2017年5月26日金曜日

官僚に負けた政治の未熟な体質(その二)

 今から五年前、201211月のブログに『失敗した政治主導の「駆け込み寺」』と題して論評したのは当時の民主党についてだった。官僚依存からの脱却を謡いながら失敗した民主党政治の付けではないかと疑わられたからである。今回は、官僚の前事務次官に暴かれた自民党政治の問題である。森本学園の認可問題から飛び火して、加計学園の国家戦力特区に獣医学部を増設する案件を巡り、「官邸の最高レベルが言っている」ことだとして圧力があり、理由不十分のままに、最後は「内閣府に押し切られた」事情を明かし、内文書が事実あったことを強く主張している。官邸側はこれを否定し「文書は確認できない」と云うのみ。前事務次官の前川嘉平氏は、「文書は確かにあった。あったものを無かったかのように言うことは出来ない」と猛反発している。いずれ証人喚問があれば、国会で真実が明らかになるだろう。都合の悪い事実はこれを隠蔽して憚らない。無理を承知でそういった文書は無かったものとする・封印するのは、周知の保守政党の常套手段である。言葉を粗末にしているから、そういった直対応で本音を隠し通し、追究されるとひたすら言い繕うのみ。憲法改正についても同じ轍を踏んでいる。平和憲法の不戦の誓いを曖昧にして、自衛隊の定義を盛り込み、戦争行為を肯定し賛美する真意をひた隠しにして、平和憲法の不当な合理的解釈が密かに断行されようとしている。怖いことである。若者たち、目を覚ましていなさい。有事と成れば、さっそく君たちが戦場に送られることになる。そうならぬ前に、良心に基づいて抗議の声を上げる必要がある。大原社会問題研究所は、いつも君たちの味方だから、何でも相談してほしい。

2017年5月5日金曜日

社会学の基礎用語(その一)、事実と現実について

デュルケームの「社会的事実」(fait social)で知られている通り、事実(fait =Faktum)は社会学用語ですね。事実性(Faktizität)は、例えば、某会社倒産という噂は事実か、それとも事実無根なのか。所与としてある言説の真相がどうなのか、端的に本当か嘘かと問い質されています。社会事実の嘘を暴く、隠れた事実は容赦なく暴露される。その反対に、限りなく疑わしいか、誰が見ても明白な事実なのに隠蔽されていることがあります。例えば、19世紀の欧州で増えた自殺統計が社会矛盾を露呈して、庶民に衝撃を与えたことは周知の事実ですね。初期ハイデガーが『オントロギー(事実性の解釈学)』講義でみせた事実性の解釈が、覆われの無さだとする真理の理解に通じるのはその為です。
これに対して、現実や現実性(Wirklichkeit)と云うのは、自然科学や精神科学が問うことで、夢や理想なのか現実のことなのか、ヴェーバーは「理想型」(Ideal-typ)を立て「現実型」(Real-typ)に対置しています。ヴェーバーは理想型を追求しますが、経験妥当性を求め取り組む姿勢では現実科学的です。他方、現実性(Reality)は実在性と訳します。アーレントが云う現実性(Aktualität)は、政治的領野での活動的現実性のことです。この三つはしっかりと区別できるようにしておきましょう。詳細は次回に、今日はこれまでとします。質問があったらどうぞ。