2012年2月14日火曜日

忘れられた栞:『自己のテクノロジー』、フーコー回想録

Vergessene "Technologie des Selbst", Lesezeichen aus dem Foucaults Seminar
【2月16日(木)更新】
  フーコーセミナーの記録、『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫)は、8年前(2004年)に買って読んだ記憶がありますが、いつの時代であれトラウマ(悪夢)のように、壁となって立ちはだかる「自己」なるモノへの係わり方・迫り方を教える点で、実に刺激的な書物ですね。二流・三流の参考書などゴミ箱に投げ捨てて、このようなリソース(生の討議資料)を熟読することが望ましい。ほら、憎まれ口を叩かれたあのフロイトが、生き生きと語り始めます。それでも、フーコーを読むくらいなら、むしろフロイトを読んで欲しい。意識上(表層)の葛藤は、大抵は無意識(深層)の中に原因となるヒントがあります。またデカルトを論じる余裕があったら、ぜひスピノザを論じて欲しい。気張らず自然体で自分と向き合えるようになります。私は最近、心理主義の立場で物を考えない、現象学的社会学や理解社会学に関心があるので、フロイトやフーコーの書物は長い間放置され、本棚の片隅にほこりを被っていました(笑)。
 久しぶりに手にとって再読してみると、フーコーが4世紀のシリア・パレスティナ修道会の瞑想法を参照している箇所に、自分の赤ペンが入っていることに気づき、懐かしい思いで一杯になりました。これを読む切っ掛けになったのは、講演の冒頭でも分かるように、禁欲主義に関するフーコーのヴェーバー解釈になっていたからです。これが後に、史的ダルマ論への一傍証を提供することになります。でもね、もて囃される刺激的なフーコーのそれより、学生諸君にはフロイトの古典『精神分析入門』の方をお薦めします。
 古典は原石です。古典の源流に遡れば遡るほど、忘れられた原風景がよりいっそう鮮やかに見えてくるでしょう。見た目に煌びやかな宝玉を都会に探し回るより、無意識の荒野を散策して原石を見つけ、鈍い原石の輝きを自分の目で味わうことが大事です。(スマートフォンに代表される)便利さを掃き捨てて、人より少し不便を感じるくらいの立場に身を置かないと、真理探究のハングリー精神は生じません。
 ひとたび自分史の分水嶺に立ち入ろうとすると、生身の手足は傷だらけになるのを覚悟する必要があるでしょう。当然、傷に付けるメンソレータムと絆創膏は必須ですね。特に峠付近は風が強く寒いから、杖とマフラーをお忘れなく。自分の峠までは獣道、何が潜んでいるかわからないからね、杖は「自己のテクノロジー」のアイテムとして欠かせません。携帯は使用不可、「影の国」には電波が届きません(笑)。


Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku