2017年10月8日日曜日

一般社会学言論講義は、終わりから始める対話の技法

 一九八八年以来三十年務めた獨協大学での最終講義(テクスト研究)は、受講者と相談の結果、テクストはマックス・ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』構想に決定しました。実は、何処から切り込んでも同じなんです、シュライエルマッハーの弁証法講義でも、ハイデガーのプラトン講義でも、自他と向き合う仕方を学ぶ点で、禅で云う「己事究明」(こじきゅうめい)に尽きることです。これを、主観的意味理解と客観妥当性を巡り社会学的に「諒解経験」(りょうかいけいけん)として論じるか、弁証法で対話する「心」について心理技法(後の精神科学)から論じるか、洞窟の壁に映じる影を観て、真理に関する譬喩言論を捉え直し、「覆われの無さ」として自己究明をするか。いずれも同じことです。学生諸君の決断に敬意を表し、この秋学期は一番身近な問題、自ら理解することが誰にでも納得のいくような経験妥当性を得るにはどう対話したらいいのか。終りから始める対話の技法を習得する為に、一般社会学言論の総論を講義じます。その真骨頂は公開性、覆われの無さにあり、今日衆議院選挙をめぐりお騒がせな政治家の崢論(じょうろん)でも然り、いずれ、影で何と向き合っているかではっきりとします。近代人の陥りやすいジレンマについては、一緒に考え追求してみましょう。私が学び得たすべてを提供します。終りから始めること(目的合理性)に関心のある方の聴講を募ります。

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