2016年10月16日日曜日

「心」は有るの?それとも無いの?よく考えてみると

「心」は有るのか。言語派社会学者の橋爪大三郎は無いと云う。では、苦労ばかりの人生に意味がないというとき、その意味なるモノは何処かにあるのか?リトマス紙で試してみても、何の色も検出されない。困ったことに無色透明である。生きると云うことが意味あることだとして、その「意味の意味性」を実証しようとしても、所詮無理難題で無駄なことではないか。確かめようが無い。心についても同じことが言える。心が無ければ苦労しない。「存在する意味」など見える代物でない。見えないものを見る、それが宗教また哲学の課題だろう。社会学でも変わりない。意味の意味性は、実体性が有るのか無いのか確認を待たない。それ以前の問題だろう。言語ゲームの解説ではいずれ行き詰まる。我が身で有るの意味は何か、その如何にを考えることから一切は始まる。そうではないか。意味は有るモノでなく、共に考えて一体を為すモノ、ゲマインシャフト(共同体)の構成的要件である。論理実証主義者のお喋りは程々にして貰いたい。読む限り、キリスト教と仏教の基本認識に間違いが多くある。橋詰大三郎『「心」はあるのか』(ちくま新書)を読んでの感想文。