2012年9月27日木曜日

はてなの政治、みんなやらせのパワーゲーム?

Wie das politische Wesen in der weltweiten Machtspielerei aussieht
[10月1日(月)更新]
最近の竹島や尖閣諸島を巡りエスカレートするばかりの領有権の争いには、日本人の我々に理解できないことが多い。国内では曖昧で怪しげな政治言論(「近いうちに」)が徘徊する一方、国外ではやらせのパワーゲームが流行っているということなのか、はてなばかりで疲れる毎日、息つく暇がもらえそうにない。
嘘でも言い続けていると、パフォーマンスにはそれなりの実体が残る。日本の政治家は真理論争を受け付けないか忌み嫌う、名誉をかけた権力闘争のなれの果てか、駆け引きの言葉ばかりが聴かれる。領土に絡む戦争まがいのニュースに、つい背筋が寒くなる。遠い神話世界の話ではない、これは現にマスクしたヒト(政治屋とジャーナリストたち)が仕組み暗躍する、身近な現実世界の怖い話である。刺激的な味がないと大衆は言葉を食べてくれない。つまり、触手を伸ばすニュースとはならないのだ。
政治は決め技でするパワーゲームの世界、相手に根負けしない勝負師の言語感性が必要とされるから、勘所を弁えたパンチのある言葉でないと通じない(交渉に役立たない)が、なるほどと思わせる根拠(存在諒解の説得性)がないと諸国民の信頼と共鳴を得ることができない。それが野田さんにはあって、谷垣さんになかったと言っているのではない。阿部さんには期待できそうにない(私見、失礼ならお詫びする)。
国際政治がパワーゲームを展開するのは、狙いがあってのことだろう。たとえば、有利な条件で交渉に臨みたいという狙い。しかし、尖閣諸島は清国の領土であったことは一度もない、列記とした琉球王国(今日の沖縄)の領土であった歴史事実を忘れてはならない。それにしても、自国の領土主権について中国をしてそれほどまでに執拗に語らせるモノは、権力闘争の名目でない限り、ずばり金目となる資源確保の其れではないのか、と疑われる。覇権主義であれば尚更のこと、マルクスや毛沢東ともまったく無縁であろう。忍び寄る構造不況化への中国指導者たちの危機感を反映しているのであれば、民衆の不安・不満を逸らす為の政策的パフォーマンスに過ぎないようにも見える。
そうであれば話は早い。飛鳥の仏法やイスラム法、ゲルマン法やローマ法の違いはあれ、国際法に乗っ取った論争、グローバル時代の「諒解関係」を構築するに、民族的利害関心の垣根を越えて、規範と慣習を無から統合する法(ダルマ)の理解を深め、新たに経験妥当な道(タオ、公共的善を共有可能とするポイント)を理解社会学的に模索すること、面倒でもそれしかないように見える。他にあれば、異論また反論に喜んで傾聴したい。
共産主義が資本主義の技法を奪取して変質した今日的グローバル世界の政治状況は、一筋縄にはいかない。理解しようにも、あまりに複雑怪奇である。ヴェーバーのように、資本主義の精神を培ったプロテスタントの倫理とカルヴァンの法理解だけで判断できない、合理的判断の西洋的尺度と従来の社会常識(規範と慣習の摺合せ)が、そのままではもはや通用しないから。視界不良の国内と国際政治に今何が必要なのか、政治的存在の諒解可能性についてじっくりと再考すべき時であろう。領海の暗夜行路に羅針盤を探そうとすれば、見えざる法の解釈学が要請されよう。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku