2022年12月22日木曜日

師走に急ぎ板書する、フィンガー・マスターへの覚書

 我が指を禅師のそれと見誤ることはない。見まね・聞きかじりの真似事でない。2004年になされた明治大学での公開講演会に招かれ、フライブルク禅アカデミーの大島淑子先生に教えられたこと、「一指禅」で知られる俱低和尚の語り伝えを持ち出すまでもない。

私のケースでは、壁のある禅道場とアマゾン倉庫が不思議につながる。理解していただくには、少し説明を必要とする。

アマゾンジャパンは、どのステーション(太田DS、戸田DS)でも、ルート別に商品をDX化し仕分けする、フィンガーの役目を果たす内に、自ら学んだマイスター修行の心得。企業秘密に係るので詳細は割愛するが、一つだけ例を挙げると、シンプルに「標準作業以外は何も行わない。」

A或いはB, またC或いはDの、ルート別にフィンガーで仕分けしプッシュするのみ、平常心でこそ日々是好日、ビンエラーもサイクルエラーも取り漏れを恐れず、いたずらにピックしない。平常心で下流にながせばいい。流し直しは学び直し、リ・カレントまたはリ・スキリング(Re:Skilling、再度スキルを磨く)のチャンスが平等に働き手全員に保証されている。

このコネクションは偶然でない、安全と倹約、セーフティー(safety)とフルガリティー(frugality)を最優先する姿勢に、ピューリタン革命以来見失われていた・資本主義精神復興へのアマゾンのポジティブな取り組み、創業者ジェフ・ペゾス氏の基本的スタンスで知られる、失敗から学ぶ意気込み、いつも初心で始める覚悟を促すことで、スキル更新(自己刷新)を容易にする工夫、知性改善への並々ならぬ気迫がうかがわれる。

「過ちは生産的である」(Irrtum ist produktiv)、シュライエルマッハーの『解釈学』(Hermeneutik)に通じること、失敗や過ちを他に許さない・責めるばかりで失敗から学べない・学ばせない、保守革新を問わず、さび付いた日本政治社会の言論界・西洋かぶれの文化人の狭隘性に通じること。

その意味で、サイクルの終始に短さを感じさせない、2022年は充実したサイクルだった。来る2023年は、ブログ読者のケースに傾聴しながらリ・フレッシュできる、共に実りある収穫の年としたい。

なお、私が愛読する日経クロスティック(xTECH)の記事:『「学ばない日本人」にリスキリングを浸透させるには』が参考になろう。高く上げる師の一指に対して、弟子たちが「手を挙げる」というところがおもしろい。すごく考えるヒントになる。下のリンクをたどり参照してもらいたい。

宮村重徳(Shigfried Mayer)、copyright © all reserved 2022、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

 

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00138/121501181/?n_cid=nbpnxt_mled_chm


2022年11月23日水曜日

アマゾンの「しもべ~」として生きるのもわるくない

  不思議な縁ですね。「だるまさんが転んだ」の遊び心で始めたこと、目下IT大手アマゾンジャパン剛堂会社のアソシエイトとして用いられ、とりあえず感謝でいっぱいです。

 大学や教会とは無縁な職場でも、あまのじゃく(天の邪鬼)ということではなく、一時も「主の僕」(イザヤ書)から目を離さず、しばし「アマゾンのしもべ~」として生きるのもわるくない。

 生活が安定し余裕ができた分、戸田公園のDSからの帰り道にあるサミットで活魚を買い求め、文字通り食べ漁りに読み漁りの贅沢な毎日、マルクス・ガブリエルのドイツ語原書(Kindle版)を、時を惜しんで日夜熟読しています。

 半田先生の高尚なテーマには程遠いですが、充実した回り道を十二分に楽しんでいます。翻訳本にはない、原書には考えるヒントが随所にあふれており、いずれブログでご報告しますが、成果は公開文書にして出版予定です。

宮村重徳(Shigfried Mayer), copyright © all reserved 2022, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員 

 

2022年10月27日木曜日

三つ折りの《じりつ》、自立・自律・自動(人工)のルート

 《じりつ》を考えるヒントにして、哲学・倫理学を含む社会学の基礎概念をおさらいしておきたい。事例は次回に紹介するので、心配無用。

①一つ目の《じりつ》は、成人となり自立すること(independence)・自活(selfsupport)でもいい、生活資金を親に頼まない、(de, Selbstständlichkeit, Unabhängigkeit)、他に寄生した生活をしない、他と共生するか自活する選択肢はあるが、自給自足の生活を目指す。

②二つ目の《じりつ》は、自律(autonomy)に即した生き方をすること、意思決定を他に委ねない、後見人の親や教師・神職の判断によく傾聴しても、最後は自分で決断する、他律的heteronomy)でないということ、自分の悟性(de. Verstand)を用いてよく考え、自分らしく語り振る舞う。

③三つの《じりつ》はメカの話し、自動化した人工の造形物も人の技(artificiality, human work)だが、ロボットのようにストレートにメカニックでない。意外に思うかもしれないが、AI(人工知能)のようにディープラーニングして因果関係を説明可能とし、知に付きまとう感情の縺れを解きほどき、複雑に絡む社会問題のコンフリクトの解決に寄与する。

不透明な自動化の行方、例えば、メカの《じりつ》で人が仕事を失い職場を追われる、人工知の技法は匠の技、芸術的手法(an aritficial techinic, artificialityKunst)を基本的特徴とするはずだが、未成年状態では困ったことに、クラウドの現実は詐欺情報に塗れており、僕たちの意のままにならない。では、最後に「機械仕掛けの神様」(Deus ex Machina)がAI仕様で、急場から救ってくれるかどうか。さあ、君たちはどうする?反転するに何が必要かな?

11月2日(水)更新

宮村重徳(Shigfried Mayer), copyright © all reserved 2022, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

 

2022年9月7日水曜日

淵のある原風景、フラットな世界の終息と自己環境の見直し

 覚えているかな、前回のブログで、コロナ禍の憂世に光と影があれば、ロシアによるウクライナへの侵略戦争にも光と影あり、と言ったね。

 影は存在(光るモノ)の軌跡、森羅万象が運動している証拠、何かが光るのは働くモノ自体である証左。基本は円運動だが、唯我独尊の同心円でない、やがて彼我の存在と係り、利害関係に入る。すると、楕円を描いて連動し、渦をなすに至る。渦巻き運動にも右回り左回りあり、その違いは自転する軸周りの速度の違いによって生じる。はたして、人間の条件は気象条件と同じか、ミクロとマクロの世界でどう違うのか。

 周知のように、神経伝達物質は光る、癌細胞でも然り。では、気圧の谷間に生きて命の光を灯す、実存者として知恵の工夫が必要。知恵はフロネーシスだが、運用するのはロゴス、商いするヒトの語り振る舞いは、そのつど佇まう自分の時と場を数える。『時間と存在』で「存在論的差異」(光と影!)に着目したハイデガーの論究は見逃せない。脳内の神経伝達物質の場合は、濃度の違いで数値が異なる。線状態の降雨は、雷神神話と異なり、高層低層で異なる電位差によること、実存者のケースでは関係度が濃淡として問われようか。

 数といえば自然数、正の整数だが、四則計算には負の整数が必要となる。そもそも、数えるとは如何なることか。有理数(富の実数)ならいざ知らず、実数に奢らず無理数に怯まず、虚数を含む複素数の発見を以てしても、VRの虚像に惑わされずプロパガンダに踊らされず、木偶の坊と呼ばれようと、お前は非正規労働者として、最後まで無名の生涯現役を貫けるか、フラットな存在論の世界を見極め淵にさ迷い出て、詩歌を詠んで真理探究を貫く優れ人が何人いようと、体感する物価高と消費者物価指数は乖離するのみ。もはや、経済界の正論ではビンエラーは解決できない、変動する自己環境指数の実状(サイクルエラーの因果)を理解しないとね。デフレもインフレもごった煮の始末。

 識者のオピニオンは指摘する、「こうした中で原材料のコスト高と消費増税の負担を価格に十分に転嫁できない企業が編み出した苦肉の策が、「隠れ値上げ」「ステルス値上げ」とも呼ばれるシュリンクフレーション(値段は据え置いて商品の容量を減らすことで実質的に値上げを行う販売手法)」では(https://synodos.jp/opinion/economy/28119/)、

もう手に負えない。出口のみえない負の連鎖、日銀主導の成り行き任せでは、ビンエラーやサイクルエラーの因果関係は見破れない、首尾一貫性が得られるまで流通ルートの光と影を見逃さず、生活苦にあえぐ消費者の目線で、人的資本の価値を再評価する必要がある。

 他方、真空域にワープする宇宙空間でも、光のメタファーだけで話は片付かない。なぜなら、未知のダークマター(陰るモノ)が多すぎる。人は星屑同然、ガスと塵よりなる存在にすぎないが、ツイートして語り継ぐことはできる。見えざる宇宙の壁に瞑想入りするには、キリスト教の自己犠牲論で不十分とも。釈迦牟尼に智慧(フロネーシス)を学び光と影を分別する「神と悪魔の対話」が必要か。それは旧約聖書「ヨブ記」に共有された主題、社会学的には、双方のレプレゼンタントに第三の受益者グループが介在し、混迷を深める点はどこも同じだね。

 光と影の二極化が膠着化し、堂々巡りの平行運動に終わらせないためには、縁取りのフラットな面でなく、新たなスペースのアングル、第三の軸対称の立体面があって初めて、有意味な場所移動が始まるよ。星を紡ぐ子らたちに、量子力学が参考になるのは、そこからだね。

宮村重徳(Shigfried Mayer)、copyright © all reserved 2022, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2022年8月19日金曜日

春先に修羅場の予感、夏場も不安な暗夜行路のDX

  今なぜ再度、宮沢賢治の『春と修羅』の話かといえば、春はスプリング(Spring)、新芽を膨らませ葉の表面を張る季節もともと「跳ねる」意味があることからバネ(弾力的なスイッチか安全弁のホックを指すどのような変異ウイルスのリスクに晒されても動じない跳ね返す心のバネ、柔らの術を身に付ける、コロナ禍のカオスに惑わず獣道に迷わぬよう、自分のルートを探りあて、根源Ursprung)から離れた距離と角度を測るのみ

 猛暑の夏場に終戦日を迎え、DXの商機にもたつきながら、水分塩分の補給だけは欠かせないが、強靭なシステム体に心のバネがないspringlessと、弱り目に祟り目(Weak eyes and course eyes, or: Misfortunes never come single [singly].、話題中のローコードにノーコード、せっかくのアイディアも絵に描いた餅になりかねない、社会的自我も内奥的自我も仕分け漏れ、戦わずしてホックを失い衰退する。 

 サイクルエラーなどこわくない、ビンエラーがなくなるまで、シンプルに何度も流し直せばいい。解釈は力だからね、ワクチン開発でも然り、最新情報に絶えず更新しないと、効力を失い萎びて使えなくなる。8月31日更新

宮村重徳(Shigfried Mayer), copyright © all reserved 2022, 法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2022年7月20日水曜日

内外の虚無化に歯止めをかける工夫(その一)

コロナ禍の憂世に(ワクチン開発の光と影があるように、ウクライナ戦争にも光と影あり、海外に逃れた若者たちの他に、タチアナ女史を初め16300人のロシアジャーナリストたちを忘れない。プーチンの帝政ロシアへの夢を砕くのは、結局彼らしかいないのでは。被害者のウクライナ国民をサポートするのは当然のことだが、ロシアを愛する彼らを闇夜に放置せず、苦渋の心中を理解し、ウクライナ=善・ロシア=悪と断定せず、善悪の彼岸を超えて、影として働く彼らを支えてあげたらいい。それが最新の武器供与(物量)を頼みとせず、悲惨極まる無意味なこの戦争を終わらせる、意外な近道かもしれない。

でも、プーチンロシアの揺さぶりは、あまりにも一方的で過激すぎる。そんな悠長な話は通用しない?待てないなら、辛くても徹底抗戦のウクライナに与し、楽ちんなエネルギーサービスの享受を断念するか、選択肢は二つあるのみ。さあ、諸君はどうする?

Shigfried Mayer(宮村重徳)、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2022年7月9日土曜日

悲劇の因果関係を穿つと

 安倍氏暗殺の背景に、特定に宗教(キリスト教とは何らの関係もない)、文鮮明の統一教会(国際霊感商法の母体)との蜜月の関係が強く疑われる。数多くの家族を巻き添えにした前例あり、参議院選挙のヒントにしてもらいたい。

宗教団体というのは隠れ蓑、統一教会の実体は勝共連合で知られる、反共組織の政治団体です。被害情報については、その後全国霊感商法対策弁護士連絡会から詳細な報告がなされており、そちらを参考にしてください。7月12日更新

2022年6月30日木曜日

音が資本・意味は余剰、ポイント切り替えて考え直せ

自由度が高そうだからと一度フリーランスを選んだら、あとは自己責任で働きを全うする?でも、意外な縛りがあるから注意してほしい。

音が資本・意味は余剰(おまけ)と考えれば、物音(轟く雷鳴)からメッセージ(囁く神の声)を聞き分け、物質に霊化の関係を探ることができる。意味づけは恣意的で紐づけられていることが多いからね。

霊化はインスピレーション、誰が何をヒントにどうインスパイアーされようと、音(雷鳴の轟)から意味(メッセージ)を会得するプロセスを、スピノザ同様に自在に理解できるのでは。ポイント切り替えて考え直す、チャンスは今しかない。

切り替えるポイントの正式名称はターンアウトスイッチ。さび付かないよう、日頃の手入れが必要だよ。環境変数次第で自分を写す鏡も曇る、損得計算は後の祭り、目減りしても慌てない。利権の運用に血迷う共同幻想は始末に負えないからね。7月7日更新

Shigfried Mayer(宮村重徳)、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2022年5月12日木曜日

宇宙万象のリソースはガスと塵、エネルギー資源争奪戦の行方

 ·        前回ブログの続編、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が念頭にある。悟性同様、理解も精神もヌース。見えざる精神は不在の仕方で働くモノ、これを空として捉え直す、運動論的関心から、空け開く場(スペース)を位相幾何学的に探求する(Topologocal Research)必要が生じる。観測者(モニター)の討議要件が残るが、今日では情報科学の課題でもある。

·        例えば、願わしい国際平和のために何が必要かを考えるに、諸学を横断する行為者の知性改善論が求められる。知性とは、またしてもヌース、ラテン語でインテレクトゥス(intellectus)という。 旧くはスピノザの『エチカ』で、遺稿となった小論『知性改善論』で知られる、政治神学の実践課題。更に、オイケンの直弟子マックス・シェーラーが『実質倫理学』の課題として追究、『コスモスの中の人間』は道半ばの作。マルティン・ハイデガーの『オントロジー(事実性の解釈学)』の影に押しやられ、矢が折れてしまった。

·        シェーラーは、内奥的人格と社会的人格の狭間(立つ瀬のないスペース)で突破口を模索するよう、当時青年運動を指導する立場にあり活躍していたこと。エドモント・フッサールとの係わりの中で「内的時間の現象学」探求にひた走るハイデガーと、心理学的解釈を退ける点では両者と一致するが、「壁」理解のアングルを異にする点が注目される。言語の壁であれ民族精神のそれであれ、壁や幕はスペースを仕切るもの。どちらにせよ、いざ叡智を以て、自分の悟性(ヌース)を行使する勇気(カント『啓蒙とは何か』)、或いは存在への勇気(ポール・ティリッヒ)が要請される。

·        たかがガスと塵、されどガスと塵。物質の霊化(半田)を考えればなおのこと、ヌーロジーの系譜にそれをたどると、カントを初めオイケンもシェーラーもボッパルトも、ヴェーバーもフッサールもハイデガーもティリッヒも、今話題の人マルクス・ガブリエルもみなドイツ人。アングロサクソン系は、ユダヤ的知性と縁が深い。それは理由があってのこと、考える力は言語次第。摂食の如何にが問われる。

·        和製英語では、グローバルなアカデミー界に通用しない、学際的に討議できない。感性言語の区別と定義は後でいい。それでも、発想の豊かさ・着想の鋭さには驚かされる。随所にきらりと光る石あり、石庭の飛び石のようだ。点を線にするに、対座して親しく語らい食を共にする、陽だまりの縁側が欲しいところ、半田のヌース・アカデミアには、未来の子らを育成するために、流動食だけでは足りない。咀嚼するには硬めだが、歯ごたえのあるドイツ語の学習機会を設けることが望ましい。もちろん、ライ麦系の言葉を食しても胃腸での消化次第、生肉は火や熱を通さないと下痢をするが、エネルギー争奪戦は味わう舌ですでに始まっている。

·        熱源はもっぱら宗教的風土、深海の熱水噴出孔に微生物が群がるように、エネルギー資源争奪戦の背景には、宗教的動機が見え隠れ、例えば、プーチンのウクライナ侵略戦争を賛美し聖戦として祝福する、キリル・ロシア東方正教会総主教の影響が見逃せない。55日(木)、フランシスコ・ローマ教皇が「理解できない」と言い、ズームで(プーチン大統領の)「侍者になるな」とキリル総主教を叱責したそうだが、愛国精神を培うロシア的敬虔の根深い虚勢を穿つ勇気、フェイク情報に呪縛されたヌースの批判的行使は当然だろう。黒幕と疑われる大統領補佐官ウラジミール・メジンスキーの影響については、別途に譲る。

·        宇宙万象のリソースはガスと塵、いずれ地上の危機的事態は収束し、ガスと塵を巡る宇宙のエネルギー資源争奪戦にまで発展するだろう。そうなれば、ヌーソシオロジー(理解社会学)の出番となる。あくまで私見だが、半田のヌーソロジーはそのショートカットとして、より柔軟で射程の広い有効性を十二分に発揮することになろう。怪しく色めく主観的な民族共同体の精神(プロパガンダは洗脳の道具)をモニターする、経験妥当で諒解可能なシャンスの保証とモニタリングが必要となる。制約の多い古典モデルだが、とりあえず今はカントとヴェーバー、倫理ではシェーラーに注目しておきたい。

·        異なるイデア空間のモニタリングについては、場所論や記号論との微調整が必要となる。チャネルの認知空間と諒解可能性について詳しく論じる中で扱いたい。日経新聞の論説主幹・原田亮介が424日付で公開した最新記事「カントが嘆く新しい戦争、戦場は宇宙と認知空間」が参考になる。次回紹介する。

·        エイジング・ゼロに息吹く精神の現在、「遅れてきた青年」(大江健三郎)に、世代の壁はない。次々回ブログ(6月以降)のお楽しみ。

Shigfried Mayer(宮村重徳),  copyright © all reserved 2022,  法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員

2022年4月10日日曜日

ヌーロジーからヌーソシオロジーへ、理解社会学の新たな地平を模索する

 自然は美しい。しかし、時に民族単位の集団で人のすることは醜い。争い殺し合うのはなぜか。民族の利害を超えた「崇高なる精神」(ヌース)の探究を見失ったせいではないか。

半田広宣のヌーソロジー(NOOSOLOGY)は没概念、用をなさない。基本定式は、ヌース + ロゴス=ヌーロジー(NOOS+LOGOS=NOOLOGY)であり、ヌーソロジーとはならない。ステムはヌー、インマヌエル・カントの『理論理性批判』でもヌーロジー(NOOLOGIE /de)である。『聖なるもの』で知られる宗教学者ルドルフ・オットーのヌーメン(Numen)やヌミノーゼ(Numinose)でわかるように、連辞でない限り、術語形成上母音の挿入はあり得ない。単綴りでは不可、端末子音のスは脱落する。

ヌーロジーのコンセプトは(NOOLOGIE, de)、ドイツの哲学者ルドルフ・オイケン(Rudolf Eucken)によって、「世界と霊魂を包括する精神」(ヌース)として定義されたが、ヌーロジーの系譜はカントの定言命法にまで遡る。「いざ賢明に、自分の悟性(ヌース)を使う勇気を持て!」(Sapere Aude: Habe Mut, eigenen Verstandes zu bedienen. 『啓蒙とは何か』、私訳)問題は、その悟性をいかに行使するか。

一見意外な展開に見えるが、そのベースを合理化し、愛と知と力が渦巻く緊張の場へと理解を深め、無意識の流れを見える化する、アンドレアス・ボッパルト(Andreas Boppalt)の情報科学的手法(メタモルフォロジー)に受け継がれている。今日支配的な、物質と精神の歪んだ世界構造を「脱構築する」こと(deconstruction)が目標とされる。ライプニッツ研究に始まり、ナーガールジュナの空論(ダルマの教え)に着目、フィールドは多岐にわたり、苦を和らげる知のアスペクトは、「知を力」とする知識社会学に相対する。

ただ、ボッパルトには手詰まり感を否めない。他方、怪しげなチャネリングの話は論外として、半田の関心は一見奥深く、物質と精神の抜本的見直しを含め、三次元を超える展望が視野にあるようにも。とはいえ、ヌーロジーの基本定義と定式に沿ってこそ正しく展開可能。サスティナビリティーの大原則である。比較研究から差別化するのが望ましい。

ヌーロジーの手に負えない国際社会の諸問題は、ヌーソシオロジー(NOO-SOCIOLOGY、これぞ「理解社会学」本来の義、マックス・ヴェーバー)によって解決可能。ヌースの本義は、ゲマインシャフト内外に働くモノを、偏りなく「理解する」こと(Understanding, Verstehen)にある。理解規則は「諒解行為」(Einverständnis、主観的な語り振る舞いをする人が、他の期待に準拠して行為すれば、結果として客観妥当な蓋然性が得られる)仕組みを捉え、その都度空け開く場(スペース)に即して、コンセンサスの確率を高める。
21世紀喫緊の課題:プーチンのロシアによるウクライナ侵攻がもたらした国際平和秩序の混乱と破局からの回復を切に祈り求めたい。今回はこれまでとする。異論・反論があれば、喜んで傾聴したい。
Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved 2022

2022年2月17日木曜日

オミクロン憂世が浮世に変わるサインかな

 枯れ薊(あざみ)荒川土手に春一番

天高く雲雀(ひばり)一途に舞い上がる

コロナ禍もピークアウトのサインかな

泣き面の憂世が浮世に変わるのよ

 

安行しげ子(シュテファニー・クレメンス代筆)

2022年1月23日日曜日

年頭所感:宇宙の壁に映える、君の陽だまりに、仮初の処得て

 読者の皆様に、遅ればせながら、新年のご挨拶を申し上げたい。

九死に一生の冬景色、神さま仏さまも雪ダルマ、悠々と大空を滑ってござる、

マスクしてメガネが曇り行き先を見失い、チャリンコから転げ落ちて仰向けに、リュックに背負った冬装備の重さでバランスを失ったせいだが、ひやりはやっとの骨折体験も何のその、どっこいおいらは生きている。

果たせるかな、宇宙の壁に映える、君の陽だまりに処を得て、仮初でもコロナ禍で折れかけた心身は癒されぬ。

安心のコルセットで身を固めるもよし、物質と精神を巡る自己回路のジレンマを脱し、臍(ほぞ)の峠を越えて一里塚、富士山・男体山・浅間山・赤城山・筑波山を一望できる、さいたま市桜区荒川の堤防で、終日冷たい寒風に身を晒しながら、一抹の懸念も悔いも後に残さないよう、更に考えを深めている。

マックス・シェーラーの「コスモスの中の人間」では、マルティン・ハイデガーの存在論の問題提起に答えられない。その先を行くには、理性と悟性・神話と宗教の言論(ロゴス、ラティオ)の系譜を究めつつ、閉塞した社会経済の合理性に、突破口が必要。されど、神智学(テオソフィー、ルドルフ・シュタイナー)の思弁(夢幻)に走らず、ニューサイエンスの焼き回しにも追随せず、いかに優れた直観でも、エヴィデンスなければ、所詮思弁(スペキュレーション)にすぎないのだ。

太陽系外に陽だまりを求めるに、どのような深奥の智慧(ヌース)が必要か、ヌースを語る汝は何者なるか、科学的信仰(疑似宗教)に陥らぬよう、求められる思考回路のオン・オフに、必要且つ十分条件は何か、挙げて見よ。求められるポストモダンの宗教改革は如何なるか、予断無く考えるヒントを、無底の淵に求めて、壁観ダルマの試行錯誤は、今日も明日も不断に続く。

Shigfried Mayer(宮村重徳)、2022年新年、三郷にて