2014年2月5日水曜日

他人事でない鬼退治、自分の鬼子にどう向き合うか、難問だよ

 2月は節分の季節ですね。節分と言えば、「鬼は外、福は内」で、豆撒きをして楽しくお祝いしています。東洋の説話文学では、古来鬼は渡来者のルートに係わりがあるようです。例えば、タミール語で(怨念から来た?祟る)モノ、たいていは女性の恨み・辛みに起因すると言われています。或いは逆に、男性の恨みにも係わることで、渡来系(蝦夷系、アイヌ系)のヒトを「天狗」と呼び、邪魔者・異物者して扱う。これが鬼子となると、そう簡単には追い出せない。
 精神分析学でいえば、赤鬼は内心の不満が高まり怨念となり、燃え盛る火のように怒るモノの働き。青鬼は内心の不安を煽り、猜疑心を焚き付ける、冷酷無情を駆り立てるモノと言えるでしょう。いずれの刺激も同一根の衝動(Betrieb)である。
 蝦夷征伐を大義名分とした征夷大将軍の仕来りは、政治的な意図を持った、民意を逸らす目的で設けられたことでしょう。自分自身の赤鬼・青鬼はそっちのけにしてね、無知な大衆には豆(金)をばら撒くわけです。いずれにしても、鬼は怨霊と係わりがあります。
 他方欧米では、悪魔とか悪霊とか言いますね。サタン(ヘブライ語)やベルゼブル(ギリシャ語)と言った、人を誘(いざな)うモノの働きで、誘惑者は人格的存在です。たいていは、命じるモノと委託を受けて働くモノが結託している。イエスが荒れ野で、サタン(悪魔、悪霊の頭)から試練を受ける話しが有名ですね。わざわざ、「天使がそばで仕えていた」と添えられている。「サムエル記」では、サウル王を襲った憂鬱の悪霊も癒しの善き霊も、(絶対有の)神から来ていると指摘していた。そういえば、ゴウタマ・シッダルータにも「悪魔との対話」というのがある。こちらは教えを妨げる教師・悪しき知恵者だが、絶対無の立場から向き合う形となっている。
 鬼の話しがエージェントに及ぶと、国政や都政と無関係ではない、よく考えて見ると深い関係がある。してみると、東西文化の文化風土の違いを超えて、自分たちの赤鬼・青鬼、鬼子とどう向き合うのか、それが鬼門としても避けて通れない、共有すべき社会問題となるのではないでしょうか。節分の季節も都知事選挙へ向けて、この問いを読者の諸君への誘(いざな)い事としたい。
 付記: 都知事候補者の一人桝添えさんは、過去に自民党を飛び出した(脱藩した)だけでなく、女性や高齢者をばかにした侮蔑発言をするなど、かねてから毒舌者の経歴がある。その点で、自民党にとって彼は鬼子、彼を擁立することは鬼門でないかと思えたので、このブログを書いてみました。烏合離散の派閥的な勢力争いをする政党政治には付き物ですが。一度スピノザの『国家論』をお読みなったらいい。すっきりしますよ(笑)。
(2月8日更新)

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2014, the Institute for Interpretive Sociology