2012年10月22日月曜日

見ずの勇気と識らずの自由、工房二周年の挑戦

 【改訂版、12月13日(木)更新】
 スマートフォンにアイフォン、便利なツールが出回って、使わないのはもったいない?そうですよね。文明の利器だから。ただ、便利なツールは考える余地を奪うから、注意した方がいい。これをすぐ使わないで、一世代古い機種で済ますことも選択肢の一つですね。工房二周年に当たり、今一度「見ずの勇気と識らずの自由」について考えみましょう。見ず識らずの立場は、すべて自分に考える余地を残す・捻り出すための工夫です。
 いったん画像で見てしまうと、想像力が衰え構想力が萎えてしまうのも事実で、実に困ったもの。後は影絵で踊らされてしまう、グローバル世界の暗部です。情報は理解し自ら体得(=咀嚼し味わうことを)しないと、それ自体刺激物のように脳内に溜まり、不安やストレスの原因となります。完全に目を閉じると妄想が立ち込めるから、半目でいい。見ない自由という選択肢もあることを、いちどよく考えてみてください。見ないで考える力を働かせる、そうすることで、君たちの希薄な存在感が充実する縁(シャンス)を得ることになるはずです。語りえぬものへの注意力にしても然り、禅問答にある「繋驢けつ(木編の蕨)」(けろけつ、自由を望んでもがけばもがくほど、繋ぐ杭が驢馬を縛りつける喩え)にならぬよう用心するには、言わず・見ざる・聞かざるの、三つの工夫が意外と役に立つかもしれないね。違うかな?(笑)、君たちはどう思う?使うツールに溺れないための工夫について何が必要か、新世代の禁欲主義への意見、「見ず識らず」への異論・反論を大歓迎!

余話: 
 昨夜のハイデガー勉強会でね、偶々ダルマが武帝と問答する事件が話題となったんです。実は原書の碧巌録では「不識」と書いてあるだけで、主語の「吾・我」がないので、ドイツ語訳の Ich weiß es nicht.は怪しいですね。むしろ、Das ist (mir) unbekannt. とした方が読み方としては素直でしょうか。ただ、「朕(わし)に立ち向かうお前は何者ぞ」と武帝が言ってるところからすると、ここは口語的に主語なしで「識らず」(Weiß nicht) でもいいかな。
 今回のブログを書くきっかけとなったのは、その時のやり取りでした。「如何なるかこれ聖諦第一義」とは大義名分、数多くの仏教寺院建立に寄与した自分の功績が如何ほどかと密かに尋ねる武帝に対して、ダルマは「不識」(知らず)とまったく取り合わない。そればかりか、「廓然無聖」(かくねんむしょう、からりとした虚空同然、聖など何も無いわ)とはねつける。編纂者の雪ちょう重顕が武帝の言葉について、先ほどの「なんという「繋驢けつ(木編の蕨)」(けろけつ)ぞ」、言句(言葉の定義)に囚われご不自由ですなとコメントを差し挟んでいるところが痛快ですね。

Shigfried Mayer, copyrghts all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku