2014年12月8日月曜日

「国民国家」の崩壊を未然に防ぐには、表層から深層へ政策転換が必要

 2006年にコフィー・アナン国連事務総長により、マーク・マロック・ブラウン官房長が副事務総長に任命されて以来、8年の歳月が経った。英国オッスクフォード大学出身の52歳。このブラウン氏が最近、「東洋経済ジャーナル」最新号に寄稿論文を寄せておられる。すでにお読みになった方もいると思うが、まだの方は必読に値する。
 「旧来秩序は役に立たない。今起きているのは、欧米型システムの崩壊だ。必要なのは、政府と民間の利害関係者によって考案された規則、規範、制度の正当なシステムである。経済、政治、社会活動のグローバルな性質を反映させることで、非国家的構造のパッチワークと共存しなければならない」。
 欧米型システムとは、欧米を基準とした国民国家のシステムを指している。今や高度の情報技術が行き交う中で、国籍不明の混乱した経済活動によって、国民国家の存立自体が危険にさらされている。先進諸国を利するだけの「統治モデル」が批判されているとブラウンは指摘する。「正当なシステム」とはいかにも曖昧だが、新たな規則・規範・制度を模索するに必要な国家的「諒解」システムには、グローバルな視野で「諒解関係」を相互保障する新たな「法」的秩序(reglement par se consensus)が求められよう。
 ヴェーバーの「諒解行為」概念は、長山恵一の指摘する通り、どこか曖昧さが残っている。昨日早稲田大学で催された「ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム:戦後日本の社会科学とマックス・ヴェーバー」での諸氏の発題を聞いても、その疑問は最後まで残った。唯一水上彪の「支配と法-憲法改正問題についてのヴェーバー的読解の試み」にポジティブな印象を受けた他は、終始「はてな」のやり取りばかりで、早退するもやむを得なかった。
 具体的に、どのような「法」的秩序が描かれようか。パッチワークをヴェーバー学会に期待したいが見通しはまだない。では、経済・政治・社会の下位的利害関心を偏りなくロードできる上位の座標系はないのか。上下秩序の重なりが不十分であれば、表層と深層の重なりでもいい。幾重もの社会断層に活力を与えているのは、深層の働き(Vektor aus der Tiefe)だからである。もし非国家的構造なるモノを考えるとすれば、深層から無差別に押し寄せるモノの力を受け止め、これに準ずるか撥ね退けるヒトの連帯構造が問われよう。宗教を含め、国籍や経済利権を超えて連帯するには、表層の右往左往に惑わされず、社会の深層へ楔を打ち込む政策が必要ではないか。
 宇宙の深部にある見えざる壁に瞑想入りして、見る人の目から顔を背けているそのヒト(ダルマ)に学ぶ良いチャンスである。(12月15日更新)                                                                                              
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for the Interpretive Sociology Tokyo

2014年12月1日月曜日

ヴェーバー生誕百五十周年記念シンポジウムのお知らせ

2014年 12月 7日 (日曜日)   10時00分 から18時45分 まで

早稲田大学

シンポジウム実行委員会

ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム

「戦後日本の社会科学とマックス・ヴェーバー」

日時:2014年12月7日(日)10:00--18:45(開場9:30)
会場:早稲田大学早稲田キャンパス8号館B101教室

第1セッション 10:00-12:30

資本・信仰・ 支配への問い
        ―ヴェーバー生誕100年シンポジウムから半世紀

第一報告 資本の増殖欲求と勤労倫理  報告者 小林純(立教大学)
 第二報告 近代と宗教―禁欲的プロテスタンティズムと神秘主義
                 報告者 深井智朗(金城学院大学)
 第三報告 支配と法
       ―憲法「改正」問題についてのヴェーバー的読解の試み
                  報告者 水林彪(早稲田大学)
  討論者:荒川敏彦(千葉商科大学)、樋口陽一〔東京大学名誉教授)
  司会:中野敏男(東京外国語大学)

第2セッション 13:30-16:00

マックス・ ヴェーバーと現代社会の理論―民主主義・福祉国家・権力


 第一報告 民主的正当化・統制をめぐって―ヴェーバーと現代政治理論
                報告者 齋藤純一(早稲田大学)
 第二報告 価値自由と福祉国家―ヴェーバーからミュルダール、そして
       現代へ     報告者 藤田菜々子(名古屋市立大学)
 第三報告 権力論と社会的なものの概念―ヴェーバーとフーコーから
               報告者 市野川容孝(東京大学)
  討論者:野口雅弘(立命館大学)、三笘利幸(九州国際大学)
  司会:宇都宮京子(東洋大学)

総合討論 16:15-18:45

マックス・ ヴェーバーと近代/戦後日本

登壇者:第一、第二セッション報告者(6名)
    討論者:恒木健太郎(専修大学)、鈴木宗徳(法政大学)
    総合司会:中野敏男、宇都宮京子

主催:ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム実行委員会
予約:不要
資料代:500円

お問い合わせ:シンポジウム実行委員会(webersympo [at mark] yahoo.co.jp)
詳細 http://www.tufs.ac.jp/st2/club/weber21/

2014年11月23日日曜日

法政大学大原社会問題研究所 国際公開シンポジウムのお知らせ

『境界地域における国民統合過程と人々の意識

-日本とアジアを中心に-』


The National Integration Process in Bordering Areas and Peoples' Consciousness: Cases of Japan and Other Asian Countries


法政大学大原社会問題研究所主催 国際公開シンポジウム

日時: 2014年11月29日(土) 13:00 - 17:30
会場: 法政大学市ヶ谷キャンパス ボアソナード・タワー19階D教室
     (〒102-8160 東京都千代田区富士見 2-17-1)
交通: JR:市ヶ谷駅または飯田橋駅下車徒歩10分(ほか地下鉄線あり)
参加料: 無料

13:00 主催者挨拶、原伸子(法政大学大原社会問題研究所所長)
     趣旨説明: 金嘉南(法政大学大原社会問題研究所准教授)
13:20 第1報告「朝鮮海峡を渡った在朝日本人と朝鮮人の都市文化統合と葛藤」
            金嘉南(法政大学大原社会問題研究所准教授)
13:50 第2報告「近代国家における文化統合の問題」
            高江洲昌哉(神奈川大学非常勤講師)
14:20 第3報告「日本華僑における台湾人意識の持続とその変容」
            何義麟(台北教育大学副教授)
15:05 第4報告「メコン地域における越境的な拝発・環境問題と市民ネットワーク」
            渋谷淳一(法政大学大原社会問題研究所兼任研究員)
15:50 コメント   羽場久美子(青山学院大学国際政治経済学部教授)
            宮本正明(立教大学史資料センター学術調査員)
17:00 質疑応答

司会: 鈴木 玲(法政大学大原社会問題研究所教授)

2014年11月10日月曜日

個人的所感:「ベルリンの壁崩壊」後、二十五周年に寄せて

ちょうど25年前の1989119日に、東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」が一挙に崩壊するという、画期的な事件がありました。長く続いた「冷戦構造」が一気に崩れた象徴的事件でしたね。わたしはすでに198610月に帰国していたので、日本で聞き知って驚いたのは当然です。当時のベルリンは孤島のように、周囲に張り巡らされた鉄条網を初め、3メートル近い高さの分厚い石壁で仕切られていた光景を何度も目撃しています。ベルリンは三度ほど訪問した記憶があり、越境しようとして無残に射殺された東ドイツ市民のニュースを聞くたびに、我がことのようにひどく悲しんだものです。国境を越えようとする外国人のわたしたちにも、厳しいチェック体制が敷かれていました。バスに乗り込んできた兵士がカバンを開けよと迫り、不審なものが入っていないかと、躍起になっていましたからね。
当時西ドイツのコール首相は大した政治家ではありませんでしたが、やはりあのゴルバチョフ(当時のソ連邦の大統領)が鍵ですね。あの人がいなかったら、ベルリンの壁が崩壊するなど、夢のまた夢に過ぎなかったことでしょう。「人が法を追う」仕方、いくら法の公義を求めても、所詮追うだけでは何も始まらなかった。厳密な意味で、「法が人を追う」、つまり理に適う人物を得て初めて、公義の法が成し遂げられ、世紀の大変換をもたらしたと言えそうです。これは三蔵法師の言葉ですが、法が慕い求める人物足らんとする若者の出現を期待したい。

Shigifried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for the Interpretive Sociology Tokyo

2014年11月9日日曜日

今年は節目の記念尽くめ、自分を翻さないと訳せない、仕事人の粋と気概を

 今年はいい意味で記念尽くめですね。大学創設50周年や学園創設130周年どころの話ではない。法要宗の祖とされる玄奘が没して、今年で1350回忌に当たるのですね。仏典の翻訳に生涯をささげたヒトの苦労が偲ばれます。「玄奘三蔵院伽藍 大唐西域壁画特別公開」が、9月から11月末まで、奈良の薬師寺で催されています。「玄奘三蔵1350年御遠忌記念」ということで、8月には東邦音楽大学主催「薬師寺音舞台」も披露されました。
 達磨大師が入寂された「達磨忌」では、528年だと1486周年、536年だと今年で1478周年、節目となる再来年の2016年、或いは4年後の2018年が楽しみです。
 どうしてこのような話になるかと言えば、最近は史的ダルマ研究の集大成の為に、漢訳文献を読むことが日増しに多くなり、難解な仏典や景教典を読むにつけ、翻訳の大変さが身に沁みてわかるからです。旧来のように、漢文に返り点や送り仮名をつけて読み下しているようでは不十分、訓読しているようでは、とても理解が追いつかない。
 人生は長いようで短い。物事を大成するには、よき師とよき友、何よりもよき秘書の三つが必要です。それだけでもまだ足りない。後世に遺すとなると、優れた翻訳者・通訳者が欠かせません。玄奘三蔵にして然り、鳩摩羅什や菩提流支にして然り。ずばり、翻訳は文化、翻訳者は無形文化財です。疎かにはできません。通訳者の曇林なくしては、ダルマの存在も働きも忘れされていたことでしょう。
 西欧では、マルティンルーターがヴァルテブルク城に立て籠もり、旧新約聖書をドイツ語に翻訳した1534年から換算すると、今年で500周年記念になります。没年の話しではないですが、考えてみると、『マルコによる福音書』が通説通り紀元70年頃に成立したのだとすると、今年で1944周年です(個人的には、私にとって記念の年)。マルコがギリシャ語訳に苦労したという話は聞かれませんが。いずれにせよ、気が遠くなりそうな話ですね。ブログの読者諸君も、原書から翻訳することの苦労話を糧にして、「自分」を翻さないと訳せないからね。大事な人に読んでもらうには、共感を呼ぶ仕事人の粋と気概を抱いてほしいものです。(11月10日更新)


Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyrights all reserved 2014, the Institute for the Interpretive Sociology Tokyo

2014年10月28日火曜日

百三十周年と五十周年に、二十六年の親しき因縁、獨協大と私の係わり

 昨年は130周年の獨協学園(初代校長:西周)、今年で50周年の獨協大学(初代学長:天野貞祐)、個人的には1988年から勤務して26年目に当たる。式典に参列された著名な諸先生に比べれば、無名無冠の教師にすぎないが、学園には百三十年の五分の一、大学には五十年の半分、二分の一を少し上回る係わりとなる。逆算すれば、26の五倍で130年26の二倍で50年プラスアルファである。あえて非常勤で貫いた辛苦の歳月を思い返せば、数字では言い表されない感慨深いものがある。ずっしりとした「時の重さ」が感じられるからだ。(11月24日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳)

2014年10月21日火曜日

ヴェーバー年表に見る、大戦前夜と百年後の今日

【訂正版、10月24日更新】
 マックス・ヴェーバーが『世界宗教の経済倫理』を執筆開始したのが1911年。それに前後して病気療養のためイタリアに行くが、帰国後間もなく出版されたフッサールの『イデ-ン』に刺激を受け、急遽「理解社会学」について構想を練り、『ロゴス』誌上に『理解社会学の幾つかのカテゴリーについて』を1912年秋に掲載、出版したのが翌年の1913年。その一年後1914年に第一次世界大戦が始まっている。2014年の今から数えて、ちょうど百年前のことだ。
 二年後の1916年に『儒教と道教』・『ヒンズー教と仏教』を、1917年に『古代ユダヤ教』を連綿と書き著している。野戦病院で従事しながらの執筆だというから、まさに驚きである。
 「宗教社会学選集」と「経済社会学綱要」、この二つをXY軸にして、宗教と経済がクロスする「社会的行為」の如何にを考える、壮大な座標系の「理解社会学」を展開するはずであったと思われる。夭折が惜しまれる。今みなと手分けして『古代ユダヤ教』を原書で読んでいるが、リソースに借用感の強い先の二書と比べて比較にならないほど、完成度の高い「珠玉の作品」と言える。後に「パーリアとしてのユダヤ人」(Die Juden als Paria, in: Die verborgene Tradition、「隠れた伝統」)を書いたハンナ・アーレントに強い影響を与えている。次年度、大学のテクスト講読で取り上げる予定。今から期待しておいてもらいたい。
 あれから百年後の今、新たな世界大戦を起こさない為に考えるべきこと。仮に想定外の戦争が起きても為すべきことを弁えた自分であるために、普段の学習(原書講読)は欠かせない。翻訳書を読んでわかった「つもり」でいると、すぐ綻びが生じるよ。

*お詫び: 二百年でなく百年が正解、「二」は余計でした。書き込み中「に」の消し忘れによるイージーな変換ミスです。事のついでに、二百年前の1814年といえば、米英戦争ですね。ナポレオン・ボナパルトが島流しにあい、洪秀全やバクーニンが生まれた頃、ヴェーバーはまだ生まれていません(笑)。

Shigfried Mayer(宮村重徳)


2014年9月27日土曜日

「げんてん」皆無の現状では誤謬推理だけが跋扈(ばっこ)しよう

【改訂新版】
 「ぜん」との「えん」にケノーシスの「わけ」あって、ハイデガーと取り組み、無名法師のダルマに魅せられるようになった。「ぜんにん」(禅門の人)を悲しませたり、(宗門が異なる)他の誰かを喜ばせたりする意図など毛頭もない。
 思うに、「波斯国胡僧」の祖師なしには、インド仏教はもっと早く滅亡していたのではないか。抽象的な無などどこにもない。無名とあえてなり歴史を避けて生きたヒト、「無となって働くモノ」に徹したこのヒトなしに、中国で大乗仏教が広まらなかったに違いない。このヒトの「かべ・かん」なしには、「ぜん・と」も不安、けごん・てんだい・ほっけの「あらかん」も安心して生きる道はなかったはずだ。そうではないだろうか。
 「ぶっきょう・と」が、「いすらむきょう・と」の侵攻で失われた「げんてん」の復刻を望む気持ちはよくわかる。しかし、サンスクリット語「げんてん」のあるなしで(有無が不透明なままで、訳経・偽経を論(あげつら)うのは非生産的な気がする。翻訳は解釈、新たな作品である。事後的なサンスクリット語化も「と」による再解釈に他ならず、「創作」となんら変わらない。ましてや、文字に依らない・サンスクリット語化による経典の権威付けを求めない「ぜん・と」を責め立て、中国撰述を理由に『けつぎ経』を「偽経」呼ばわりしたり、仏説的分別のあるなしで「けいきょう・と」を「外道」扱いしたりするのは意味がない、やめた方がいいと私には思われる。胡僧の祖師と向き合うことなしに「ぜん」文化の基が考えられないように、壁に共鳴する「けいきょう」現象を抜きにして、「ぜん」の燈史は語れない。
 以上あくまで私見だが、「げんてん」皆無!の現状では、ある「かのような」誤謬推理だけが跋扈(ばっこ)しよう。無いものねだりから来るルサンチマン(裁き合い)の応酬は、百害あって一利なしであろう。不毛な偽経論争に終止符を打つためには、経蔵の「ぶんけん」解釈学だけでもまだ足りない。律蔵・論蔵を含めた三蔵の「りかい」社会学が必要だと思われる所以である。何かのお役にたてばうれしい
 楔は大事なところにそっと打ち込まれる。ダルマの「是如安心者壁観」は楔である。宗派宗門の利害を超えた平和実現の礎、対話の「げんてん」となる。異論また反論があれば、喜んで傾聴したい。(10月19日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年9月16日火曜日

京都への旅、ダルマの影追いヴィトゲンシュタインに...

913日から14日まで、久々に一泊二日の京都旅行。目的は、同志社大学で開催された宗教学会で研究発表するためです。『予言者的「壁観」のルーツとダルマ伝承』は、時間をかけ用意周到に準備した威信の作。アウトラインを解説するだけで優に一時間はかかるものを、十五分で済ますという無理難題を無事済ませてきました。「波斯国胡僧」(ペルシャ系外国人僧)の祖師と「向き合う」ことなしに、「壁観」を論じても何も始まらない、史的ダルマを理解することなしに「壁観」探しは意味をなさないと思うのですが、参加者が少なく反応はいま一つ。「諒解」関係を築くまでには時間がかかりそうですね。今後の課題とします。
 今回の学会で得た唯一の収穫は、ヴィトゲンシュタイン。大正大学の星川啓慈教授は、死後42年たって発見された幻の『哲学宗教日記』の背景となった場所を、自ら散策してヴィデオに収め、解説してくださいました。『太陽とヴィトゲンシュタインの宗教体験』を論じる際に、なるほどヴィトゲンシュタインは「語り得ざること」として、「神について」語ることを自らに戒め、論じることは一度もなかった。しかし「神と語る」ことを止めなかった、むしろ思索の源泉・原動力としていた主旨を伺い、強い共感を得ました。実は、数年前にわたしもこの『哲学宗教日記』を買い求め、読んで深く心を打たれた記憶があります。スピノザのことが先にあり、そのままにしておいた経緯が思い出されます。取り組みの幅ができ、「仏を思い神を考える」ケースタディーの選択肢も増えて、今後がいよいよ楽しみです。(10月2日更新)
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo.

2014年8月26日火曜日

少子化社会の懸念と憂鬱、依存症につける薬はない

以前のブログで「有名病につける薬はない」と言ったが、やる気がない子や学生をその気にさせる薬もない。身体的に病んでいるわけではないから、薬物療法は効かない。少子化社会の懸念と憂鬱に特効薬がないのも、同じ理由からである。相手の目線で考えて、どこを突かれると自ら動かざるを得ないようになるか、辛抱強く対話しながら、ターニング・ポイントを一緒に模索する必要がある。初めから、答えを教えてはいけない。押し付けになると学習できない。
それを聞けば動かざるを得ない言葉は、人により様々で一様ではない。通り一遍のお叱り言葉や褒め言葉は手段に過ぎない。目標は自力救済である。ひそかに抱く深い願い事を察し、「脱自」の動機となる意外な一言を、惜しみなくヒントを出しながら、本人の口から語らせる。ただそれだけで、自ずと解決することがある。「言語療法」(ロゴセラピー、フランクル)が有効なのは、人の子だけである。不安な親子には、「その不安な心を持っておいで」と、促すだけでいい。気づくまで待ってあげることが肝心。気づけば御の字、ダルマの「安心問答」も自力救済の役に立とう。忍耐を失い非寛容となり、争いが高じて家庭崩壊してしまう前に、自らしかと肝に念じておこう。最後は君の「聴く力」、働くモノに聴き入る力が試されよう。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo


2014年8月9日土曜日

自称「イスラム国」の暴挙とクルドの悲劇

チグリス川北岸に広がるイラク北部の都市モスルとその一帯は、かつてアッシリアと呼ばれたところ。ニネベを首都として栄えたアッシリア帝国に、預言者ヨナが宣教したことで知られる。モスルにあるその廟、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の預言者ヨナの墓が、先日7月27日にイスラム国によって無残に爆破された。クルドには、かつてはユダヤ教の上級神学校がありネストリウス派キリスト教の拠点でもあった。ネストリウス自身を初め同派の僧たちがここに身を隠し、インド・中国へと渡る足がかりとなった場所である。悲しいかな、イスラム国はこの地帯を一斉攻撃し、クルド系の少数派を殺戮しようとしている。
 かつて古代インドで、新興イスラム教が仏教を狙い撃ちにして、仏教徒を偶像崇拝者だとして排撃し、仏教寺院を焼き払った事件があった。貴重なサンスクリット語原典類が失われた。ついには、インドから仏教を駆逐した歴史的経緯が思い起こされる。当時も今日と同様の経過をたどったのだろうか。「イスラム国」を名乗る過激派集団は、スンニ派中心のグループだと言うが、信教の自由を踏みにじるそのやり方は残忍で容赦なく、アルカイダ系の過激さを超えた専横的権威で、文化財を破壊し、暴虐を欲しいままとしている。預言者モハマドは、そのようなこと(手前勝手なデマゴーグ)を許すはずがない。イスラム教を指導する立場にある法学者・神学者たちの覚醒を促したい。宗教の政治利用を止め、宗派間の「寛容」を学ぶべき時であろう。欧米の若者たち、インターネット上で流布する扇動的言論(デマゴーグ)に、軽々しく乗せられてはいけない。自分にしてほしくないことを、他人にするな。武器を捨て、平和を愛せよ。(10月13日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretative sociology Tokyo

2014年7月26日土曜日

預言者的政治言論と社会批判、真理陳述について

 日本を含め、国際政治と社会は混沌として、いつ何が起きてもおかしくない、一触即発の危機的状況にある。にもかかわらず、なぜ今さら『古代ユダヤ教』を原書に参照するのか、疑問に思われる諸君に塚越氏の論旨を紹介することで、「集団的自衛権」解釈に潜む危うい問題点を洗い出すためにも、必要最低限の基礎研究の視点を再確認しておきたい。
塚越健司は、『フーコーにおけるパレーシアと預言者の真理陳述』[1]で、注目すべき論点を抽出している。パレーシア(παρρησiα parrêsia)は、「真理陳述=真実語りvéridiction」を意味する一つの批判的言論形式だとする、ミッシェル・フーコーのパレーシア研究に沿いながら、預言者の真理陳述に着目する。パレーシアとは、古典ギリシア語で「すべてを語る(tout-dire)」あるいは「真実を語る(dire-vrai)」といった意味で理解されている。
 但し、パレーシアはヘレニズム社会に共有された政治的概念である。「古代アテナイ社会においては民主主義の均衡を図るものであり、政治的な野心を持ち、しかし公共性を備えた徳ある者が、市民に語りかける真理の言説であった」ことを確認する。これに対して、社会的機能として類似した事例を、古代イスラエルに於ける預言者の言論活動に参照する。「古代イスラエルにおける預言者は、王や祭司といった特権階級の横暴を諌めるための、一神教的かつ官僚制が未熟な社会であり得た批判的真理陳述の一つの形だった。預言者はパレーシア的な真理陳述とは異なるものの、当時の社会にあって預言者が果たした社会批判の機能は、民主主義や古代イスラエル社会の均衡を保つこと、世間から一歩はみ出た「真理」を有する者達による、批判的言説としての真理陳述である」と述べた上で、フーコーでは、「パレーシアの真理陳述の形式は、すでにそのものとしては消え去り、他の3つの形式の接ぎ木として機能している」という(3つの形式については、ここでは割愛する)。更にその理由として、預言者の真理陳述の形式が「政治的言説、革命的言説の中に見い出せる」とフーコーが考えているからだと指摘する(Foucault, 2009:29-30 =2012:39-40)。最後に、ここが一番興味深い所だが、「革命的言説は、他人の名を語り、運命づけられた未来を語る。フーコーは直接言及していないが、他人とはマルクスであり、未来とはマルクス主義が語る、生産手段の社会的共有を求める、資本主義から共産主義への革命理論を指していると推察される」と補足している。
 我々が今例会で、ヴィーバーの『古代ユダヤ教』(Das antike Judentum)を紐解きながら、中でも「預言者」の分析をしている個所(第2章「ユダヤ的パーリア民族の成立」, 原書のII, S.281 ff.)に注目しつつ、共に思索を重ね討議する必要にして十分な理由がここにある。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretative Sociology Tokyo





[1] 塚越健司『フーコーにおけるパレーシアと預言者の真理陳述――古代社会における批判的言説の類型とその意義――』。専修人間科学論集社会学篇、専修大学 2014年, Vol., No., pp.89-99 (TSUKAGOSHI, Kenji: Véridiction of Parrhesia and Prophets in Foucault : Types of Critical Discourses and Their Significances in Ancient Society
Vg.: M.Foucault,1994, “La vérité et les formes juridiques”, in Dits et écrits tome II 1970-1975, Gallimard, (参照:西谷修訳 「真理と裁判形態」小林康夫他編、『ミシェル・フーコー思考集成第V』筑摩書房、2000年)

2014年6月22日日曜日

例会の日時変更、イベントのお知らせ

【7月27日更新】
6月22日(日)に予定していました例会(マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』研究会)は、都合により来週の6月29日(日)に変更いたします。時間は通常通り19時から、場所も同じJR北千住東口駅前の「カフェー・サンローズ」です。
予告: 明日727日の例会は、猛暑対策(笑)として、予定を変えて、JR武蔵野線吉川駅前にある「吉川天然温泉あゆみ」で夕食をし、汗を流しながら語り合うことにします。希望者はご連絡ください。8月の例会(824日予定)では、芳賀郁彦氏の短期ドイツ留学レポートを拝聴します。
万障お繰り合わせのうえ、お越しください。
Shigfried Mayer(宮村重徳)

2014年6月19日木曜日

暴力の津波を食い止める、安心の壁はないの?

津波の暴力は自然的経緯、暴力の津波は人為的災禍です。憎悪の連鎖に歯止めがきかない。イスラエルとパレスチナの紛争は最近鎮静化したように見えても、隣国のシリアとイラクでは、政権派(シーア派)と過激派(スンニ派+)による宗派間の殺戮行為が、絶え間なく繰り返されています。欧州ではウクライナとロシア、アジアではインドと中国でも、隣国との諍いが暴力沙汰となり、政治家も宗教者も血眼となり、世界中が戦争の渦に巻き込まれています。心底安心できる壁(平和の砦)、戦争行為を食い止めるスーパー堤防がないものか、皆が疑心暗鬼していることでしょう。シリア・イラク・アフガニスタンから中国の西域にまで伸びるルートは、かつて栄えたシルクロードではないですか。私が今研究している史的ダルマ(菩提達磨)は、「如是安心の壁観」を教え、平和と喜びをもって生きる「道」を実践していたのです。28代目の仏祖と言われる彼は、宗旨を超えた平和の使徒だった。驚きでしょうか?まだ、驚くには早い。彼がユダヤ系の人だった(可能性が高い)と知って、誰が腹を立てるでしょうか。
現代は情報社会なので、どこでどのような紛争が起きているか、すぐわかります。情報技術が発達していなかった時代に於いても、紛争や戦争は多発していたが、一般に知られていなかっただけでしょう。おそらく「戦争の歴史」という刻印を免れる例外は、どの時代にもなかったことでしょう。暴力は外部から加えられるものとは限りません。ヒト存在の内部でも衝動が妄想を生み暴発して、自分だけでない、友人をも苛めたり苦しめたりするじゃないですか。仏教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も、隠す仕方で露わになる存在の真理をハイデガーに学び、世界平和実現の為に「無の壁となって働くモノ」を、ダルマに学ぶにまたとない良いチャンスです。
青年諸君は、阿部政権下で目下進行中の「集団的自衛権」を巡る憲法改正と解釈論争が、自分たちにとってどんなに危険なことかを知り、戦争準備の為の解釈変更の試みに、きっぱりとノーを言わなければいけない。もっと積極的になって、自分の「良心的兵役拒否」権を主張し、平和の手足となって働かないといけない。そのように思う次第です。6月21日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute of Interpretive Sociology, Tokyo


2014年6月12日木曜日

働くモノを理解し、考える自分を培う、ドイツ語学習の勧め

  以下は、獨協大学で「ドイツ語基礎」を選択している学生たちに、二回に渡り授業の冒頭で言ったことを少し手直しをして、参考の為に書いておきました。よく読んで、小テストや定期試験に備えてください。
1.ドイツ語は屈折言語です。その特徴は、主語と連動して動詞の形が決まる(「人称変化する」)、対象とする物(名詞)も係わり具合で形が決まる(「格変化する」)、この二点です。動作主である人称(Person)は三つ、働くヒトの屈折するパターンは三×二(単複)で六つです。辞書に出ているのは不定詞と言って、人称変化する前の形ですね。主語が第一人称、話し手の「私」(ich)なら、まずキャップとなっている不定詞語尾の-en を取って、-e を付ける。動作主の私が進んで相合傘の柄を持つのだと覚えてください。主語が第二人称、聞き手の「君」(du)なら、-st を付ける。君と親しくなれば、ストーンと恋に落ちる(笑)と覚えてください。主語が第三人称、話題の「彼・彼女・それ」(er, sie, es)なら、-t を付ける。話題や関心に手を付けると覚えてください。普段は単数形の三択で十分ですが、二人称と三人称には不規則に変化するものがあり、たいていは母音の変化ですが、要注意です。いいですか、直接対話するのは一人称と二人称で、会話文や物語文でよく使われますが、数からいえば比較にならないほど、説明文や論説文では話題となる第三人称の語彙が非常に多い、いや大半がそうなのです。
2.名詞は物を表す言葉で、シフトキー押すのが大変でも、必ず大文字にします。格変化は4択です。ここでも、欧米語では物が主語であるケースが非常に多い、つまり第三人称形である物が主語となるケースが圧倒的に多いということを忘れないでください。モノが働き手(主語)となるとき、二度目からは人称代名詞に置き換えます(der名詞は erdie名詞は siedas名詞は esで)。人称代名詞が人を受けるとは限らない、「何」物を指しているかにご注意ください。また、名詞形が「格変化する」というのは、モノの「傾き」加減を表示すること、名詞形の前に付いている冠詞(der, die, das)を変化させることで、格の違いを言い表します。1格は主語(~は/~が)、2格は所有格(~の)、3格は与格(~に)/ 間接目的語、4格は目的格(~を)/ 直接目的語を指しています。日本語のように、名詞の後に助詞をくっ付けて済ます膠着言語と違うので、ご注意ください。
3.英語と同様、ドイツ語にも五文型があります。大事なことは「定動詞」(主語を明記した動詞)は文中の二番目に来るということ。「定動詞第二位の原則」と言います。平叙文では、軸足が二番目にあるので、副詞乃至修飾句が先頭に来れば、主語は三番目にきます。動詞が先頭に来るのは、疑問文か命令文のみです。文型については、自動詞であればS + V (主語+動詞)、ザイン動詞(英語のBe動詞に当たる)であれば S + V + C (主語+動詞+補語)、他動詞であれば S+V+O S+V+O1+O2 S+V+O+Cのいずれかです。英作と同様、ドイツ語で文章を書くときは、「誰が何だ。誰がどうする」(主語と述語)をまず宣言してから、「いつ、どこで、誰と、どのように」の順序で付加説明をします。完了文や受動態の時は、二番目に助動詞(sein, haben, werden)を置き、文末に過去分詞形をもってきてフレームを造ります。通常、「枠構造」と言います。忘れないでください。人称と時制の変化(x軸)は、セカンドとラストで決まります。環境設定(y軸)は、接続詞の文にして対応します。ドイツ語の造りは規則的ですから、理解しやすい。あとは応用あるのみ。確かに、英語と比べて厳格ですが、枠組みがしっかりとしている分、それだけ表現の緻密さに長け、習熟の自由度が高いということです。
4.授業では、ハイテク機器を駆使して、見て聴いたことを確かめながら、会話文と説明文を二度繰り返して学習します。三度目の分は、宿題(レポート課題)として手渡しているもので、各自が練習した経過を毎週報告すること。当方で(赤ペン入れて)添削いたしますので、必ず提出してください。実力を定着させるには、少なくとも三回~十回以上自宅での練習が必要です。ドイツ語を学ぶと頭が冴える、しっかりと物事を理解し考える力が付く。それは本当の話しです。この半年間または一年かけて、ぜひご自分で体得してみてください。因みに、君が日本語で考えたことを書きだして、ドイツ語にしてみるといい。主語が曖昧で、誰に対して何を言いたかったのか、考えがいかにいい加減だったかがわかるでしょう。自らの体験(^^;)に基づいて申し上げています。

2014年5月25日日曜日

対局で振り返る、布石の二から、三挟み・四通しへ

最近ブログへの書き込みが少ないのは、それだけ研究に専念している証です。最初から盤石の研究を予測できていたわけでありません。すべては縁、師との出会い方次第です。それについて、若干のレポートをしておきましょう。
今より振り返りますと、寄り道・迂回路(Umweg)が多い、なが~い道のりでしたね。テュービンゲン大学でお世話になった二人の指導教授、エバーハルト・ユンゲルとマルチン・ヘンゲルに負うところが大きかった。(初期バルトとブルトマンを介した)メタファー言論とハイデガー研究は前者に、史的ダルマの研究は『ヘレニズムとユダヤ教』で知られる後者、ヘンゲル教授に動機づけられています。個別研究の係わり・成り立ちは、決して偶然でなかったということです。布石の二から三手への転機となる切っ掛け(縁)を与えてくださったのが大島良子先生、ハイデガーと禅思想との係わりは私の人生を左右する重要な迂回路、有無を言わせぬ分水嶺となりました。ヘレニズムとヘブライズム(ユダヤ教)研究に、更には史的ダルマの研究に影で心強い支えとなってくださったのが、東洋大学名誉教授の河波昌先生です。社会学言論への継続的取り組みを嘱託研究員として可能としてくださったのが、法政大学大原社会問題研究所名誉教授の五十嵐仁先生、この場を借りて、諸先生に感謝を申し上げたい。他方、ヴェーバーの『理解社会学』との取り組みは私独自で始めたことですが、座標軸確定と四面のフィールド更新が目的です。陰に陽に折原浩教授の刺激的で貴重なご研究を参照させていただいております。法政大学の紀要『多摩論集』に掲載した論考については、走り書きのものが多く、完成版は今後にご期待ください。
 その都度の出会いを通じて、無造作に置き石・飛び石をしており、挟み込みの是非を巡って順次整理・点検中です。因みに、囲碁の対局では、ツケノビ、ハネコミ、ツケオサエなどが定石とされています。ここでは、初歩的な打ち手に譬え、布石の二、挟みの三、通しの四としています。(10月13日更新)
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Rikaishakaigaku

2014年4月16日水曜日

世界宗教の経済倫理、古代ユダヤ教(ヴェーバー)を例にとると

 スピノザは読むにむずかしく、ギデンスでは皆の関心が高まらない。ならば、いっそのこと、ヴェーバー研究の一里塚、『世界宗教の経済倫理』を締めくくる『古代ユダヤ教』のケースをどう理解するか。これを新年度のメインテーマにしたらどうか。そのような強い願いとご提案があり、2014年度は『世界宗教の経済倫理』に含まれる、「古代ユダヤ教」(Das antike Judentum)をケース・スタディーとして取り上げることにしました(『宗教社会学選集』第3巻に収録)。これなら、みすず書房のドイツ語版の他、邦訳の安価な岩波文庫版もあるし、手軽に皆で関心が共有できる。私の専門分野でもあるし、討議課題として申し分ない。ということで、毎月第4日曜日の午後7時より、例の北千住東口前にあるカフェー・サンローゼで会合を開くことにします。因みに、第一回はその導入(4月27日)。会合の前後に、ドイツ短期留学を終えて帰国した芳賀さんのフレッシュな「留学報告」を予定しています。ご期待ください。
 なお、参加者にドイツ語の知識の有無は問いません。訳本ではわからない、原書のさわりを確かめたい諸君もどうぞ。テクスト資料は無料配布、手ぶらでお越しください。聴講無料、関心のある方はどなたでも、一同歓迎いたします。(4月30日更新)
Shigfried Mayer(宮村重徳)

2014年4月1日火曜日

史的ダルマの研究を集大成する、今後の計画

 年度替わりの三月は諸課題に忙殺され、ブログに手が回りませんでした。さしあたり、いくつかのことをご報告しておきたい。2012年にプラハでなされたドイツ語講演は、厳密に校訂したものを来年初めに刊行される獨協大学の紀要に、日本語で書いた論文は法政大学の次年度紀要に掲載し公開する予定です。史的ダルマの理解社会学的研究を集大成するに、さしあたり二途が用意されることになります。前者(ドイツ語論考)は、ダルマの壁観について主に身体現象学の立場から論じたもの、後者(日本語論考)は日本の読者にわかるように、宗教社会学的言論研究の体裁で、もっぱら文献解釈学を駆使して論じています。つまり翻訳ではない、別の論文だということです。同志社大学で開催される秋の日本宗教学会でも、類したテーマで発表する予定です。まだ手がかり足がかりを提供するレベルにすぎませんが、今後にご期待ください。

Shigfried Mayer(宮村重徳)

2014年3月10日月曜日

ウィンドーズのアプリケーションエラー、「ぶらつき」を一挙に解決

今回は、セキュリティーに関する技術的なコメントを一つ。公共機関でも被害が出ているようなので、参考にしていただきたい。
最近NUNorton Utilities)でレジストリーをチェックする度に、メインマシーンの一つで、一日平均10件近くもアプリケーションエラーが続出。忙しかったせいもあり、気にせずしばらく放っておいたら、エラーレポートが一月分大量に累積していた。障害発生の原因は、AluSchedulerSyc.exe (バージョン3.4.1.238のタイムスタンプ)。このプログラム使用を要請している元が何か調べてみると、まず外部干渉によるローミング(roaming)が疑われた。ローミングしている先を調べてみると、百度(バイドゥ)の書き込みによるものと判明。早速、「ファイル名を指定して実行」、コマンドプロンプトから regedit と入力し、レジストリーエディターを起動、"roaming" を検索すると、"c:/users/*/appdata/roaming/baidu/hao123/001108.exe" の書き込みを発見(/*/には個人のユーザー名が入る)。次に、レジストリーで検出された関連する文字列: "currentuser/software/Baidu" をすべて削除。これでほぼ完璧に、99.9%のアプリケーションエラーが一掃され、この一件は無事解決した。これ以降、NUでチェックしても「レジストリーはクリーンです」との表示、ひとまず安堵する。
因みに、ローミングとは「放浪する・ぶらつく」こと。"Roaming" をドイツ語では、"herumwandern", "streunen", または "herumstreifen" という。承諾もなしに他人のコンピューターに侵入し、入力する個人情報を収集する目的で、勝手に「ぶらつく」真似だけはしてほしくない。本来ローミングは、携帯電話会社によるエリア外での接続サービスとして一般に広く知られているが、悪用してほしくないものだ。今後インタラクティブな承諾の仕様は、ユーザー自身の「良心」では覚束ない、クラウドに於ける「諒解」的要件として厳しく問われ直されるべきであろう。(3月12日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳)

2014年2月26日水曜日

異常気象もよく見れば、寒気と暖気の背比べ、乾気と湿気の鬩ぎ合い

幾度も記録的大雪に見舞われて、今度は作付けする山地の農家に、都民には交通機関に甚大な被害をもたらしました。なぜかくも自然は無差別に人間世界を苦しめるのでしょうね。目の前で、大雪の後凍りついた道路に倒れて血を流している高齢者を目の当たりにして思うこと。歩くにも、防具のヘルメットは欠かせない。それにしても、寒暖は大入道の背比べ、乾湿は小入道の鬩(せめ)ぎ合い。乱世・乱高下のクラウドは、どうやら働く人には無関心らしい。玉突き現象も乱心でない、どこまでも「普通です」ですまし顔。異常気象を起こすそれが必然なのか偶然なのか人知れず、不安ならいざ知らず。少なくとも、マクロのエスが起性因なら誰も恨み言を言えるケースではない。クラウドの神を想定し、意思決定する人格存在のクリエーターと考えなければね。こうなると、ハイデガー(の存在)でも手に負えない。後のことは、スピノザ(の神即自然)かライプニッツ(の予定調和)に尋ねるほかない。(2月28日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), coyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年2月12日水曜日

ゆとり世代は「普通です」、でもネットで保守的・好戦的なのは?

  別にはやり言葉ではないのだろうけれど、自分は「普通です」と答える若者が増えている。ゆとり世代の口癖である。平均的自画像に自分を合わせようとしているだけなのかもしれない。しかし、いざネットで発信するとなると、これが意外に保守的で好戦的な性格をむき出しにする。「普通です」に、「破れ」を促す革新性は嫌われる。それは、枠組みから外されることへの不安から来ていよう。言い換えると、既定の枠組みを突破する自信がないのである。余暇を楽しむゲーム感覚に従うと、刺激的で好戦的なプレー意識が身についているので、都知事選挙でいえば、60万票の結果で示されている通り、田母神氏の宣伝工作に易々と乗せられてしまう。ツイッターで呟くことで、普段の不満が解消されているので、爆発的抗議行動や社会挑発的・革新的な行為に乗せられない、手を出すには及ばない。「普通でない」戦争行為の悲惨を知らない世代の若者たちが都知事選に積極的に参加していれば、結果は今よりもっと衝撃的な保守傾向を露わにしていたに違いない。もちろん、ゆとり世代にも多様性があることは周知の上、一枚岩でないことを念頭に置いての上である。「普通です」の言明から、未来社会の地殻変動を惹き起こす(「普通でない」社会を望まない、タブーの沈黙を破る)人物の台頭を期待したい。
 期待が大きいだけに、懸念もある。自然の働きに法則があるように、社会人の働きにもゲーム規則があることを教えるだけで済むのかどうか。何と戦うのか自分の争点が不明で目標が曖昧、推論に正確さが乏しく、理解に飛躍が多すぎる点が気になる。大学教師の一員として危機感を覚えるのは、わたしだけではあるまい。意思決定は彼ら自身がすることなので、私たちのベストチョイスを強いるわけにはいかない。ベターチョイスの選択肢を増やすことで、忍耐強く対話を挑むほかないように思われる。(2月17日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年2月5日水曜日

他人事でない鬼退治、自分の鬼子にどう向き合うか、難問だよ

 2月は節分の季節ですね。節分と言えば、「鬼は外、福は内」で、豆撒きをして楽しくお祝いしています。東洋の説話文学では、古来鬼は渡来者のルートに係わりがあるようです。例えば、タミール語で(怨念から来た?祟る)モノ、たいていは女性の恨み・辛みに起因すると言われています。或いは逆に、男性の恨みにも係わることで、渡来系(蝦夷系、アイヌ系)のヒトを「天狗」と呼び、邪魔者・異物者して扱う。これが鬼子となると、そう簡単には追い出せない。
 精神分析学でいえば、赤鬼は内心の不満が高まり怨念となり、燃え盛る火のように怒るモノの働き。青鬼は内心の不安を煽り、猜疑心を焚き付ける、冷酷無情を駆り立てるモノと言えるでしょう。いずれの刺激も同一根の衝動(Betrieb)である。
 蝦夷征伐を大義名分とした征夷大将軍の仕来りは、政治的な意図を持った、民意を逸らす目的で設けられたことでしょう。自分自身の赤鬼・青鬼はそっちのけにしてね、無知な大衆には豆(金)をばら撒くわけです。いずれにしても、鬼は怨霊と係わりがあります。
 他方欧米では、悪魔とか悪霊とか言いますね。サタン(ヘブライ語)やベルゼブル(ギリシャ語)と言った、人を誘(いざな)うモノの働きで、誘惑者は人格的存在です。たいていは、命じるモノと委託を受けて働くモノが結託している。イエスが荒れ野で、サタン(悪魔、悪霊の頭)から試練を受ける話しが有名ですね。わざわざ、「天使がそばで仕えていた」と添えられている。「サムエル記」では、サウル王を襲った憂鬱の悪霊も癒しの善き霊も、(絶対有の)神から来ていると指摘していた。そういえば、ゴウタマ・シッダルータにも「悪魔との対話」というのがある。こちらは教えを妨げる教師・悪しき知恵者だが、絶対無の立場から向き合う形となっている。
 鬼の話しがエージェントに及ぶと、国政や都政と無関係ではない、よく考えて見ると深い関係がある。してみると、東西文化の文化風土の違いを超えて、自分たちの赤鬼・青鬼、鬼子とどう向き合うのか、それが鬼門としても避けて通れない、共有すべき社会問題となるのではないでしょうか。節分の季節も都知事選挙へ向けて、この問いを読者の諸君への誘(いざな)い事としたい。
 付記: 都知事候補者の一人桝添えさんは、過去に自民党を飛び出した(脱藩した)だけでなく、女性や高齢者をばかにした侮蔑発言をするなど、かねてから毒舌者の経歴がある。その点で、自民党にとって彼は鬼子、彼を擁立することは鬼門でないかと思えたので、このブログを書いてみました。烏合離散の派閥的な勢力争いをする政党政治には付き物ですが。一度スピノザの『国家論』をお読みなったらいい。すっきりしますよ(笑)。
(2月8日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology

2014年1月25日土曜日

「脱・原発」で都政を問えば、知事自ら安心の壁=民心の鏡でないと

 「脱」と言っても、脱法や脱臼の話しではないですよ。脱人間化(非人格化)のように、誤った縛りを脱することです。『知性改善論』でスピノザが言っていることは、富と名誉と快楽を追求する際の秤縄となる「最も善きモノ」が何であるか。神即自然を壁また鏡にして、レンズを磨きながら考えて、必然の定めとしてある萬有の「法」の如何にを、平民の目線で淡々と問い続けている。もとはラテン語と言っても、面白いですね。なぜか自然言語でする職人的工房の奥深い味わいがある。それに事実上、これが『エチカ』の序論の役割を果たしている。他方、『神学・政治論』の副題は「聖書の批判と言論の自由」でした。最高善を追求する「知性」とは、悟性また理解力のこと、彼にとっては常に社会言論のカテゴリーです。これが、『国家論』でますます明瞭になります。
 今日の問題として読み直すと、例えば首都や国家の戦略として、誰かがエネルギー政策の転換を図るために、「脱・原発」或いは「原発ゼロ」を提唱するとします。もちろん、間近に迫った東京都知事選挙の話です。政界を引退した人(細川さん)が、盆栽をいじり陶器を焼く一職人として生きたその延長線上で、或いは(宇都宮さんが)弁護士的職人気質に徹して、東京都民にとって「最も善きモノ」が何か・如何にして達成されるのかを、「脱」或いは「ゼロ」で論じようとしている。面白いじゃないですか。別に、細川さんや宇都宮さんをスピノザのケースと同一視するつもりはないですよ。でも、田母神さんにはない、およそ桝添さんとも違う何か、異なる味わいが二人にはある。
 「脱・原発」を言うことで、都知事の立候補者が肝に銘じておくべきことは、自然と社会の萬有を貫く(神即自然の)「法」の働きを証左しつつ、都民のために知事が自ら安心の壁=民心の鏡となることです。
2020年の東京オリンピックについては、政治介入ゼロのスタンスを願いたい。
(2月1日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology Tokyo

2014年1月15日水曜日

百年に一度ならまだしも、一年に百度のリスクを抱え込まない為に

最近の新聞報道では、中国検索大手「百度」(バイドゥ)のIMEが、入力文字情報を無断送信したことについて、全国で話題になっている。「全国の都道府県と政令市のうち29府県市で1000台以上の公用パソコンに同ソフトが使われていた」事例が発覚したばかり。皆が口をそろえて、「入れた覚えがない」という。原因は、何らかのアプリケーションに抱合せで組込まれたプログラムが実行されている。実行するには、圧縮プログラムが解凍されなければならないが、その際の解凍するアプリケーション(例えば、汎用性を装った FreeZipsetup*.exe)に、抱合せで組み込まれている(すでに確認済み)。セットアップの結果は、使い慣れたホームサイトでなく、身に覚えがない「百度」(バイドゥ)のサイトが立ち上がる。つまり、ha123.exe の実行された画面が表示される。
対策: ①あわてずに、「スタート」から「ファイル名を指定して実行」を選ぶ。この画面で、msconfig を実行、②「スタートアップ」から身に覚えのないプログラムの実行を止めるために、チェックをはずすこと。③それでも、NU(ノートンユーティリティーズ)などの整合性チェックで、(ha123.eseの)「プログラムが存在しないか、(レジストリーの記述が)妥当でない」と指摘されて、「修復」するかどうか聞かれる。一括して「修復する」を選ばないこと、まずチェックを外して、決して修復させない!こと。多々ある喪失プログラムの一つとして表示されるので、意外と見逃されやすい。ha123の文字列が見つかったら、必ずチェックを外し実行を阻止すること。④コントロールパネルを開いて、不要なアプリケーションの削除を実行する。そうしても残るもの(以上の現象以外)については、随時対応していく他ない。⑤さしあたり、海外でも中国人が多数住む所(例:ドイツなど、中継地点経由)で制作された便利なアプリケーション(例えば、人気の高い babylon.exe など)を信用しない・実行しない・「翻訳」させない!こと。レジストリーの深い部分にまで食い込んでいるので、削除が大変。確かに、自動翻訳プログラムは便利だが、素性の知れないものが多い。リスク満載であることを忘れてはいけない。理解したければ、自分の手で辞書を開いて訳しなさい!人任せが一番の禁物です。他にも、フラッシュプレーヤーに抱合わせでついてくる mcafeescan.exe も要注意。随時、問い合わせには応じたい。問題があれば、いつでもご連絡ください。(1月25日更新)
【注1】FreeZipsetup*.exeには二つあり、FreeZipsetup-OmWXXEvZV.exe と FreeZipsetup-dBM9hLU.exe、まちがっても絶対に手を出してはいけない。
【注2】リスクの管理は自己責任ですること。無断送信は個人情報の漏えいにつながる、言論の自由を脅かすものだから、これを蔑にする国のソフトを安易に信用してはいけない。
Shigfried Mayer (宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology

2014年1月1日水曜日

年頭所感: 不在の仕方で現前する、「神即自然」の《身振り》に学べ


 

 スピノザが「理解社会学の祖」だというのは、ユルゲン・ヘレ(Jürgen Helle)のテーゼです。『エチカ』の各論ごとに随所で、「わたしは~と理解する」(intelligo)と繰り返していることから、それなりの説得性はあります。但し、働くモノとしての神は非人格性で一貫しており、目的合理性を寄せ付けない。その点で、我が思う主観世界の存在基盤(近代人の分裂症的自己理解)を揺さぶり、社会学思想さえも「脱臼」させるほどのすごいインパクトがある。中でも『神学政治論』は、ヘブライ語法を駆使した先駆的聖書解釈(高等批評)で物議をかもした経緯があり、これを社会学言論の課題として読むと、もっと面白いですね。とにかく、今年は(個人研究の枠内ですが)スピノザを論じることで、法政大学大原社会問題研究所の嘱託研究員としての役割が果たせるものと考えています。初代の大原孫三郎先生がクリスチャンであられたように、牧師を兼務する私が研究所に貢献できるよい機会ではないか。そのように考えて、「神の身振り・目配せのみによって動かされる」(Nos ex solos Dei nutu agere)存在を紐解き、「天馬」スピノザに於いて働くモノが何かを見届けること。生成する現実から目を逸らさずに、しっかりと神即自然に向き合いたい。これを以て、実りある一年の事始め、今年の年頭所感としたい。(1月7日更新)
copyrights © all reserved 2014, by the Institute for Interpretive Sociology Tokyo