2017年8月6日日曜日

直感と直観、湯川秀樹と小林秀雄の対話から

『直観を磨くもの』(新潮文庫710)、小林秀雄の対話集を読んでみた。各界を代表する人物の中でも、湯川秀樹との対談になると、小林の鋭い直観が空振りし始める。湯川は科学者らしく、そうかもしれぬがそうでないかもしれぬと、返答はのらりくらりとして、エントロピーを巡る人間の直感に付け入る隙を与えない。小林が困るのは、評論しようとして持前の直観で物言うのだが、それが相手に通じない。第三者の立場を想定した、謂わば観測者の物言いが退けられる、壁に撥ね返されるからである。理性の因果律を巡りやり取りされる中でも、確率論となると熱い火花が散り始める。小林には、パスカルの『パンセ』(実験的精神の、賭けとしての確率論)が脳裏にある。
 では、科学者に、直感や直観は無いのだろうか?科学の真理は直感や直観の対象でないと云うことか? 湯川秀樹だけでない、チャールズ・サンダース・パースも科学職の人である。先行認識なしに物事の認知は成立しない。直観の介在を認めないのは、専ら連続性の確信からである。それもまた、科学者の直観ではないのか、数学的直観があるではないかと、最後まで疑問が残る。
実は、達磨の壁観(へきかん)は直観の対象でないのか。そうでないとすると、どう違うのかを考える中で、パースのことが思い起こされた経緯がある。達磨の禅に、近代のプロテスタント宗教改革を偲ばせるものがあるのは何故だろうか、現在考え中である。ジョン・パースは、ニューイングランドに移民した清教徒(ピューリタン)革命世代の人である。ジョンの孫にあたるチャールズ自身の確信には、理神論(デイズム)的認識の合理的枠組みがあり、それが下敷きとなって彼独自のカテゴリー論を形成しているのではないか。『資本主義の精神とプロテスタントの倫理』(マックス・ヴェーバー)の担い手を巡り、再考の余地がある。
手許には考えるヒントが多くあり過ぎて、落ち落ちと居眠りなどしてはおれない、もったいない。心も体も躍動する毎日で、手掛けている書物(『史的ダルマの研究』)も六百頁に近く、これより七百頁目に入る。今年はマルティン・ルター宗教改革五百年祭というが、本年中に出版に漕ぎ着ければ光栄である。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2017, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo

0 件のコメント:

コメントを投稿