2010年11月4日木曜日

トルソーとしての「エスの系譜」

"Genealogie von ES" gilt als Torso an sich
 互盛央氏の『エスの系譜』(講談社)を一読しての感想です。ダブル受賞の評判通り、なかなか読み応えがありました。グローデック(「エスとの対話」)とフロイト(「自我とエス」)のコンフリクトは公然の秘密としても、前者は後者の引き立て役にされているだけなので、討議(ディスコース)の公平さが欠けているように思われます。フォイエルバッハとニーチェについては解釈を異にするので、別途に論じます。それでも、全体をフロイト論として読むと、論述スタイルの首尾一貫性が光ります。フロイトからニーチェ、リヒテンベルクへと遡る「エスの系譜」第一章では、緻密な論争背景の解明だけでなく、近代人の「私が思う」から非人称の「それが思う」へと論点が覆され、「語ること」から沈黙の中で「思われること」へと目線が切り替えされる。詩人をして非人称の「語ること」から「語り終えることのありえないもの」、すなわち「思われることの残響」になることが勧められる。精神分析学(精神病理学)を科学に数えるなら、一方の科学と他方の哲学及び文学が主導権を競いながら、同じエスとの対話ルートに還元される。そこがキーポイントです。個人的には、レヴィナスの思想に近いようで味わいの全く異なるアプローチに新鮮さを、エス・ルートの発見からデカルトの読み直しまでする意外な局面展開に、説得力のある圧巻のインパクトを感じさせます。
少しだけ欲を言えば、系譜の議論がリヒテンベルク止まりで、せっかくデカルトにまで言及しているのに、(ゲーテやフィヒテ・シェリングは語っても)スピノザが論じられていないのは、フロイト自身が彼には無関心であったか、(スピノザを論じるグローデックへの対抗心から?)あえて関心を示さなかったのだとしても、片手落ちのような気がします。エスの理解を違わせている何かが、その周辺に有るのではないでしょうか。スピノザは《神もしくは自然》で、神を非人称化・非人格化しており、彼の無神論は「エスの淵源」と無関係ではないはずです。ユルゲン・ヘレはスピノザを理解社会学の祖としており、その意味でもしかと問うておきたい。語るか沈黙するかのいずれであれ、エスは第三人称形の代名詞で伝える他ないモノ、わたしが常々「働くモノ」と言う場合も、ドイツ語で Es wirkt(「それ」が働くこと)ですから、多くの点で互氏と理解・関心・課題を共有しています。代名詞系に脆い、特に第三人称系が致命的に曖昧な日本語文法では捉えがたい経験でしょう。
第三章以降で触れられている通り、「エスの系譜」は反ユダヤ的なそれを含め、ユダヤ的知性と感性一般の秘密に深く関わることです。「それ」は、社会学的には「神と貨幣」(=《神もしくは貨幣》)で知られる古典的なシェーマと分かちがたい関係にあります。近代人が強い関心を抱くエスの表象には、頭のないトルソーか働くヒトの顔がない能面のイメージが強いですね。エスの世界はカオスの海、海面に立ち現れる「それ」が単頭か双頭か、貨幣の魔神の相貌が如何にであれ、これに挑む勇者・現代のマルドゥク神はいないのか、天と地(という二つの淵源)にしるしを求める見者・預言者はどこにいるのか、問われることになります。上限と下限(言葉と無)の淵が分かれるか渦を巻く「そこ」にまで両足で踏み込まないと、話題のエスをメディアの踊り場で商品化するだけで満足するか、仕立てられた流行(はやり)と平均化(人並み)を追うに忙しく、自分の時間がないヒトで有る(das Man-ist)、不安のマスクした業者や読者(迷い子)を増やすだけに終わりはしないでしょうか。「エスの系譜」を頭(カプト)のないトルソーに終わらせないためには、いずれスピノザの読み直しが促され、「働くモノ」(エス)の解明に必要となるでしょう。「それが思う」を「私が思う」ことの上位概念とするにしても、非人称(非人格化)の要件は詩人たちを必要としました。「無名とあえてなり歴史から自分を隠す」詩人に於いても然り、ヒト(ペルソーナ)に於いて働くモノ(レース、エス)のメタファー論的解釈が妥当かどうか、社会言論の真理性を巡り自我とエスが真剣な対話・熱い討議を重ねる中で、最後はセクトを含むゲマインシャフト関係の要件である、「諒解の妥当」が真理性の試金石となるはずです。その意味で、グローデックやフロイトだけでなく、ヴェーバー(『理解社会学のカテゴリー』)とハイデガー(『時間と存在』、『フマニスムス』)への学びは、必要にして十分意義あることだと「わたし」には思われます。2010年11月4日(木曜日)

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

追記: これはあくまで、初読の感想です。その後、『エスの系譜』の一年前に出版された『ソシュール 〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社、2009年)を読み進める中で、互盛央氏の問題提起が理解できたように思います。『ソシュール』を前提にして読むとしても、『エスの系譜』に感じた上記の疑問がクリアーされた訳ではありません。むしろ、「社会言論」批判という別の討議ルートでいっそう深まることになります。これについては、持論の「一般社会学言論」構想と拘わる重要な課題ですので、詳細は別途に論じることにしたい。2010年11月30日(火曜日)