2012年1月3日火曜日

年頭所感:「絆」で温もる、生活世界の原風景を

Wiederentdeckung einer Ur-landschaft, wo man in den familiaeren Banden leben kann.
【1月25日(水)更新】
新年のご挨拶を申し上げます。明けまして「おめでとう」と言うことがひどく憚れるほど、昨年2011年は深い傷跡を東北の方々にもたらしました。被災者を初め大半の国民が、家族の絆の大切さに改めて気づき、その点で思いを一つにしたのではないでしょうか。長い間、日本社会が家庭崩壊や学級崩壊という人間デフレで苦しんだ果ての震災体験、社会の基本が身近な友であり家族であること、失われて初めて身近な存在者の「絆」(band)の大事さが忘れがたく身にしみて、私たち国民の心を激しく揺さぶりました。
 そこで、今年の年頭所感は、私が学生だった頃の愛読書、フロイトと肩を並べる異彩の精神分析学者、「言語療法」(ロゴセラピー)で知られる、ヴィクトール・エミール・フランクルの言葉をお贈りします。以下はすべて私訳です。
私たちを襲う過酷な「宿命は、大地のように人間に属しています。人間は重力によって大地に縛り付けられています。しかし、それ(大地の縛り)なくしては歩行は不可能なのです。私たちが立っている大地に対するのと同様に、宿命と向き合わなければなりませんが、これを自由に対する私たちの跳躍台としなければならないのです。宿命なき自由は不可能です。(私たちの)自由は、宿命に対する自由という仕方でのみありえます。」(『死と愛』)。アウシュヴィッツという強制収容所の壁を体験した人の言葉、ずしりと重たいですね。過酷な宿命に対する仕方で、つまり彼が重視する「態度価値」乃至行為価値としてのみ、自由があり得るのだという主張には、強い説得力がありますね。その意味で、邦訳の「運命」でなく、自由に余地を残す「宿命」が正解、訳語としてこちらが相応しいと思われます。
「およそ、生きること自体に意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずです。苦しむこともまた生きることの一部であるなら、宿命も死ぬことも生きることの一部でしょう。苦悩し死ぬことがあってこそ、人間という存在は、初めて完全なものになるのです。」(『夜と霧』)。この言葉には、愛する妻を思い彼女との「絆」を獄中から再確認することで、どんな苦しみにも耐える意味を見いだし、決して諦めない、壁の彼方に自由を見届ける前向きな気持ち、容赦なく襲いかかる苦難に負けず怯まず、「それでもなお、生きることに然り(ヤー)と言う」一貫した「態度価値」、宿命に押しつぶされそうな青息吐息の人の言葉でない、不思議なくらい熱い命の息づかいが満ち溢れていますね。
 年頭に当たり、今一度被災者の思いを自分のこととして受け止め、友や家族の絆を、存在の温もりとして、一緒に取り戻したい。「絆のある生活世界の原風景」を描き直す一年としたいと存じます。「家族社会学」については、いずれ時を見計らって論じることにします。改めて、2012年が「絆」を元手に(自分がでなく、他の人が種を蒔いた、その)「実りに与る」体験の元年、飛躍の年となりますよう、皆様のご健勝を心より願いつつ、新年の挨拶といたします。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku