2012年10月27日土曜日

エスを考える力に、マテリアをヒトの器に象るには

【2013年2月04日(月)更新】
 コンピューター技術の進展には、目を見張るものがありますね。私自身は、1986年頃に三洋電気のワープロ(サンワード)を、その後同社のAXパソコンを買ったことに始まり、歴史は長いです。、当時はまだ Windows 2.0の世界でしたが、IBM DOS 5.0 を経てその後Windows 3.1からOS/2 まで自在に使いこなしていたので、そうとうのヲタクでしたね(笑)。 それでもコンピューター関連の技師やプログラマーにならなかったのは、私がそれを常に考える道具としてのみ扱かっていたからです。マルチリンガルな文書を作成するにはどういうプログラミングが必要かを理解しつつ、試行錯誤で自作したプログラムやマシーンは数え切れません。
 当時面白いプログラムがあって、Who ist God?(「神様ってだ~れ?」)と言うんだけど、アイコンをたたくとね、マイクロソフトのビル・ゲイツの顔が表示されたので、驚いた記憶があります。今日では、アップルのジョッブズさんの顔になるでしょうかね。
 前回のブログの続きを書くと、便利なスマートフォンやアイフォンを使うとしても、考える余裕を如何にして残すか、私の関心はそこにあります。邪魔なら捨てる、それが私の信条です。タッチパネルでなくても、電話やメールでの連絡は従来の携帯電話機器で十分だから、まだ買ってまで使う気にはならない。それでも、電子書籍関連のタブレット(キンドルやネクスス7)には強い関心があってね、近日中に発注したいと思っています。もちろん、それには目的があってのこと、古典や近現代の貴重なテクスト資料をPDF化し、いつでもどこでも読める機会を手にしたいということ。更に、それを使い考えた結果を公共の善に役立てないと、これまた意味がない。
 何を買い求め使うにしても、プライベートな趣味で終わらせず、「それ」を考える道具としマテリアを「載道の器」に象る工夫が必要だと考えています。君たちも買ったらいい。ただ、使う目的意識を大事にしはっきりさせておかないと、便利さあまりにその内考えることさえ面倒だと思う、考える要件を必要としなくなる恐れも避けがたいので、衝動買いをしないようにね。気が付いた手足がなくなって、ららんらんと光る眼球だけしかない、鬼太郎の親父さんのようにならぬよう(笑)、くれぐれも注意してくださいよ。
 「それを考える道具に」と言ったけど、「それ」は内外に働くモノのエスのことです。では、ここで問題です。(衝動を含む)エスを考える力にする、マテリアをヒトの器に象る工夫ってあるのかな?あるとすれば、どうやって?さぁどうぞ、全身を耳にしてお伺いします。

Shigfried Mayer, copyrights all reserved, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku