2012年3月15日木曜日

自然は無差別、人間(社会)は差別的、なぜなの?

Die Natur wirkt ohne Diffrenzen, der Mensch macht sich  Diffrenzen, warum?
 2011311日から一年を経た今日、至る所で一周年記念のお話が聞かれます。何を記念とすると言うのでしょうか、不可解千万です。一周年記念の教訓的話など、聞くのはもううんざりです。自然学に対して、人間は形而上学を企ててきました。それも字義通り、超自然学(Metaphysik)をね。果たして、本当に自然の働きを越え出ているのか、疑わしい限りです。
現に私たちは見たではありませんか、家族の絆や人間関係が根こそぎ断ち切られ、仕事場も家屋も名誉も財産も瞬時の内に剥奪された挙げ句の果てに、一切が無に帰せられた、高ぶる波と原発によるあの壊滅的な出来事を。人間の叡智を誇ったスーパー堤防は全く何の役にも立たなかった。その衝撃的な事件を目の当たりにして、いったい私たちは何を語ることが出来るというのでしょうか。お寺も神社も教会も無差別に、津波に根こそぎ流されました。自然って何だろう、自然の働きに対して人間が主張する自由って何だろうと、真剣に考えさせられる一年でした。名ばかりの自由化と自由人の不在という不思議は、今に始まったことではありません。自由とは、社会の抑圧や縛りに対してそれからの自由ということであって、自然からの自由ではなかったはずです。自然の恩恵に与りながら、我が身を不利に陥れる働きの方だけは容認しないとは、人間の自己意識って我が儘ですね。そう思いませんか?神も仏もあるものかと疑い、呆然と立ち竦んでいる諸君の正直な気持ち・意見をお聞きしたい。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

3 件のコメント:

  1. 先日、一周年記念の、「技術の危機と哲学」と題された教訓的話を聞いてきました(何分私はミーハーな性分なもので。スマホも持ってますし 笑)。それは危機(Krise)の概念をさらった後に、哲学の可能性について考えるものでしたが、危機とメディアについての話が印象に残りました。講演者いわく、諸々の危機が話題になるのは大抵まずメディアにおいてであり、我々が経験するのはメディアを通じてでしかない。そしてそれは個々人の経験の喪失であり、ネットワーク上で結合した人間は絶えず諸々の危機等に直面させられるが、自分固有の経験世界の内にそれを置づけることができない、のだそうです。確かにその通りです。東京に住む私は、「壊滅的な」出来事は、メディアを通して経験するのみでした。それなのに私は、経験したつもりになっていました。「自分固有の経験世界の内に位置づけ」てもいないのに。それでは当然、何も語ることができません。さしあたり「自分の経験」にするため、壁でも観つめ、はたらいたものを見定める必要を今更ですが感じます(先生に媚を売っているわけではありません)。

    さて、自由ですか。私は森田バカですので、自由というと真っ先に、またと思われるかもしれませんが「繋驢杭」の例えが思い浮かびます。自然の働きに対して人間が自由になろうともがく姿は、杭から逃れようとがんじがらめになるロバと同じであり、滑稽でしかありません。陳腐な表現ですが、人間は自然に生かされているにすぎませんし、自然は人間の力でどうこうできるものではありません。それは「スーパー堤防は全く何の役にも立たなかった」ことや、原発災害などから明らかです。自然による不自由あるいは限界は、容認すべきものではないのでしょうか。それを「受け身」であると取り違えるのはもうやめにしませんか、それじゃあ自由になどなれませんよ、と訴えたい。D・レイノルズの著書にこうありました。「自由が可能になるのは限界がはっきりつかめ、自己規制がうまく行われるようになり、自分が置かれている環境を全注意力をもって利用することができるときのみです」(『行動的な生き方』p46-47)。「我が儘」はやめて限界あるなか、自然(環境)は利用するべきなのです。

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  2. 先生が言う通り、東北大震災は記念として語り得るものではありませんね。
     あの地震で僕たちが得た何か、それは、自然という超越的なものがもたらす僕たちを不利に陥れる現象から身を守る対策を立てるべきだという教訓よりも、むしろ家族や友人との絆の大切さ、大切な存在との関わりがあることがいかに幸せなことかという教訓だったと思います。
     人と人との関わり合いがどれだけ大切なものなのか、僕たちは再認識できたのではないかと思います。そしてその大切さを胸に、今その人たちとのコミュニケーションをじっくりと密にとることが僕たちには大切なことなのだと思います。
     そうやって今ある時間を大切にすること、その姿勢・心構えが僕たちには必要なのかなと思います。
     今を大事にしていれば、不条理な現実(自然の、人間を不利に陥れる負の部分)も受け入れることが出来るのではないでしょうか。

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  3. 芳賀さん、権利として自由を行使できるのは、上限と下限(言葉と無)をしっかりと見据え捉えている人だけ。軽々しく超自然を持ち出すなんて憚れる、でしょう?だから大抵の人は、自由人である「かのように」、振る舞うほかないのです。「受け身」の話はよく分かりませんが、レイノルズについては、次回の研究会で論じましょう。
    匿名さん、投稿ありがとう。自然の本質を理解することなく利用することしか考えない(損得勘定でしか行動しない)から、人間は自分に躓くのだと思いますね。私たちのする行為は、他人に関係づけられて初めて意味を持ちます。そう、あなたが言うとおり、他人に時間を割くにしても、それぞれに固有な時間存在を理解し大事にしてあげることなしには、自然の恵みを享受する資格はないし、豊かな社会は築けないと思います。

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