で数学者トーマス・ベイズ(Thomas Bayes, 1701-1761)の「主観格率」は、信念や信用・信仰で形態の違いを問わず、一見カオスでしかない主観的ビッグデータから、「尤(もっと)もらしい」モノの働きを導き出す画期的な方法(「最尤法」さいゆうほう、the Maximum Likelihood Estimation, MLE)として知られる。今日では斬新なコンピュータ技術を使った医療分野などで、幅広い応用研究事例を生み出している。(数式は難しくないが、説明すると長くなるので割愛する。)
経験妥当な法則を求めるにしても、主観的意味の探求(行為の格率論, Maxime)を忘れてはいけないと教えたのは、ヴェーバーである。その理解社会学とは全く別の仕方で、ベイズは「主観的確率」(Subjective Probability)のノーハウを教える。意思決定の基準として、四つのタイプが挙げられている(自分の思考の癖が分かる、そこは読んでのお楽しみ)。「期待値」云々の論証は蓋然性を導き出すための工夫、経済学を含む社会学自体の課題である。ケインズの経済理論だけでない、パスカルの神存在証明をも取り上げて、ずばり期待効用理論の最大値に「賭ける」ものと見破られる。パスカル教徒も真っ青に違いない。実に痛快である。心理物理的な発想に基づくブレンターノの「限界効用理論」には否定的だったマックス・ヴェーバー(学会)も、これなら納得して取り上げてくれるかもしれない。
転換の世紀を乗り切るために、一読をお勧めする。君たちが真にビッグデータサイエンティストたらんとすれば、パスモの屑情報の処理などかなぐり捨てて、生身に迫るこのような数学的アプローチに学んだらいい。収穫は大である。(個人的には、牧師にもベイズのような人がいたということは、驚きであり感無量である)。
追記: 小島氏の評価については、全部を読んでみないとわからない。主観的確率と道徳的格率の違いについては、別途に論じる。12月22日更新

Shigfried Mayer (宮村重徳), copyrights © all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年12月5日木曜日

「瓢箪から駒」の茶番劇、今は夜の何時か、見張りの人に尋ねてよ

  誰が予想しえたか、力任せに「瓢箪(ひょうたん)から駒」(Aus Scherz wird Ernst)を演出する首相がいようとは。デモクラシーを骨抜きにしかねない、安部晋三首相の「まさか」の乱暴に、感心している暇はない。福島瑞穂議員の厳しい追及にも、平然と嘘を通し頬かむりして憚らないその不敵さに、只々国民は唖然としている。その強引な国会運営は、新たなミリタリズム時代の幕開けを不気味に暗示していよう。一時の巧みな経済政策の成功によって、選挙民の人気を一気に掌握した、神をも黙らせたあの暗いNS時代を再現するかのようにだ! 虚空からの出立までまだ幾千里、虚無への陥落まであと一歩である。「見張りの人よ、今は夜の何時(なんどき)か。見張りの人よ、今は夜の何時なのか」(イザヤ書21章11節)。時のしるしをしっかりと読んで、自ら考え行動する人はいないのか?若者たち、他でもない、問われているのは君たちのことだ(Tur res agitur!)。
追記:「瓢箪から駒」という故事ことわざは、半分冗談のつもりで言っていたことが実現すること。そこまで予想しなかった「まさか」の期待が実現され、内に秘めた国民の期待・心に刺さる憂慮・言い難い深い思いに応えられる、意外性のある政治を望みたい。ところが、今の政局はその反対に、強権的な政治劇を演じている。国民が望みもしないのに、各方面から指摘されている問題性を不問にしたまま、怪しげな安全保障の旗印の下、チェックの効かない軍事体制が今実現しようとしている。「瓢箪から駒」を本義に戻し、本末転倒の茶番劇に杭を打ち込み、醜聞の国政に楔を打つ警句か、世界平和(シャローム)を本望とする人にもたらされる、意外性に満ちた贈与への驚き(Staunen)として覚えておきたい。(12月11日更新)
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