2013年5月19日日曜日

前代未聞、非常勤講師に雇止め5年の上限(緊急レポート、その三)

[先のブログの前半でご報告した橋本発言と、後半の鎌田発言は同一問題でありながら少し違った問題点を提起しているので、いったん切り離し内容を書き改めてここで再報告する](5月22日更新)

 もう一つは、年度初めに発覚し4月以降大学界を騒然とさせている鎌田発言。早稲田大学総長で理事長の鎌田薫氏の、非常勤講師就業規定(5年雇止め)に上限をつけるという、強権的な発言である。それによると、非常勤講師は誰であれ無条件に、5年後の2018年に全員解雇されることになる。もとはと言えば、昨年2012年の8月に公布された「労働契約法改正」にまで遡る。これに伴い、新たに第18条(5年継続の有期労働者の無期転換)、第19条(繰り返し更新された契約への期待権・雇止め制限法理の法定)、第20条(不合理な労働条件の禁止)が追加された。法改正の狙いは非常勤講師の就労実態を変更することなく安定化させることにあったはずだが、理事長が管理経営上の不利益を恐れたのか、早稲田大学の契約更新に5年の上限を設定した。改正労働契約法に規定された雇用者の義務を免れるために行われた「脱法行為」ではないかと疑われて当然であろう。
 大学経営者に再考を促したい。常勤であれ非常勤であれ、教え働く人の「人格を目的としてのみ扱い、決して手段として扱ってはならない」。カントの定言命法を思い起こせば、抗議は至極当然である。大学教育を陰で支えてきた非常勤講師の人格否定と蔑視は一目瞭然、男女の差なく執行されるという、とんでもない話だ。理事会がその決定を撤回しないというのは、「大学再生会議座長」として、鎌田氏が教授会から審議権・決定権を剥奪し、総長である自分に権力を集中させる提案をしているほどであるから、用意周到でしたたかな策略と強引さを感じさせる。あまりに拙速で経営上の都合しか念頭にないから後は突っ張るだけの、浅はかな小心的言動というだけではなかった(前回の修正箇所)。早稲田大学だけでない、悲しいかな足元の法政大学でも然り。ただ一部を除き、その他の国公立大・私立大で多勢が追随するまでに至っていないのがせめてもの救い。ジェンダーの垣根を越えた、あらゆる類のハラスメントに対する抗議の声を惜しまず、阿部政権の今後の動向を見極めたい。
 以上の二つ(橋本発言と鎌田発言)は、強者(男性支配)の論理で一貫しており、いわゆる社会的弱者(女性や未成年者を含む、派遣社員やパートなどの非正規労働者)の人格性と尊厳性は、政策上また経営上の都合で常に後回しになっていよう。労働者全体の4分の一に当たる1410万人が対象となるから、就活中の諸君もうかうかしておれない。明日は君たち自身に降りかかる問題だから。私自身も大学の非常勤講師として、1988年以来一年契約を25回繰り返してきたので、明日は我が身の問題である。専任となって大学の雑務に追われるより、自由な研究生活を優先したツケではあるが、見過ごすわけにはいかない。諸君に異なる意見や反論があれば、その旨をお聞きしたい。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年5月14日火曜日

言語道断の人格否定とセクハラ発言(緊急レポート、その二)

[6月29日(土)更新]
 二つのショッキングなニュースが、今日本の政治社会を翻弄し言論界を席巻している(第二部はカット、次のブログへ)。
 一つは、昨今のお騒がせな橋下発言。こともあろうに、沖縄の現地米軍司令官に、「もっと風俗業を活用してほしい」と進言。発言者の日本維新の会共同代表(現大阪市の市長)橋下徹氏に対して、5月14日各方面より抗議の声が上がった。たとえば、「女性を男性の性的欲望の対象としてのみ捉え、女性の人格を否定して蔑視するものとして断じて許されない」(青年法律家協会大阪支部)との抗議声明が出されている。誰であれ、「人格を目的としてのみ扱い、決して手段として扱ってはならない」とするカントの定言命法(『道徳形而上学原論』)を思い起こせば、抗議は至極当然である。 また、戦時下では「慰安婦制度は必要だった」と釈明する橋下氏の不用意(それとも確信犯的?)な発言についても、「戦争中であったから仕方がないかのような言動をとることは、(元慰安婦の女性を)さらに傷付け苦しめる。市長の人権感覚と品位を疑わざるを得ない」と、言葉の軽さに歴史認識の甘さがあると、国内外から厳しく批判されている。
 現に海外メディアからも、、”Sex slaves were necessary”、或いは” ‘Comfort women’ were necessary”では、"anachronistic"(「時代錯誤的・前時代的発言だ」)と厳しい批判の声が聞かれる。これを日本のメディアが、建前上そうであるとしても、ずばり本音を言われては困るからだろうと受け取るなら、相手国を無視したあまりに身勝手な解釈である。公娼制度の「飾り窓」(De Wallen)があるオランダ・ドイツ・ベルギーが相手なら、「何を今更」と苦笑されよう。禁酒禁煙など厳格な道徳観を持つアメリカ、ピューリタンのマスクした国を相手に「建前」を言うのなら、「徹底的に建前で論じる」ことで、それなりに「社会的合意形成」(桑子)が達成されるはずだ。ただ、国際交流には言論文化の違いに注意が必要だという認識以前に、社会言論の因果関係から言えば、誤報の種を撒いているのは本人なのだから、「(マスコミの)大誤報にしてやられた」と、強がりを言ってみても何も始まらない。不本意だとしても、氏の発言は戦後の「赤線」復活を間接的に容認し促していると、揚げ足を取られても仕方がない。橋本氏が視察すべき先は、米州のフランシスコではなく、欧州のアムステルダムやデン・ハーグ、フランクフルトやハンブルクだろう。
 あくまで橋本氏ご本人は、戦争時に暴力的に働くモノ(性的衝動)を兵士がどう処理するのか、合理的な解決策を進言したつもりのようだ。司令官に苦笑され一蹴されたのも無理はないが、たとえ丁寧に言葉を使い分けて、「国を挙げて」(つまり国策として)為されたことではないということで済まされるのかどうか、また同党の石原慎太郎氏が弁護しているように、「戦争に売春はつきもの」でハラスメントの合理的釈明となるかどうか。橋本氏は石原氏と異なり侵略戦争を肯定してはいないが、結局同じ穴の貉(むじな)である。戦時体制の力学で説明しようとすれば、最後は戦争美学を謳歌する強者の論理がまかり通るだけではないのか。「日本だけに限ったことではない」と、特殊性を一般化する意図からの発言であれば、論点のすり替えではないか。貧困撲滅が真意であればなおのこと、女性の人格否定と蔑視を強く臭わせるか煽るような発言の無責任さが問われよう。
 そうならないために、橋本氏へのアドバイス。アムステルダムかフランクフルト、またはハンブルクへ視察旅行に行かれたらいい。(近くに軍港や米軍基地のある)飾り窓で働く女性たちの人格理解と、彼女たちに関する欧州人の人権意識がどうなっているかわかれば、それなりに収穫があろう。沖縄米軍司令官も聞き捨てにできず、違った応答をすることだろう。あなたも変わらざるを得ない。市長のマスクを捨てて、きっと変わるに違いない。
 
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年5月3日金曜日

どうして債務不履行が初期設定に?- デフォルトの意外な多義性

default, defaut, Schuldenverzug, was ist denn das?
デフォルトとセキュリティーの関係について、メールでたくさんのご質問をいただいたので、まとめてお答えしておきます。
通常デフォルトとは、法律用語で「為すべき義務をしない・怠る」、法廷に「出頭しない・欠席する」こと、経済用語で「債務支払いを怠る、債務不履行に陥る」ことです。リーマンショックの世界金融危機で問題となった、鬱陶しいあのデフォルト連鎖事件を思い出してください。これは決して、ITと無関係ではありません。語源上は、法律的意味合いが先にあり、IT関連の誰かが後から違った意味で使い始めたのでしょう。
IT用語では、ユーザーが何も操作や設定をせずに「初期状態にある」こと。例えば、予めハードウェアーやソフトウェアーに組み込まれた設定値をデフォルト値と言いますね。ユーザーが各種設定を自分でしなければならないと面倒なので、一般に妥当とされる平均的且つ典型的な利用環境を想定して、メーカー側で予め適当な値を付けて組み込んでおくのが普通です。カスタマイズの権利をユーザーに保証する意味で、平均値以外は「履行せず」の白紙状態にしてあるわけです。
ただし、カスタマイズ後にも注意が必要です。ユーザーが自分の利用環境に合わせて様々な設定の見直しをする必要があるのに、面倒とばかりそれをせずに(メンテナンスの履行を怠って!)デフォルトのままで使い続けようとすると、予期せぬ不具合(余計な債務)が生じます。最近の具体的な例を挙げると、セキュリティーリスク対策として頻繁にバージョンアップされているIEへの新たな自己環境の再設定・アップデートによる微調整を怠っていると、不具合の未調整(債務不履行)による綻びは避けがたく、結果としてデフォルト依存からセキュリティーリスク(脆弱性)が生じ、知らぬ間に文字化けを伴う「レイアウト崩れ」が起きるということです。
さて翻って考えてみると、色々なことに気づかされます。君が何をデフォルトに指定しているかそれ次第ですが、レイアウト崩れは潜在的なリスクの予兆、氷山の一角に過ぎません。最後は君自身にかかわること、デフォルト依存脱却の根幹(自律性の有無)が問われることになります。哲学用語で、自分の悟性を使用せずに後見人任せにして「未成年状態に陥る」(カント、『啓蒙とは何か』)のも、啓蒙主義時代以来の自称文化人に典型的な、デフォルト依存症候群の先例だったのです。中身はいつも熱い視線で追う話題のヒトか流行るモノで詰め換えられるので、それとは知らずに君もきっと嵌っているデフォルト依存に、身分や階級・働く分野や国籍・時代の違いは関係ありません。社会学用語で、後見人依存による未成年状態とは、要するに構造的な「甘え」(土井)のことです。ゲーマーやスマートフォンのユーザーに多いので、ご注意ください。その特徴は、一度嵌ると抜け出せない。楽を満喫するとやめられない(つまり、元の不便に戻れない)。違いますか?君の意見を聞きたいな。(5月5日、こどもの日、更新

追記: それは社会学用語で、「要するに構造的な甘え(土井)のこと」だと言いましたが、もちろんカントの崇高な哲学理念とは雲泥の差があり、混同することなど全くあり得ません。ただ、諸君にはそれを手がかり・取っ掛かり(Anlass)として、「未成年状態を脱する」とは如何なることかを自分なりに考えてほしいと思うから、卑近な例!として取り上げたまでです。デフォルト(当座の世論や安価な世界観)に安住して思考停止していないかどうか、吟味する良い機会となることを望むのみです」。(5月12日、H君への返信から)
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