2017年3月23日木曜日

テクスト研究から事実性の解釈学へ、現存在の峠道をたどる

 テクスト研究なのに、およそテクスト研究らしくない、現存在の解釈学への道のりを、新年度に向けて、若きハイデガーに探っています。「ナトルプ報告」で周知のアリストテレス的現象学の解釈に、食も忘れ寝るを惜しんで、思索に執筆に没頭しています。冒頭の「オントロギー」(存在論)は解体の対象で、本来の主題は「事実性の解釈学」ですね。「解釈学」(ヘルメノイティーク)は、かつてのわたしの作業場、懐かしい工具が散在している旧い工房です。「理解社会学の工房」という名称も、そろそろ改めないといけないかもしれない。いくら年をとっても、傍目に無一物でも、ほらこんなに溌溂としておれるのは、背中を押すように働いて止まないモノが現に其処に有るから。


2017年3月7日火曜日

〈実学〉でも〈無学〉でもない、〈一般社会学言論〉特殊講義

〈実学〉とは、実生活に役立たせることを目的とした学問のことで、文部科学省のお勧めにある。例えば、工学・医学・薬学・農学・法学・経済学・教育学などの諸部門。日本の大学では、哲学や歴史学・文学・宗教学など、人文系の学問分野は(実生活に役立たないという理由で)〈無学〉に等しく、それ以外は、概ね〈実学〉である。
 大事なことは、君たちが何を以て生きるのか。職業や人生行路の選択に欠かせないこと。ぶれない人生を送るには、軸の安定性が求められる。他方、心の病にかかり寝込まない為には、日頃からしなやかな体つくりが必要となる。心身の造りを学ぶことが、昔は〈教養学〉と呼ばれていた。今日では、大学改革の名目で教養部解体が進み、心身の造り方を学ぶ機会が何処にも見当たらない。〈無学〉とは、勉強しなくて済ませることでなく、〈無への学び〉である。無への学びは安心を会得する術、無心とも云う。
 社会学がリストに入っていないのは、わけがある。それは、専門分野の分化が進行した結果、諸学は専門馬鹿を再生産するばかりで、利回りに偏った人間のみを輩出して、実際の社会形成に何の役にも立っていない。社会学は諸部門を横断し、語り振る舞いの因果関係を論究するから、とりわけ重要である。社会学は、〈実学〉にも〈無学〉にも属さない。ド・ソシュールの『一般言語学講義』とヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』に基づいて私が提唱し展開する〈一般社会学言論〉講義は、〈実学〉と〈無学〉の大事なポイントを橋渡し転轍する役目を担っている。
 早速、2017年度の獨協大学ドイツ語学科での「テクスト研究」にこれが反映される。春学期は「若きハイデガーの『存在論‐事実性の解釈学』(1923)を、秋学期は「プラトンの洞窟の譬喩解釈」(1931 /32)を取り上げる。これは到底〈実学〉とは言えない、当然〈無学〉に迫るが、それに留まらない。存在論解体のその後をにらんで、〈一般社会学言論〉の立場から、東西世界に跨る現象学運動の因果(語り振る舞いの影響史的関係)を究めることになる。関心のある諸君の受講を期待している。
3月27日(月)更新