2012年7月10日火曜日

真にアノニマス(匿名者)であることの権利と法意識

Über das wahre Recht, anonymous zu sein 
[7月13日(金)更新] 
 アノニマスとは、匿名で勝手なことを言い放題で、根拠のはっきりしない情報(暴露文書)をネットに書き込み垂れ流す、無責任な困ったヒトたちという悪い印象があるようですが、そういった評判は表面的で本来の義を逸しています。真にアノニマスで有るということは、古来探し求められた自由人の境地、名前を伏せる・自分を隠す仕方で疑義を申し立てる。何を疑い抗議するにしても、「法」を無視しては成り立ちません。敢えてアノニーム(無名、名無し)で有ることを自らに欲するのは、形無き法(ダルマ)に学び公共的善に仕える目的で為されること、官僚依存を批判するにしても名を捨て実を取るにしても、己を無とし「載道の器」として生きる覚悟(公共的正義、諒解されてある存在への注視)が必要です。それは、心身ともにあらゆる囚われから解き放たれた人だけに許されること、真実を知る権利と情報操作に対する発言権・抵抗権を、名を捨て自己責任に於いて遂行することですね。これを言い換えると、自由で有ることの(不可能な可能性に係わるのだという)「諒解」に基づくゲマインシャフト行為です。未だそうでないのにも拘わらず、自由人として期待され予期されること(他者の反応)に準拠して振舞う際に、妥当な蓋然性が有ることの認識が共有されています。
 それは両サイドで、常に悪用される危険性を孕んでいます。名を伏せてする社会的自己の発信行為は、情報源を操作し法制度を盾にする立場に対しては非力だから、テロリズムのように暴走しがちです。公共的存在の権利、「公権」とは何か、今後ブログでは理解社会学的に論じ明らかにしていきたい。
 真にアノニマスで有ることは、不法なダウンロードが規制されることに反感を抱いてしきりとネット攻撃を仕掛ける、気に食わないからウイルスを送りつけて揺さぶる、そういった愉快犯的な単独の無法行為や怪しげな国家的組織犯罪とはおよそ無縁(のはず)です。やはり、発信者が自ら名乗らない限り、実のところ線引きは難しいですね。ハッカーがクラッカーではないように、真にアノニマスで有ることは預言者的「自己否定」の極みですから、自由人で有る「かのように」見せる見事なマスクと、「諒解関係」に基づく経験妥当な生の技法が必要となるでしょう。公共的善はもちろんのこと、アノニマスで有ることの権利を保障する法への意識を高め、発言の「正当性」を内外に明らかにしないと、だれも納得してくれません。共鳴を得るには、魅せる何かが必要です。
これはあくまで私見です。反論があれば傾聴します。どうぞ…

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku