2012年4月3日火曜日

体験と経験の栞、情報社会に埋没しない為に

Erlebnis und Erfahrung, ein Lesezeichen, in der informativen Welt zu ueberleben
 体験の裏付けがないと、過剰な情報は不安やノイローゼの原因となります。では、体験がないと情報は伝達できないかというと、そうでもなさそうです。生活世界の身近な現象から追体験(Nacherlebnis)が可能だからです。それは、経験知としても学習可能です。知識社会学の引き出しに入れておけばいい。必要なときに取り出して、参照することができます。では、体験と経験の違いが何かというと、体験は見て知ること(videre)、経験は聞いて知ること(audire)ですね。いずれであれ、物事の本質或いは要件(res)を掴む技法に、アクセスの違いがあるということ。ヴェーバーが言うように、シーザーを学ぶにシーザーになる必要はない。そうでないと、社会学や歴史学は探求できません。私たち日本人は書いて見て覚えることが多く、その反面聞いて覚えることが不得手なので、外国語の学習に困難を覚えたり科学的経験知に後れを取ったりします。記憶の栞を付けて寝かせておけば、必要な情報は時が来れば自ずと根を出し、不要な情報は腐り果てることでしょう。風評に惑わされず、経験妥当な説得性でコミュニケートするには、時々自分の記憶の引き出しを整理したり、ゴミ情報はきれいさっぱりと掃除する必要がありますね。文明人は捨てる?で語弊があれば、見るモノを少し抑制する(自己節制)だけで安心が得られる、情報カオスの世界を泳ぎ抜く、新禁欲主義のお勧めです。理解し考える力は、自ずと芽生えてきます。

Shigfried.Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2 件のコメント:

  1. 仰るように過剰な情報は不安やノイローゼの原因となります。そしてNeuroseとは神経症のことですが(医学用語として現在でも有効かという問題は置いておき)、それへの対話を用いた精神療法には共通して、「現在から過去へ」という、テーマを取り上げる時間的な順序原則があります。またその順序は、時として不問療法と呼ばれる森田療法であっても同じです。例をあげると精神分析療法では、治療者患者間に再現される「過去」を患者は体験し、癒されていきます。また森田療法では「いま・ここ」での目的本位の行動から、気分本位であった過去が修正されていきます。この二つの精神療法においての「過去」へのアクセス方法の違いはさしずめ、精神分析が「追体験」であり、森田療法が「経験知」といったところでしょうか?

    さて、私は、ブログ本文後半の「記憶の栞~」「ゴミ情報の掃除~」に吉本そしてレイノルズの「内観法」に似たものをみました。内観はいわば、記憶の栞を引き出し、対象にまとわりついた、疑わしい主観によって脚色された情報を掃除し、事実を確認する作業です(その結果内観者は安心を得ます)。「見るモノの抑制」と「安心」の連関は様々な角度から見えてくるのが非常に面白く思います。

    返信削除
  2. いわゆる内観は、外観を取り繕ろおうとして失敗した自分の過去を振り返りつつ、明日の生き方へと繋げる自己修正のプロセスですね。一気に解決しようとすると元の木阿弥になるので、ひとあしまたひとあしクリアにする(縺れた糸を解す)ことで、自然体で安心が体得できるようになる。疑わしい超越的主観は誤った予期を無意識に抱え込んでいるので、予期に応えられないでジレンマに陥った自己を環境変数との関係で質す必要があるんですね。もっとも、あくまでこれは対症療法です。適正(諒解可能)な社会行為へと反映させないと、それ(心理的技法)だけでは自慰行為に終わります。「存在と時間」(ハイデガー)を捉え直すこと無しには、如何なる経験知と雖も、新たな不安材料を駆け込むか再生産する原因となるので、注意が必要ですね。

    返信削除